礼拝の形式が「壁」になる

2023年11月22日水曜日

教会生活あれこれ

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 プロテスタントの聖霊派や福音派で嫌な思いをした人が、日本基督教団やルーテルや聖公会やカトリックに移る話はよく聞く(逆はほとんど聞かない)。けれどそのまま定着しているのだろうか。というのは、「移ってみたものの、やはり聖霊派や福音派の礼拝スタイルでないとしっくりこない(大意)」という声をよく聞くからだ。

 私もそのタイプだ。聖霊派でよく歌われるワーシップソング(ヒルソングやベテルやミクタムなど)に馴染んでいて、他の教派の賛美(「聖歌」や「讃美歌」や「讃美歌21」など)が歌えない。申し訳ないけれど、曲そのものもあまり好きになれない。もっと言うと祈りも説教も形式的で「退屈」に思えてしまう。だから「聖霊派の教会には行きたくないけれど、聖霊派の礼拝でないとしっくりこない」という二律背反が起こる。


 歌の力、音楽の力は強い。人の気持ちを高揚させ、感情を揺さぶり、時に涙を誘う。聖霊派の問題はそれを「霊的高揚感」や「聖霊の強い臨在」に変換してしまう点だ。実際には同じことが一般のライブハウスやクラブでも起こっていて、全然「霊的」なことでないのに。


 音楽で気分が高揚したり、感動して泣いたりするのは良いことだ。キリスト教信仰の超自然的体験と結びつけるのでなく、ただワーシップソングとして(ある意味、神様と切り離した形で)感動したい。ダメだろうか。


 説教も聖霊派はエンターテイメント性を重視している。いわゆる「堅苦しい話」でなく、笑えて泣けて、感情が大いに揺さぶられる体験でなければならないのだ(私の牧師も「最初の15分はひたすら笑わせることに集中する」と言っていた)。その点で落語や漫才の感覚に近い。説教としての軽重はともかく、そういう「エンタメ説教」に慣れている(むしろ説教とはそういうものだと思っている)信徒が、他教派の説教を聞いて「退屈」に感じるのはやむを得ないのかもしれない。

 聖霊派の「いいとこ取り」ができないかな、と私は常々思っている。ワーシップソングを思いっきり歌うけれど、「霊的」なわけではない、みたいな。説教は紋切り型の結末に向かうのでなく、起伏に富み、かつ重要な社会問題にグイグイ切り込んでいく、みたいな。大それた考えだとは思うけれど、そういう教会が作れたらいいな、と半ば真剣に考えている。それが礼拝の形式という「壁」を乗り越える、唯一の方法かもしれないから。


余談


 この手の話で「アングリカンパスで信仰ロンダリング」という方法を聞いた。

 自分の教派から物理的にも精神的にも離れるため、一度「聖公会」へ移って、そこでゆっくり考える。そして次の場所を求める。つまり聖公会(アングリカン)を通る(パス)ことで頭の中を一旦リセット(ロンダリング)する、という方法らしい。脱色効果を狙った信仰ロンダリング。

 関心のある方は、一度聖公会の門を叩いてみてはいかがだろうか。

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