「祈ってます」と言わないで

2023年11月1日水曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L

 「祈ってます」と言うのも言われるのも嫌いだ。理由は以下の通り。

①「祈る以上のことはしません」という宣言に聞こえる。

 「神様がなんとかしてくれるでしょう」と。何かしてほしいわけではないけれど、具体的に何かする気がないなら黙っててほしい。「祈ってます」を添えることで敬虔ぶらないでほしい。


②会話を終えるうまい言葉に聞こえる。

 「ちょっと何て言ったらいいか分からないから、『祈ってます』で終わりにしとこう」みたいな。


③何をどう祈ってくれるのか、具体的に分からない。

 例えば「彼が従順になりますように」とか祈られても、私は従順になんてなりたくない。この話でよく聞くのが「あの人の同性愛が治るように」祈るというもので、余計なお世話だし、差別言説だし、祈りでカモフラージュした暴力だ。何でも祈ればいいというものではない。何がどうなるように祈るのか、ちゃんと説明してくれないと(ちゃんと考えているのかどうかも怪しいけれど)、「祈ってます」はとても雑な言葉に聞こえる。


④祈れば何かしら解決する、と断言できない。

 中には「祈れば神様が介入して下さる」と真剣に信じていて、100%善意で「祈ってます」と言ってくれる親切な人がいるかもしれない。けれどそんなことは断言できない。善意であっても無責任なのは良くない。


⑤(これは個人的なものだけれど)祈りを信じていない。

 私は祈りで何かの問題が具体的に解決すると信じていない。祈りは「神に語りかける」行為であり、それ自体に意味があり、それ自体が目的であると考えている。「結果」を期待するものではないのだ。だから「祈ってます」と言われても正直「何のために?」と思ってしまう。あなたがそれで満足するなら、好きなだけ祈ってくれていいけれど。

 誰かが悩みを相談してくれたら、自分はできるだけのことを具体的に行動したいと思う。安易に「祈ってます」で済ませたくない。なぜなら相手は自分を信頼して、相談してくれたのだから。

 もちろん「祈る以外に何もできない」状況は存在する。けれど初めから「何もできない」と判断するのは違うと思う。


 具体的に何か行動が「できる」にしても「できない」にしても、「祈ってます」と言うと、いかにも相手のことを心に留めているように聞こえる。しかし心に留めて、心を痛めているのなら、他にも言うことややることがあるのではないだろうか。そこを「祈ってます」で片付けてしまうとしたら、本当に相手のことを心に留めて、心を痛めているのか疑問に思う。


 自分は誰にも「祈ってます」と言わない。「相手にかけるべき言葉」は、その状況やタイミングや関係性でその都度変わっていくから。そこを考えて悩むのが「相手を気に掛ける」ことだと思う。しかし「祈ってます」はそのプロセスを全部すっ飛ばしてしまう。「祈り」を安易な、軽薄なものにしてしまうのだ。

QooQ