教会の「一致」と「排除」

2023年11月16日木曜日

教会生活あれこれ

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 キリスト教会で「一致」が語られる時、実は「排除」がセットになっている。同じ意見、同じ立場、同じ行動が取れない者の居場所がなくなるからだ。

 「一致」という言葉が聖書でどう使われているか、どんな文脈で使われているかが検討されないまま、「皆で同じ意見を持つ」「同じ行動をする」「和を乱さない」といった日本のムラ社会的ルールをそのまま「一致」と同義にし、教会に持ち込んでしまっていることがしばしば。だから「村八分」のような排除も起こる。一致することより、むしろ排除することが目的にさえなっているかもしれない。


 その「一致」の行き着く先は、強烈な同調圧力の下、誰も逆らえない、リーダーの意向が何の議論も経ずに通ってしまう独裁組織だ。しかし「独裁組織」と言っては体裁が悪いので、「牧師は神の最も忠実な僕であり、代理人である」とか、「神に従うように牧師に従う時に祝福がある」とかの綺麗事がまことしやかに語られる(暗に「牧師の言うことに逆らうな」と言っているのだが)。そうして一糸乱れぬ軍隊のような命令系統が確立される。しかしそれは「神の教会」なのだろうか。


 この「牧師の言うことに逆らうな」の背景には「教会はキリストのからだ」という教えがある。教会員はそれぞれ身体のパーツで、「手」だったり「足」だったりする。それぞれに役割分担がある。そして牧師は「頭」の部分を担当しているから、指示命令する立場なのだ、と。だから手足が頭の指示に反して勝手に動いちゃダメでしょ、というロジックだ。聖書をとことん都合よく利用している。


 こうやって聖書の教えが現場で都合よく歪められていくことに、クリスチャンは自覚的でなければいけない。でないと自身も被害に遭ったり、加害に加担してしまったりする。

 では正しい「一致」とは何なのか。

 それは少なくとも「排除」を生まない。厳格な命令系統を生まない。組織の役に立つか立たないかで人間を評価しない。多様な意見、多様な立場、時に起こる衝突を包含し、「それでも一緒にやって行きましょう」と言い合える余白を生む。親密な関係だけでなく、時に距離を置く関係も尊重する。


 それは大人としての成熟にも関係する。同調圧力や排除は強者にとって簡単な方法だ。それだけに幼稚性にも繋がっている。だから教会の「一致」や「健全性」において、私たちは一定の成熟が求められている。

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