クリスチャンの同棲や婚前交渉の本当の問題点は

2023年12月6日水曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンの結婚や同棲、恋愛や交際や婚前交渉について「こうすべき」「聖書はこう教えている」「それをしたら罪」などと介入するのは無責任だ。その言葉に従った人たちの結果に、何の責任も持てないのだから。信仰は自分でするものであり、他者に強要するものではない。あなたの恋愛観や結婚観(それが信仰に基づくものであってもなくても)を適用できるのは、原則あなた自身に対してだけだ。

 そもそも信仰があってもなくても、他人の恋愛や結婚に(あるいは人生における様々な選択に)部外者が口を出すべきでない。子どもに対しても、ネット上の見知らぬ相手に対してもそうだ。しかしそうしたくなるのは、実は下半身の話に興味津々だったり、他者をコントロールしたい支配欲があったり、自分の信仰の正当性を主張したかったりするからだ。どれも幼稚な動機だと言わざるを得ない。

 あるいは「純粋な信仰」や「親切心」から「教えなければならない」と考えているのかもしれない。けれどここで大切なのはあなたの側の動機ではない。それが相手にどんな影響を与えるか、だ。


 例えば(婚前の)同棲を禁止されると、同棲期間に気づけたはずの問題にしばしば気づけない。その問題のせいで離婚するなら、同棲しておいた方が良かったはずだ。

 あるいは「婚前交渉は罪」といっても、婚前交渉に至る経緯は様々だし、必ずしも本人の願望のみで行うとは限らない。不本意な場合、暴力によって強要される場合もある。そうでなくても複雑な事情や、本人の責任のみに還元できない背景を無視して、「婚前交渉は罪」と一律に決めてかかるのは一方的だし無知だし暴力的だ。その暴力性はキリスト教に対する嫌悪感、忌避感にも繋がる(そもそも今の時代、婚前交渉から完全にクリーンでいられるのはある種の特権だ)。


 もちろん同棲自体の良し悪しは一概に言えないし、婚前交渉に伴うリスクを無視して「してもいいんだよ」と言うのも無責任だ。しかしまったく同じ意味合いで、一方的に禁止するのもまた無責任なのだ。どうせ教えるなら、同棲や婚前交渉について様々な角度から具体的に(ポジティブな面もネガティブな面もできるだけ公平に)教えた方が良い。

 他人の選択や生き方に、そもそもあなたは関係がない。相手が子どもや身内や友人やであっても、介入すべきか、どこまで介入すべきかは慎重に考えなくてはならない。いやそれ以前に、「どうして自分は介入したがっているのか」を考えなくてはならない。そしてそれは詰まるところ、自己満足に帰結することが多い(「言いやすい相手にしか言わない」のなら確実にそうだ。そのダブルスタンダードを恥じてほしい)。


 キリスト教界隈で同棲や婚前交渉の話題が上がる背景には、クリスチャンどうしの「きよさ自慢」がある。誰が「きよい」のか、誰が「霊的」なのか、誰が「正しい」のかを無自覚的にマウントしているのだ。しかしそんなクリスチャンたちが(あるいは教会が)日々排除している人たち、無意識に差別している人たちの存在に気づかなければならない。権威を振りかざして信徒たちを支配する牧師の悪に気づかなければならない。


 聖書をこねくり回すより大切なことが、目の前に山積みになっている。その大きな山を無視して、同棲や婚前交渉について、言いやすい相手にだけ釘を刺すのは恥ずかしくないだろうか。

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