カルト牧師かどうか見分けるポイントの一つに「信徒ひとりひとりに選択肢を与えているかどうか」がある。
カルト牧師は「神がこう語っているから」と、神を都合よく利用して信徒を思い通りに動かそうとする。信徒は実質的に選択肢を奪われている。「神がそう語っている」のだから、どうして反対できようか。
信徒はそれでも「自分で選択した」と考えるが、実は選ばせられている。彼らは「神に従っている」と考えるが、実は牧師にいいように使われている。
この問題の背景にあるのは「神が私を正しく導いて下さる」という信仰だ(福音派・聖霊派系に多い)
神が私を正しく導いて下さる。
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それなら正しく歩めて、問題は解決し、私の人生は祝福されるはずだ。
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問題が解決されない、祝福されないのは正しく歩めていないからだ。
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正しく歩めていないのは私が「神の御心」を正しく判別できていないからだ。
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「神の御心」を正しく判別できる牧師先生の言う通りにした方がいいのだ。
このようなプロセスで、「神に従うために牧師に従う」という考えに落ち着く。牧師が事実上の神になっていることには気付かない。こうして選択肢が奪われていく(自ら選択を放棄する、とも言える)。
この「神が私を正しく導いて下さる」という信仰は裏返すと「『導き』を判別し損ねたら失敗してしまう」という恐怖に繋がっている。だから「選べない」「選びたくない」「牧師先生に選んでほしい」という他力本願になる。
しかしそもそもの話、「神の導き」など誰にも正しく判別できない。牧師だろうと誰だろうと。「いや判別できる」と主張する人は、主観と客観の区別が付いていない。
そして判別できないのだから、正解も間違いもない。すると「神がひとりひとりを正しく導く」という前提自体が崩壊する。「神の導き」を判別できないのだから、「神が導いて下さる」という事象も成立しないのだ。
だからこの問題は、牧師の支配欲と、信徒の依存体質が交差することで起こる。
カルトでない良心的な牧師なら、「あくまで信徒自身が選ぶ」ことを優先するだろう。その選択から、脅迫や誘導をできるだけ排除しようとするだろう。そして信徒が「自ら選ぶ」ことを助けてくれるだろう。
「信徒ひとりひとりに選択肢を与えているかどうか」は、その牧師を見極める上で重要な指標の一つになる。