神学らしくない言葉、教会らしくない振る舞い

2023年11月29日水曜日

教会生活あれこれ

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 教会で「通り良き管(くだ)として下さい」と祈ったあなたは、そのためにどんな努力をしただろうか。例えば知識や語彙を増やすために、聖書以外にどんな本を読んだだろうか。

 「パレスチナとイスラエルに平和を」と祈ったあなたは、そのためにどんな努力をしただろうか。まさかニュースを見て嘆いただけではあるまい。


 「御国を来らせたまえ」と祈ったあなたは、そのためにどんな努力をしただろうか。あなたの地域にも、毎日のように地獄を経験している人がいるはずだ。


 祈りは文言ではない。行動だ。どんなに微力でも行動に繋がらない祈りは祈りではない。というのが私の持論だ(指一本動かせない障害者はどうするんだ、みたいな難癖はよそでやってほしい)。何もしないなら祈らない方がいい、とさえ思っている(簡単なことだ。祈らなければいいのだから)。


 教会で「◯◯して下さい」と祈る機会は多い。教会には沢山の祈りが溢れている。しかしただ習慣で祈っていたり、「そう祈るものだから」祈っていたり、空気を読んで祈っていたりすることも多い。「通り良き管として下さい」はその典型だろう。「通り良き管」になるために具体的にどうしたらいいのか? なんて誰も考えていない。だから「良き」という文語が半端に残っている。文法的には口語か文語かどちらかで揃えるのが筋だ。


 そういう祈りの文言を、一つ一つ見直していくのも大切だと思う。

 最近友人から聞いた、ある神学者の言葉が印象に残っている。

 「神について語る時、人間の語る言葉や内容を神と同一視しないために、言葉の不確かさや限界は強調してもしきれない。最も神学らしくない言葉、最も教会らしくない振る舞いこそが神について語るのに一番ふさわしいのだ」


 教会でよく聞く祈り、クリスチャンが言いそうな台詞、信仰書が勧める行動などが蔓延していて、みんなキンタロウ飴のようになっている。どの教会に行っても同じような祈りや台詞を聞く。それは「統一されている」のではない。「誰も何も考えていない」のだ。全く深みがないし、思慮や内省の形跡もない。予想がつくことばかり。神様はそんなに「浅い」のだろうか。それらのありふれた祈りや台詞に気づき、「神学らしくない言葉」や、「教会らしくない振る舞い」を意図的に実践していくことが、逆説的に神について語り、考える契機になるのではないだろうか。

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