ネットを断てば『真理にある自由』を得られる、という錯覚について・その2

2015年7月30日木曜日

雑記

t f B! P L
 某ホームスクーリング団体が提唱する「ソーシャルメディア断食」について。2回目。

 前回は、ネット断ちしたからって『真理にある自由』が得られるんじゃありません、って話だった。
 今回は、その「ネット断ち」の方法について。

 彼らが言う「ネット断ち」の方法は、「キリストの恵みと聖霊の力によって鎖を断ち切る」ことらしい。
 これがどういうことかわかりやすく翻訳してみると、「具体的な策は何もありません。とにかくネットを我慢するだけです」ということ。

 だから挑戦者は普段使っているスマホやSNSを、自分なりのやり方で使わないようにし、1日我慢できたかできなかったか、事務局にメールを入れるのである(たぶんその時スマホを使うんだと思うけど)。

 だからその努力も結果も「本人次第」である。まあ強制されるより良いけれど。

 これの何が問題かと言うと、ソーシャルメディアがそんなに悪いもので、聖霊の力で断ち切らなければならないほど深刻な事態なのなら、方法論としてダメすぎるってこと。つまり断ち切らなければならないほど危険なのに、ただ「個人の努力で我慢するだけ」じゃダメでしょって話。

 たとえばアルコール依存症の治療を真剣にするのであれば、抗酒剤の内服とか教育指導とか、リハビリとか自助グループ参加とか、イロイロある。けれどそれらをバラバラにやっても無駄で、基本的に専門施設に入院しなければならない。それで強制的にお酒から遠ざかる状況(どうにもお酒を入手できない状況)にすることから始めて、専門家と一緒に何か月もかけてリハビリをしていく。それくらいしないと(ふつうは)依存症から抜け出せない。というか、そこまでしても結局元に戻ってしまうこともある訳で、依存からの脱却は決して簡単なことではない。そこでは「個人の我慢」などタカが知れている。

 もちろんスマホとかネットとかを1日我慢するのとは事情が違うし、そこまでしなくてもって話だろうけれど、じゃあなんで「あらゆる支配力からの自由体験」とか「聖霊に力によって鎖を断ち切る」とか、「『真理にある自由』の体験」とか、そういう大それた話になるのだろうか。ちょっと我慢してできることなら、そんな必要ないだろうに。

 逆にスマホ断ちやネット断ちが難しいことで、ちょっと笑えない状況になっているのなら、やっぱり「個人の努力」だけではダメなのである。キリストの恵みとか聖霊の力とか言うけれど(決してそれらを軽く見るつもりはないけれど)、具体的な策がなければ、ただのキレイごとでしかない。どうしても断ち切らなければならないなら、確実にできるという見込みのある方法を取るのが普通だろう。

 もう一つ書いておくと、「聖霊の力によって鎖を断ち切る」と言っておきながら、「失敗してもOK」と言うのは、むしろ聖霊の力を軽んじているように思える。できたらラッキー、ダメでもともと、みたいなノリじゃないだろうか。そこに神様ってなんか関係あるんですか。

 こういう「個人の我慢」はべつに信仰的なことではない。そもそもLINEとかツィッターとかを使わないことが神様を喜ばせることにはならない。むしろ神様が許容しているから存在しているソーシャルメディアにダメ出ししている訳で、そっちの方がどうなんだと思う。もちろん使う使わないは個人の自由だし、神様はそういう選択の自由を良しとしていると思うけれど。

 その意味で、ネットやソーシャルメディアを悪とみなすのも自由である。けれどそれで「ソーシャルメディア断食」をするのなら、あやふやな「個人の我慢」に任せるのでなく、徹底的にやるべきだろう。たとえば「ソーシャルメディア断食大合宿」とか企画して、あらゆる通信機器の持ち込みを禁止し、早寝早起き3食昼寝つきの規則正しい生活でもさせてみたらどうだろうか。それらが悪であって、自分たちの大事な子どもを守りたいと思うなら、それくらいやっても罰は当たらないと思うけれど。

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