「主からの懲らしめ」という名の暴力

2023年12月28日木曜日

教会生活あれこれ

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「主の取り扱い」の暴力性

 聖書の「主からの懲らしめ」や「神は愛する子を叱る」などの「しつけ」系メッセージは、教会で不当に扱われても「だから我慢しろ」という根性論に回収されやすい。しかし不当なことにはノーと言わなければいけないし、加害者がちゃんと罰せられなければいけない。


 福音派や聖霊派が大好きな「主の取り扱い」という言葉は、本来は「主がその人の人格の問題点を取り扱われる」というような意味だけれど、実際は信徒を虐待し、矯正し、洗脳するために使われることが多い。「主があなたのこの部分は変えたいと願っておられる」という名目で。「これは主の取り扱いだ」と言えば真面目な信徒は逆らえないだろう。しかしそれが本当なら、神様は人格を無理やり矯正しにかかるサディストだ。


 「主の取り扱い(しつけ、矯正)」という名目で、自分はよく「壁から出てきなさい」と牧師に言われた。「殻を脱いで自分自身を出しなさい」というような意味だけれど、要は明るく陽気でいなさいという「脱陰キャ令」だった。スポ根体育会系クリスチャンこそ良いクリスチャンだ、みたいな価値観だったと思う。では神様は「陽キ」ャしか認めないのか(「陽キャ」対「陰キャ」の二項対立自体が雑な議論だけれど)。


 「教会はキリストのからだ。それぞれ個性を発揮して教会に仕えればいい」と言いつつ、一方で「ポジティブ陽キャこそあるべき姿」という牧師個人の価値観が明に暗に示唆されていて、それに合致しない人間は居づらかったり、時にからかいのターゲットにされたりする。居酒屋で騒ぐホモソーシャル集団みたいな教会だった。


 そうかと思うと「主の前に静まりましょう」などと言って神妙な顔をしたり、泣いてみせたり。人をさんざん笑い物にしておいて、自分だけ「きよらか」なつもりなのだ。「霊的傲慢を悔い改めます」もよく言っていたけれど、まずお前が嘲笑の的にしてきた信徒たちに謝罪しろ! と思う。やることが矛盾だらけだった。


 だから「主の取り扱い」とか「愛ゆえ叱る」とか「怒っているけれど本当は泣いてるんだ」とか「お前のためを思って叱るんだ」とかいう言葉に憎悪を覚える。誰かが誰かを「叱る」とか「怒る」とか、そもそもおかしい。そんな権利を持つ人間はいない。

「叱って伸ばす文化」の暴力性


 知り合ったクリスチャンと話すと、「◯◯で牧師に怒られた」「◯◯で『牧師夫人』に怒られた」というフレーズを聞くことが多い。福音派と聖霊派に関しては100%。その都度こう言うことにしてる。「牧師に信徒を叱ったり怒ったりする資格なんてないですよ」と。


 「怒り」の行使が認められるのは、虐げられた人や、被害に遭った人がそれを訴える文脈くらいだと思う。立場の強い人間が弱い人間に向けて許されるものではない。教会で誰かを叱ったり怒ったりした経験のある人は肝に銘じてほしい。


 私の牧師は心理学も教育学も少しも勉強したことがないのに、「人には叱られることでしか伸びない部分がある」などとレクチャーしていた。それを根拠に信徒を怒鳴りつけていた。しかし実際には自制が効かなかっただけだ。成長しなければいけないのはお前だよ、と言ってやりたい。


 人間に「叱られて伸びる部分」なんてない。人間は叱られると萎縮し、尊厳が奪われ、自分らしさを少しずつ失ってしまう。「叱って伸ばす文化」はそれ自体が暴力だ。相手をねじ伏せる発想が根底にある、悪しき文化だ。キリスト教会がそれを擁護してどうする。

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