SNSを見ていると信仰が揺らいでしまう?

2024年1月30日火曜日

キリスト教信仰

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 「SNSを見ていると(様々な立場に触れて)信仰が揺らいでしまう」人がいる。

 最近見たその人はSNSを辞めると言っていた。その揺らぎに耐えられなかったらしい。


 SNSで信仰が揺らいでしまう理由は幾つかあると思う。自教会で禁忌とされている事柄に「誘惑」されそうになるから。あるいはキリスト教でない多様な意見や価値観に晒されるから(時に信仰を否定されたりもするから)。あるいは同じキリスト教の、自分と全く異なる立場に遭遇するから。


 それらは自分の信仰を邪魔する「ノイズ」のようなものなのだろうか。それで信仰が揺らいでしまうのは「信仰が弱い」からなのだろうか。


 しかし「SNSを見ていると信仰が揺らいでしまう」のは、信仰が弱いからではないと私は思う。断定したり盲信したりしない、視野の広さがまだ残ってるのだと思う。


 信仰は実のところ論理ではない(例えば「死んで三日目によみがえった」のを証明する手立てが何もないのに信じるのは、少なくとも論理的ではない)。だから「論理的正しさ」を追求すると無理が生じる。結論を留保し、分からないものは分からないとし(少なくとも現時点では分からないとし)、あえて揺れる状態にしておくのが良いと思う。


 もちろん「これをこう信じればいい」みたいな分かりやすい答え(いわゆる「正解」)があった方が安心だろうし、宗教に求めるのはそれかもしれない。けれど少なくともキリスト教は、聖書を読んでもはっきり分からないことが多い。「これはこうかもね」「いやああかもね」などと考え続け、迷い続け、対処すべき事態に(答えありきでなく)その都度手探りで対処しいてくのが「健全」な姿だろうと思う。


 「分かりやすい答え」に安心すると、それ以外の可能性を全て排除してしまう。そうでないと信仰を保てないからだ。「分かりやすい信仰」は、それに当てはまらない人や物を切り捨ててしまう。しかし世界は多様で複雑で、色々な事情が絡み合っていて、一見簡単そうでも、全然簡単ではない。分かりやすくない。安易に切り捨ててはいけない。


 しかし信仰者には「分かりやすい答えに安心したい」人の方が多そうだ(自分もそうだった)。だから上記のような不安定さや、揺らいだ状態を「不信仰」「信仰が定まっていない」などと決めつけたくなる。結果、信仰を持つ人には「盲信的」「頑固」「話が通じない」等のネガティブなイメージが付きやすい。本来はそれらのイメージの対局にいるのが、信仰者だと私は思う。

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