クリスチャンのお焼香問題

2023年12月13日水曜日

「偶像崇拝」問題

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 お焼香は「偶像崇拝」だから上げてはいけない、という言説はキリスト教界隈で根強い。

 海外からきた宣教師がお焼香を見て「これは偶像崇拝だ」と言ったのが始まりだ、と聞いたことがある。事実だとしたら、それ以前は日本のクリスチャンもお焼香を上げていたことになる(そして何も問題なかったはずだ)。事実でなくても、欧米のキリスト教宣教師がアジアやアフリカの宗教や文化を「劣ったもの」「前時代のもの」と否定して廃棄するのは植民地支配の流れで無数に行われてきたことだ(社会進化論的な発想もその根底にある)。お焼香がその文脈で(「偶像崇拝」という名目で)否定されても不思議ではない。


 私はこの言説に違和感がある。「偶像崇拝」と言うからには拝む対象が必要だが、お焼香は(特にお葬式におけるお焼香は)誰かを拝むものではないからだ。故人との別れを悲しみ、悼むために行うものだからだ。それを一方的に「偶像崇拝」と決めつけるのは無理がある。弔う行為を(お葬式そのものをも)否定している点でも問題だ。キリスト教にそんな権限はない。この言説を擁護する人たちは、自分たちの傲慢さを自覚した方がいいと思う。


 「お焼香の行為そのものに霊的な力があり、上げることで悪霊の影響を受けてしまうのだ」という根拠のない言説もある(「霊的」という言葉が出た時点で怪しいけれど)。しかしキリスト教は「心の内面」や「動機」を特に重視するはずだ。礼拝においては「霊とまことにによって礼拝しなさい」とよく言うではないか。つまり礼拝しても「心がこもっていない」と見做されたら礼拝したことにならないではないか。なのになぜ、「偶像崇拝」に限って「行為だけでアウト」になるのか。「心の内面」や「動機」はどこに行ったのか。 

 この問題のもう一つの厄介な点は、「お焼香はNGだけれど仏葬に参列するのは構わない」という、一見中立的な立場のクリスチャンがいることだ。彼らはお葬式に参列して、遺族や参列者の面前でお焼香を拒否する。お焼香の代わりに「神に祈る」人もいる。百歩譲って事前に喪主とそう取り決めているならいい。しかしそうでないなら無礼だと思う。むしろ遺族の心情を思って、参列しない方が良いとさえ思う。祈りならどこでも捧げられるし、神はどこでも聞いているのだから。なぜわざわざ「お焼香しない」姿を見せに行くのか。


 自分がどういう信仰を持っているかにだけフォーカスするのでなく、相手がどういう信仰を持っているかにも心を向けるべきだ。故人は仏葬で送り出してほしかったかもしれない。遺族は仏葬で身内を弔いたいかもしれない。その意思(遺志)を無視してあなたのキリスト教信仰を押し付ける、その心に弔意はあるのか。


 自分の信仰を一旦脇に置いて、相手の信仰や意思に沿うのもまた、信仰者として大切なことだと私は思う。


 その意味で仏葬におけるお焼香は、宗教を越えて個人を弔う行為になる。故人へ贈る香になる。それでも上げる上げないはもちろん個人の自由だ。けれど私はあえてお焼香を上げさせてもらう。それで「偶像崇拝」とやらで裁かれるなら望むところだ。


 お焼香を「偶像崇拝」と考える人たちが今一度考えるべきなのは、「お焼香は偶像崇拝だ」という文字列そのものが、それを言うあなたたちにとって「偶像」なのではないか、という点だ。


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