2016年5月29日日曜日

「クリスチャン高校生」の「生き生きした様子」とは何か考えてみた

 いわゆる「若者伝道」をするキリスト教団体がある。主に高校生や大学生をターゲットにしていて、毎週どこかで(こじんまりした)集会をひらいたり、休暇シーズンにキャンプを企画したり、時々簡単な機関誌を出したりと、いろいろ活動している。現場のスタッフは一部しか知らないけれど、皆よく頑張っていると思う。たぶん無償か、有償でも気持ち程度しかもらっていないと想像すると、本当に頭が下がる。

 クリスチャンの若者というと、オーストラリアのヒルソングあたりを連想する人がいるかもしれない。私はまさにそうだ。とにかく若者がウジャウジャいて、バカ騒ぎしたり、そうかと思えば急に真面目になって聖書を読んだり祈ったり、若者専用の会場があったり、美男美女がわんさかいたりと(そこじゃないって)、日本からしたら若者の理想郷みたいなイメージがある(もちろんそこにもいろいろ難しいことはあると思う)。若者の絶対数が少ない日本からしたら、全然別世界である。

 そのせいかどうかわからないけれど、先のキリスト教団体は「クリスチャン高校生たちが生き生きするように」という目標を掲げている。

 クリスチャン子弟を励まそう、みたいなスタンスになっている時点で「若者伝道」という目的から外れている気がしないでもない。まあそこはいいとして、「クリスチャン高校生たちが生き生きするように」という表現がなんとなく引っ掛かった。はたして「クリスチャン高校生」の「生き生き」とはどんな状態なのか。

 先に断っておくと、私はクリスチャン高校生に関わる仕事を長くしていた。あまり使いたくないクリスチャン用語で表現すると、「若者たちに重荷がある」みたいな感じだ。だから若者たちには思い入れがある。それは好きとか嫌いとかいう感情ともちょっと(たぶん)違う。若者たちを貶めるつもりもない(むしろ逆)。というスタンスでこれを書いている。

■「生き生き」って何

「クリスチャン高校生が生き生きするように」という願いの背景には、「クリスチャン高校生が生き生きしていない」という認識があるんだと思う。では、どこを見て「生き生きしていない」と判断したのか。日本のキリスト教界は若者があんまり目立たないからか。あるいは自分たちの「クリスチャン高校生のこじんまりした集まり」がイマイチ盛り上がらないからか。あるいはクリスチャンの若者自体が日本では少数だからか。

 もちろん、「教会の若者」と言っても様々で、一括りにはできない。外資系の先進的な教会だと、若者が大勢いて、「礼拝」でなく「サービス」で、「讃美歌」でなく「プレイズ」で、「イエス様」でなく「ジーザス」で、毎週クラブかパーティに来ているみたいに「ヒャッホー」な感じで、元気だ。
 一方オーソドックスな教会だと、親が牧師だから(あるいは親が厳しいから)仕方なく出席している若者とか、特にそういう事情がなくても律義にやってくる若者とかがチラホラいるだけで、ほとんど口を開くこともなく、終わるとすぐに帰る。元気かどうかと問われると、特別元気には見えない。

  ではそういう見た目の「元気さ」で、「生き生き」加減を判断しているのだろうか。残念ながらそうではないかと思う。若者たちが笑顔で元気に賛美したり、泣きながら祈ったり、熱く抱き合ったり、神様に叫んだり、という様子を「生き生き」と形容している。そしてそこを目指している。


 であるなら、ヒャッホーな教会(外資系に限らない)に若者たちを送ればいいって話になる。そうすれば皆「生き生き」するだろう。あるいは、自分たちの集会をヒャッホーな感じにすればいい(べつにヒャッホーをバカにしている訳ではない)。

 でも実際には、それでは解決しない。

 たとえば、「ヒャッホーな教会」と「オーソドックスな教会」という乱暴な表現を使うけど、オーソドックスな教会の「無口でつまらなそうな」若者を、ヒャッホーな教会に送り込んだらどうなるか。たぶんヒャッホーとはならない。「元気」にもならない。かえって砂浜が広大に露出するくらい引くと思う。
 つまり若者たちの振る舞いは、その教会の雰囲気とか方針とかの影響より、その若者の個別性にかかっている。たとえば、もともとテンションの低い子が、その場の雰囲気で急に変わることはまずない。長い時間をかけて順応していくものでもない。それは「生き生きしている・していない」の話でなく、その子の個性であり、その子らしさの話であろう。


■「クリスチャン高校生」でなく「高校生」

 たぶん「クリスチャン高校生」をどうにかしようと考える前に、それが「高校生」であることを理解した方がいいと思う。

 実際の高校生を見れば簡単にわかることだけど、いろいろな子がいる。部活動だけ見ても、運動系と文化系で全然人種が違う。前述したテンションの違いも大きい。陽気と陰気、ポジティブとネガティブ、おしゃべりと無口、外交性と内向性、醤油系と塩系など、いろいろな要素が複雑に絡み合って、その子を形成している。そこに趣味や関心事、価値観など加わり、その子だけの個別性が生まれる。

 だから、前述のヒャッホーな雰囲気が好きな子もいれば、嫌いな子もいる。オーソドックスな礼拝で「つまらなそう」に見える子が、実はそうでなく、自分なりの安心感を得ているかもしれない。親に強いられてでなく律義に教会に来る子には、そういうタイプもいると思う。そういう子はべつに皆で騒いでヒャッホーして「生き生き」したい訳ではない。その子の「生き生き」は、また別のところにある。

 そういう個別性をもった人間が、クリスチャンという側面も持っている、と考えた方がいい。

 また高校生は人生の中でも多感な時期で、いろいろ葛藤も多く、ある意味「苦しい」期間だ。もちろん楽しいことも面白いこともあるけど、人に言いづらい悩みや困難もあって、元気そうな子でも人知れずもがいている。そこに「神との関係」とか「牧師との関係」、「クリスチャンの先輩との関係」も絡んでくるから、なかなか大変だ。「クリスチャン高校生」だから、一般の高校生より恵まれている、神様がいるから心強い、なんてことはない。むしろ逆だ。ただでさえ自分の葛藤にどう折り合いをつけたらいいかわからないのに、神様との関係も絡んできて、ますますわからなくなる。
 というのが、クリスチャン高校生の見えないホンネの部分にある、と私は思う。もちろん個人差はあると思うけど。

■「クリスチャン高校生」特有の影

  という訳で、(人間だれしもそうだけど)クリスチャン高校生は外側から見えない部分でいろいろ抱え込んでいる。
 で、そういう子たちが「クリスチャン高校生の集会」に参加すると、どうなるか。ほとんどの場合、「良いクリスチャンでいないと」という心理が働く。なぜなら神様は絶対に正しく、私たちを正しく導き、試練から脱出させ、栄光から栄光へと進ませる、だから悩むことはない、と教えられているからだ(それ自体は間違っていない)。だから「悩んでいる自分」や「悪いことを考えてしまう自分」を晒すことが憚られてしまう。そしてクリスチャンらしい発言、無難な発言、先輩が喜びそうな発言に終始してしまう。でもそれは悪意あるウソではない。そうせざるを得ない、彼らなりの防衛機制なのだ。

 そしてそれと同じ防衛機制は、前述のヒャッホーな若者たちにも働いている。彼らは見た目には元気で大騒ぎしているけど、本質的には同じように悩みや葛藤を抱えていて、実は苦しんでいる。そして先進的な礼拝で叫んだり泣いたり、牧師が喜びそうな姿を見せることで、自分の居場所を保っている(もちろん本気で神様に向かっている側面もある)。

 だからヒャッホーな教会でもオーソドックスな教会でも、若者の本質的な部分は何も変わっていない。
「元気に騒いでいる」から「生き生きしている」というのは、実は本当ではないと思う。彼らの影の部分、と言うより彼らなりに「気を遣っている部分」を理解しないと、「生き生き」というのはどんどん遠のいていく。

「クリスチャン高校生」の「生き生き」の様子を、一括りに扱うことがそもそも不可能だろう。その「生き生き」の種類は、子供の数だけあると言えるからだ。だから元気に賛美して泣いて祈って熱く抱き合って、みたいなステレオタイプな「生き生き」を全員に押し付けないことから、始めないといけないと思う。

2016年5月26日木曜日

「什一献金」の現状と弊害

 カルト化教会を批判する声の一つに、「什一献金は悪だ」というのがある。

什一献金は信徒から金銭を巻き上げる為の教会口実だ。
 新約聖書はそんなこと命じてない。
 あたかも聖書の命令であるかのように教会側が勝手に解釈しているだけだ

 と、いうような趣旨。

 私は基本的に、それには賛成だ。けれど「什一献金は悪だ」という表現についてはちょっと思うところもある。なぜならカルトっぽくない教会で普通に什一献金を実施していて、信徒の皆さんもべつに騙されて捧げている訳ではないところもあるからだ。だから今回は、聖書解釈の問題はさておき、そのへんの什一献金事情について書いてみたい。
 ちなみに過去にも何度か書いているので、興味のある方は「什一献金」のラベルからどうぞ

■什一献金の概要

 什一献金はマラキ書に「だけ」根拠をもつ献金の一スタイルである。全収入の10分の1は主のものだから、主に返す必要があって、返さないと「主から盗む」ことになる、盗んだ者は祝福されないよ? だから捧げなさいね、まさか捧げないなんて・・・ないよね? という話。
 そこに「脅し」の要素が加わると一気にカルトっぽくなるので、注意が必要だ。

 もう一つのカルト要素としては、信徒が正会員になってから突然その話をする、というのがある。ちょっと後出しジャンケンっぽいけど、まあ今更だったり、そういうもんかと単純に納得したり、あるいはこれが聖書の真理かと逆に感動したり、信徒の反応はいろいろだと思うけど、最終的には同意する(しなかったら教会には残らない)。そして自分の毎月の給与から、10分の1に相当する額を献金として教会に捧げはじめる。ずっと。ボーナスからも。年末調整からも。「什一献金袋」というのがあって、要は昔の「月謝袋」みたいなものだけど、信徒は毎月そこに10分の1を入れて教会に提出する。袋は受領印が押されて返ってくる。まさに月謝

 もちろんこの什一献金は、日曜礼拝や祈祷会での献金とはまったく、完全に、徹底的に、「別」である。


■信徒側の現状

 ちょっと下世話な話だけど、おカネの話をしてみよう。一般的なサラリーマン家庭が、こういう教会の信徒になったらどうなるか。
 事例として、サラリーマンのお父さんと、専業主婦で教会でよく無償奉仕をするお母さんと、小学生の子供が2人、という家庭を想定してみる。

 サラリーマン給与は社会保険等が控除されるから、「総支給額」と「手取り額」は当然ながら違う。仮にお父さんの総支給額を40万円とした場合、扶養が3人なら控除額はだいたい10万円弱だから、手取り額はザックリ言って30万円チョイ。で、什一献金は手取り額でなく総支給額の10分の1で計算するので、この家庭の什一献金額は4万円。すると残りは26万円チョイ
 そしてそこから、日曜礼拝や祈祷会での「自由献金」を支出する。1回の「自由献金」を千円とすると、月に8千円くらい。すると残りは25万円チョイ。
 というわけで一家4人、25万円くらいで生活することになる。
 生活環境にもよるけれど、いささか厳しい数字ではないか思う。質素に暮らすにしても余裕はないだろう。子供の教育費とか将来に向けての貯蓄とか、いろいろ不安になるかもしれない。

 でも「主のものを盗んでいない」という安心感を得られ、かつ「主に従っている」という自負を得ることができる。また教会に対する帰属意識も強まる。それもどうなのって話だけど。

■教会側の現状

 什一献金をする教会は、教会会計の大部分をそれに頼っていることが多い。

 そもそも教会は、どこかの教団に属しているとか、何かの事業をしているとかでなければ、献金の他に収入源がない。しかも毎回の礼拝献金だけが収入源だとしたら、相当悲惨なことになってしまう。日本の教会は平均礼拝出席者数が50人前後らしいけど、1回の礼拝で仮に全員が千円ずつ「自由献金」したとして、5万円。月にすると20万円~25万円。その他に祈祷会とか特別な集会とかで献金が集まったとして、30万円がいいところだろう。
 でもこの数字はあくまで「良い場合」で、それより低い場合も当然ある。そうすると会堂家賃とか光熱費とか印刷代とかの教会運営費を賄うのがやっとで、牧師への謝儀などとんでもない。牧師の専業などまず不可能だ。

 しかしそこに什一献金が導入されると、事態は一変する。一信徒(一世帯)が毎月3万円とか4万円とか(礼拝献金とは別に)収めてくれるから、教会収入は劇的に増加し、かつ安定する。牧師の専業も可能になるだろう(牧師の専業が良いかどうかは別として)。

 だから現在什一献金をしている教会に「什一献金やめろ」と言うのは、「教会やめろ」と言うのに等しい。

 ちょっと個人的な体験を書く。
 クリスチャンの知り合いに、立派に働いていて、それなりの地位もあって、収入も十分にある(と考えられる)男性が何人かいる。彼らは教会に対して熱心だけど、猪突猛進タイプでもなく、そのへんのバランスは良いように見える。みんな教会は違うんだけど、それぞれ什一献金をしている。どの教会も別段カルトっぽくはない(まあこれは見た目ではわからないけれど)。
 そんな彼らに、私は個別に質問したことがある。什一献金についてどう思いますか? やってない教会もありますけど? という質問を。すると彼らの答えは面白いくらい同じだった。もちろん言葉遣いは違うんだけど、内容は一緒。こんな感じ。

「え、什一献金しないで、どうやって教会運営するんですか?」

 これは私の勝手な解釈だけど、きっと彼らは教会のことが大好きで、その運営を助けたいと思っているんだと思う。あるいは自分も教会のお世話になっているのだから、その教会を支えるのは当然だ、と思っているのかもしれない。教会が什一献金で成り立っているのは彼らにとって常識みたいなものだから、なんなら「什一献金」という呼び名でなく、文字通り「月謝」でいいかもしれない。たぶんその方が、彼らの在り様を正しく伝えられるかもしれない。

■什一献金がカルト化を助長する場合

 そういう健全と思われるケースもあるけれど、やはり什一献金には、負のイメージが強い。
 前述したように信徒に対する「脅し」と「強要」になってしまうケースもあるし、他にもある。ちょっと列記してみよう。

・拝金主義やご利益主義に陥らせる

 什一献金を信徒に払わせ続けるには、脅しと同時に「アメ」が必要になる。 什一献金を払うことによって「天に宝を積んでいる」とか、「報いは大きい」とか、「捧げた幾倍も得ることになる」とかいうニンジンをぶらさげる。それで結果的にどうなるかと言うと、信徒は見返りがほしくて捧げるようになる。あるいは幾倍にもなることを期待して捧げるようになる。つまり、より多くのお金がほしいからお金を捧げる、という動機。でも見返りがほしくて捧げるのは、もはや「捧げる」行為ではない。そういうのは「投資」と言う。

・教会内差別を生じさせる

 教会には明らかに高収入と思われる人と、そうでないと思われる人とがいる。双方で毎月の什一献金額も当然違うし、いろいろなイベント時の貢献度も違う。ある家庭なんかは、教会でイベントがあるたびに大量のオードブルとか飲み物とかを提供していて、まあ余裕があるんだろうなあと思わせる。それはそれで素晴らしいことなんだけど、結果、牧師の態度が変わる(ことがある)。

 ある時、海外から「大物ゲスト」がやってきた。 教会をあげて歓迎したんだけど、なぜか牧師が名指しで紹介したのが、この高収入家庭だった。べつに教役者じゃないし、何かのリーダーでもないし、普通の信徒の一員なのに、なぜこの家庭だけ? という違和感を覚えたものだ。
 他にもいろいろあるんだけど、まあ牧師は大切にしていた。この家庭を。

・初めての教会でそう教えられたら、捧げる以外にない

 これは什一献金だけの問題ではないけれど、初めて行った教会の言うことが全部正しく聞こえる、みたいな状況はあると思う。
 特に什一献金教会の場合、什一献金を否定するような聖書解釈をなるべく信徒に見せないようにしようとするし、特にそのことに言及しようとしない。
 また、什一献金しないことはすなわち「主への反逆」であり、救いから漏れる、くらいに言う。あるいは什一献金しないクリスチャンのことを「自分のために生きている人たち」とか「本物ではない」とか言う。そして逆説的に、「什一献金する自分たちは本物のクリスチャンだ」という結論に持っていく。
 そうなると、信徒はもう什一献金する以外にない。あるいは喜んで、「本物」というプライドにのっかって、捧げるようになる。

■ひとまず結論

 という訳で、什一献金の現状と弊害について書いてみた。これは必ずしも什一献金を完全否定するものでなく、あくまで「現状どうなっているか」について述べたものだ。

 什一献金についてアレコレ学んだうえで、それでも「自分の教会を支えたい」みたいな動機で捧げるなら、それはそれで全然悪くないと私は思う。だから要は、個人個人がよく学び、よく考えて、「信仰の通りにする」のがいいんだと思う。
 ただ悪意のある教会(牧師)ほど信徒の考える機会を奪いにかかるので、いかんともし難いのだけれど。

2016年5月22日日曜日

教会を信じられない、という悩みに映画『シビル・ウォー』を使ってシンプルに答えてみる

 このところ映画ネタが多い気がするけれど、また映画ネタからキリスト教の話をしてみたい。

 映画『シビル・ウォー』を劇場鑑賞した。大変よくできていて面白かった。これはMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)というアメコミ映画の作品群の1つで、主人公はスティーブ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)だけれど、いわゆるアベンジャーズの各キャラも沢山登場している。物語的には『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』の続きとなっている。

 私はアメコミにもヒーロー物にもさほど関心がなかったけれど、MCUの作品は、なんとなく全部観ている。映画で連続ドラマをやっているようなものだから、続きが気になるというのもある。

 で、長い話を簡単に書くと、多くの街や人を犠牲にして戦ってきたアベンジャーズが、その被害の甚大さから、ついに国際世論の批判を浴びる。そして国連の管理下に置かれることになる。それを良しとするトニー・スターク(アイアンマン)と、断固反対するスティーブとの間で確執が起こる。2人の対立は、やがてアベンジャーズを二分する内戦(シビル・ウォー)へと発展してしまう。

 という訳でヒーロー集団vsヒーロー集団の戦いが面白いのだけれど、物語の中核はきわめてシリアスだ。トニーにもスティーブにもそれぞれ揺るがない信念があって、互いに仲間だけれど、対立せざるを得ない。決して相容れない。今作では圧倒的な「悪」は登場しない。その分、ヒーローたちの葛藤に光が当てられている。

■自分の信念に従うか、組織に従うか

 今作のテーマはまさにこれで、自分の信念に従う男(スティーブ)と、組織に従う男(トニー)との戦いである。それぞれの過去をみれば、その対立がよりわかりやすくなる。

 まずスティーブだけど、彼は愛国心と忠義心の塊みたいな男だった。第二次世界大戦当時、志願兵の検査を何度も受けるが、虚弱体質の為ことごとく落とされてしまった。しかしいろいろあって超人化計画の対象に選ばれ、キャプテン・アメリカとなる。そして国の為、正義の為、軍隊やシールドといった組織の下で戦ってきた。
 しかし前作『ウィンターソルジャー』でシールドの腐敗を知り、組織を信じられなくなってしまう。もはや信じられるのは親友と仲間たちだけ。だから「国連の管理下に置かれる」なんて、彼には全然考えられない。

 一方のトニーは、大企業の社長であり、天才工学者であり、大金持ちだ。基本的に個人プレーしかしない。昔から自分のやりたいようにやってきた。しかし自社が製造した兵器が悪用されるし、良かれと思って造った人工知能『ウルトロン』が暴走して大参事になるしで、もはや自分のやることが本当に正しいのかどうか、わからなくなってしまった。だから第三者の公正な判断に自らの行動を委ねたい、と考えるようになった。
 ちょうどそこにアベンジャーズを国連の管理下に置くという話が出で、彼は率先して賛成する。つまり好き勝手にやってきた男が、自分の非を認め、組織に従うことを選んだ。

  ここには皮肉な逆転がある。ずっと組織に仕えてきたスティーブが、組織の非を知り、組織を離れた。一方、自分の信念に従って生きてきたトニーが、己の非を知り、組織に従属した。それぞれ見てきた景色が全然違うのである。だからその結果も、全然違うところに2人を運ぶことになった。

■これをクリスチャンに置き換えると

 私個人はスティーブにものすごく共感している。私は長年教会に仕えてきたけれど、その教会が根本的に数々の問題を抱えているのを知ったからだ。 それはスティーブの体験と性質的に似ていると思う。現に私は今も、教会や牧師に管理されたくないと思っている。だからカトリックのミサで完全放置されるのはむしろ心地よい。

 また私だけでなく、教会に躓いたことのあるクリスチャンにはそういう考え方をする人が少なくないようだ。一つの教会に定められないとか、牧師を信頼できないとか、そういうことで悩んでいる人もいる。そうなるのも当然だと思うけれど。

 一方で、かつての私のように教会にドップリ浸かっている人もいる。「神の家族」の連帯意識に居場所を感じ、牧師に心酔し、その教会が教える聖書知識に染まっていく。組織特有の面倒臭さもあるけれど、居心地は良い。

 私は教会や教会に属することを否定したいのではない。ただ「ドップリ浸かる」のはいろいろ危険だと思っている。あるいは「ドップリ浸からないと認めてくれない教会」は危険だと思っている。

 組織に完全に従属することで、心が安定するかもしれない。けれど純粋な意味での「自分の判断」は消失していく。組織の考え方や価値観に思考が染まっていくからだ。客観性が失われていく。あるいは客観と思っていることが主観でしかないという事態になっていく。組織の中にいてもある程度距離を置いておかないと、いろいろ見えなくなってしまう。

 また教会だけの話でなく、どの組織もそうだけれど、問題のない教会組織というものはない。何かしら問題や難点がある。「神の教会だから大丈夫だ」「神様が導いて下さるから大丈夫だ」ということもない。組織は人が集まって運営し、人が動かしていくものだから。自浄作用を保つも失うも、人次第。そこに神の介入を期待することは、組織運営をどこかに放り投げるのと同じだ。そこは人間の責任としてやっていかなければならない。

■ある結論

 ではこの映画は、スティーブとトニーの対立にどんな解答を提示しているのか。
 結末としては、2人は別々の道を進むことになる。けれどトニーの行動をみると、結局のところ、組織に従うかどうかはケースバイケースだ。トニーも最後は組織を欺き、スティーブとの友情を優先している。

 だからやっぱり組織はダメなんだ、という話ではない。大事なのは客観性であり、自分の頭で物事をしっかり考えて判断することなのだと思う。自分の属する組織(教会)を絶対視するのでなく、視野を広くし、いろいろ情報を得たうえで判断していくことが、個人個人に求められるのではないかと私は思う。

 またこれも持論だけれど、教会を信じられない、牧師を信じられない、というところで悩んでも仕方がない。そもそも教会も牧師も、信じる対象ではないからだ。私たちは当然ながら神を信じるのだけれど、それがいつのまにか教会信仰、牧師信仰にすり替わっていることがある。
 聖書が言っているのは、「神に信頼する者は失望することがない」だ。これを反転すると、「神以外のものを信頼すると失望する」となる。神以外のものとは何か。それはたとえば教会。たとえば牧師。

 教会は手段であって目的ではない。教会は手段であって信じる対象ではない。私たちは神を信じているのであって、教会の絶対性を信じているのではない。というそれだけの話。

2016年5月20日金曜日

「神の側」vs「悪魔の側」という構図に「中立」という立場をくわえてみたら

キリスト教系の季刊誌『ミニストリー』の2016年5月号に、「『女神転生』にみる千年王国思想」という記事があった。懐かしさもあって、興味深く読んだ。内容には触れないけれど、日本文化における「千年王国の受け取られ方」が、時代と共に変遷している、という切り口。興味のある方は書店等へどうぞ。

 で、今回はその記事に触発されて考えたことについて書く。でも本当にどうでもいい話なので、たぶん何の役にも立たないと思う。

・『女神転生』というビデオゲームについて

 まず簡単に説明すると、『女神転生』は20世紀末に流行ったビデオゲームのシリーズである。RPG形式で、ドラクエとかFFとかに比べてダークでシリアスな展開が売りだった。崩壊後の東京が舞台で、コンピュータープログラムで「悪魔」を召喚したり会話したり仲間にできたりして、いろいろな敵と戦い、終末的世界の中、主人公は絶えず何かを選択していく。その選択によって最終ボスが変わり、エンディングも変わる。けれどどのエンディングも「これで良かったのか」という疑問を残す。

 この「悪魔」というのは、いわゆるキリスト教的世界観の悪魔という意味ではない。もちろんそれも含むんだけど、もっと広く、仏教の神々とかヒンズーの神々とか、ヨーロッパの神話上の神とか妖精とか、日本に古くから伝わる魑魅魍魎とかも含んで、かつキリスト教で言う天使たちもそこに数えられている。つまり、「人間でない超自然的な存在」は全部「悪魔」として括られている。世界の宗教のごった煮的なゲームだ。

 またこのゲームの重要な要素として、主人公が選択できる「属性」がある。「LAW(秩序)」と「CHAOS(混沌)」と「NEUTRAL(中立)」だ。
 この属性の分け方はキリスト教的で、「LAW」とは創造主なる神の側、「CHAOS」はサタンをリーダーとする悪魔の側である。そこに第三の勢力として存在するのが「NEUTRAL」で、これは神にもサタンにも属さない立場、となっている。

 この「神にもサタンにも属さない立場」というところで、きっと熱心なクリスチャンの反発を招くと思う。聖書的価値観で言うと、「一緒に集めない者はちらす者」という訳で、神に属さない者は悪魔の側の者、ということになるからだ。神の側でないなら中立も何もない、というのが一般的なクリスチャンの考え方だろう。

・神とも戦い、サタンとも戦う「NEUTRAL(中立)」

 しかしゲーム上では、この「中立」が成立する。主人公は天使とも悪魔とも戦うことで、「中立」という属性をキープしていく。そして終盤のある時点で属性変更ができなくなると、この「中立」の主人公は神と戦い、サタンとも戦うことが避けられなくなる。神も悪魔も全部滅ぼして、人間だけの世界をもたらす、というのが「中立」のエンディングだ。

 ところで「神を滅ぼすなんて!」みたいな反応はご遠慮いただきたい。ただのゲームの話なので。

 でもこの「中立」という存在が、今回なんとも考えさせられたポイントだった。

 この「中立」とは、いわゆる平和主義でなく、民主主義でもない。「悪魔」という侵略勢力と戦い、「神」という侵略勢力とも戦う。「神の側」も「悪魔の側」も受け入れない。どちらか一方の極に振れない。あくまで自由意思を貫く、という立場だ。熱心なクリスチャンからしたら「それこそ悪魔の側だ」「悪魔の策略だ」という話になるだろうけれど、私はそうは思わない。

 と言っても「中立」の立場に立ちたいという話ではない。私はあくまで創造主なる神を信じているし、神を礼拝する者でありたい。そうでなく私が言いたいのは、どちらの側にも組しない中立的な視点でものを見るのも大切だ、ということだ。

・不適切な対立の構図

 ちょっとわかりづらいと思うので、言い方を変える。「神の側」と「悪魔の側」という表現だと、おそらく誰もが「神の側」を選ぶし、そこで迷う人はほとんどいない。クリスチャンであれば。でも話はそんな単純ではない。私が今回「中立」という言葉から想像した構図は実はこうだ。「教会の側」と、「教会が作り出したイメージとしての悪魔の側」という構図。

教会の側
vs
教会が作り出したイメージとしての悪魔の側

 教会の言うことが絶対だ、教会のやることが絶対だ、私たちは間違いなく「神の側」だ、という教会絶対視が一方にある。そしてもう一方には、その教会が作り出した「悪魔とはこんな存在だ」「悪魔の手口・策略はこうだ」「悪魔に騙されないようにしなさい」という悪魔像がある。つまり、

教会絶対視
vs
(教会が作り出した)悪魔像

 という構図の中、クリスチャンたちは当然のように「教会絶対視」の側に立ち、イメージとしての「悪魔像」に敵対している、ということはないだろうか。でもそれは、本来的な「神の側」vs「悪魔の側」とは全然関係がない。むしろそういう単純な構図と思い込んでいて、実は「神」が「教会」に、「悪魔」が「悪魔像」にすり替わっている、ということはないだろうか。

 つまり絶対的に正しい「教会の側」があり、その教会が主張する「敵」としての「悪魔」が存在し、信徒はその中で「教会」に仕え、「悪魔」に立ち向かうことが「聖書的」とされている。
 なんかややこしい話かもしれないけれど。

 だからちょっと中立的な立場に立ってみて、「神の側」と思っていることが本当に「神の側」に属することなのか、「悪魔の側」と思って敵対していることが本当に「悪魔の側」に属することなのか、考えてみるといいかもしれない。

 そしてそれは本当の意味で「中立」なのでなく、結果的に「神の側」 に立つ手助けになる、と私は思う。

 という訳で、本当にどうでもいい話なんだけど、最後まで読んでいただいて本当にありがとう。

2016年5月18日水曜日

ナンチャッテ「異言」のおかしさについて

 記事として書いたつもりが書いてなかった「異言」について。

 去る5月15日が聖霊降臨祭だったせいか、SNSで「異言」の話がチラホラ出ていた。聖書のこの箇所は原語だとこういう意味だとか、この箇所は××と解釈できるとか、研究熱心な方もおられるようだ。

「異言」は奇蹟とか癒しとかと同じで、議論が分かれるトピックだろう。たぶん立場によって賛否両論がハッキリ分かれる。それは他のトピックと同じように、もはや個人の信条みたいになっているかもしれない。としたら、あまり議論する意味もないように思う。結論が出ないから。

 それでも私が書こうと思うのは、そういう議論に決着をつけたいからでなく、最低限の注意喚起をしたいからだ。
 聖書解釈が分かれるのはある意味当然だろう。多様性があるのは問題ではない。問題は、多様性では片づけられない、実害を伴うケースがあることだ。そのあたりは注意喚起しておくべきだと思う。

■異言について

「異言」は使徒行伝2章とか、コリント第1の12章以降とかに多く書かれている(ちなみにダニエル書に出てくる「神の指によって書かれた文字」も、「異言」として分類されると思う)。
 それらの箇所をいちいち挙げないけれど、「異言」についてまとめるてみると、だいたい次のようになると思う。

・自分では理解できない言語(外国語あり)を、何の練習も学習もなく、にもかかわらず発音やイントネーション等において完璧な状態で、話すことができる。
・自分で発しているにもかかわらず、その言語の意味を理解することができない。けれど「解き明かしの賜物」によって意味を理解することができる。
・あるいはそれは完璧な外国語なので、その言語を使う人間が聞けば、当然ながら理解できる。
・それは聖霊によって「話させられる」状態だけれど、止めたり始めたりは自分でコントロールできる(つまり秩序を保つことができる)。
・異言は順番に話すべきで、1人は解き明かしをするよう勧められている。解き明かす者がいない場合は、教会では黙るべき(自分だけで祈るべき)とも勧められている。
・初心者や未信者には躓きになると注意されている。

 1つ断っておくと、上記は聖書から読み解ける「異言」についてまとめたものであり、現代にもそれが起こり得るとか、求めれば必ず「異言」が与えられるとか、そういう話をしているのではない。
 むしろ私は、現代において「異言で祈れます」とか「異言が与えられました」とか言うクリスチャンを懐疑的に見ている。その理由を明確にする為、昨今の教会で語られている「異言」の現状について次に述べる。

■現在「異言」を語る(一部の?)教会で言われていること

「異言」を強調し「異言」で祈る(一部の?)教会では、次のようなことが言われている。

①はじめは他人の「異言」を真似して言ってみなさい。そうすれば与えられます。
②「異言」で祈れば祈るほど、あなたの中に霊的力が充満し、霊が強くなり、他の賜物も発現していきます。
③「異言」が与えられることは「新生」を意味します(つまり「異言」で祈る人は新生していて、そうでない人は新生していない)。

 と、いうようなことが公然と語られていて、初心の人なんかは「異言が与えられるように」集中的に祈られる。初心の人はだいたい、遅かれ早かれ、次のような目に遭う。

 礼拝や集会の最中、牧師やリーダーたちに囲まれ、周りで「異言」で「ワラワラ」祈られ、腹をグイグイ押され、「溢れよ!」とか叫ばれる。耳元で「求めなさい!」「真似しなさい!」「唇を自由にしなさい!」とか言われる。そんなのが10分も20分も続く。勢いに任せて「ワラワラ・・・」とか言ってみると、これが案外言えて、「腹からとめどなく溢れてくる」と言われれば、そんな気もしてくる。それで牧師か誰かの真似をして「ワラワラ」やっていると、なんか自信がついてきて、「これが異言かー」と感動する。ハイ、異言が与えられました、ハレルヤ、である。

 あとは上記の②繰り返し言われるので、ことあるごとに「異言」で「ワラワラ」祈ることになる。それで「ワラワラワラワラ」やっていると、そのうち「ワラワライー、ワラワラヤー」とかちょっとずつ変形することもあって、「お、異言が増しくわえられたハレルヤ、主に感謝」とかなる。

 それが現状である。
 しかしよく考えてみればわかるんだけど、①も②も③も聖書のどこにも書いておらず、何の根拠もない。②なんかは『次元』で有名(?)なチョー・ヨンギの受け売りでしかない。同氏は「早天で異言で2時間祈ると、午前中は祈りの力で充満している」とか言ってたけど、じゃあ午後はどうすんの? 午後のために午前中にまた2時間祈るの? でもその理屈でいくと、午後も2時間、夜も2時間祈らなきゃダメじゃないの? という話である。いずれにせよ、聖書を根拠にしていない。

 こういうのは「異言」のみならずいろいろなトピックでみられるけれど、聖書がどう言っているかより、指導者(牧師など)がどう言っているかが重要になってしまっている。指導者に対して従順な信徒であっても、神に対しては従順でない。それだと本末転倒なのでは。

■おかしな「異言」に対するツッコミ

 どこかの教会で正しい「異言」を語っている人がいたら教えてほしいけれど、その場合、最低でも以下のツッコミどころをクリアしている必要がある。クリアできないなら、それはおかしな「異言」である。本人がどう言ったとしても。

・言語として成立していない

 「異言」は「言語」であるはずだ。だから日本語や英語と同じように、体系化された文法や文型があり、文字や単語が存在し、それらがつながって文節となり、文となり、文章を構成しているはずだ。
 しかし昨今のナンチャッテ「異言」をみると、上記の「ワラワラ」みたいな、2つか3つくらいの音の組み合わせでしかないことが多い。あるいはもう少し文字数が多くても、たとえば「アジャバラアジャバラ」とか、結局は同じフレーズの繰り返しでしかない。同じ言葉を延々と繰り返す、詠唱みたいな感じだ。

 でもそれだと、一つの体系的な「言語」としては明らかにおかしい。たとえ「ワラ」にいくつかの意味があるとしても、その「ワラ」だけで全ての表現をまかなえるはずがないのだ。
 たとえば日本語の場合。「眠る」という動詞には、「睡眠する」とか、「死ぬ」とかいう意味がある。けれどその「眠る」という動詞が、同時に「神」という名詞になったり、「とても」という副詞になったり、「幸せ」という形容詞になったりはしない。だからその「異言」がちゃんとした「言語」であるなら、「ワラワラワラワラ」を繰り返すだけで、ある一連の文章を作ることなどできないはずだ。

 ダニエル書5章に出てくる、神の指によって書かれた文字は「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」で、それぞれの言葉に固有の意味があり、全体で一つの文書を構成していた。だから、たとえば「メネメネメネメネ・・・」と繰り返しても、全然意味をなさない。

 ひるがえってナンチャッテ「異言」の現場をみると、1時間でも2時間でも「ワラワラワラワラ」繰り返している。これは上の例で言えば、「眠る眠る眠る眠る」と延々と繰り返しているようなものだ(ジョジョかよ)。それが仮に正しい「異言」だとして、そんなの1時間も言い続けて何の意味があるの?

 聖書に書かれている「異言」は、聞いて理解できないにしても、ちゃんとした「言語」なのだ。だからその一文一文に、それぞれ別々の意味がある。同じ音をずっと繰り返すことでいろいろな文章を作れるとしたら、それは言語ではない。つまり「異言」ではない。

・おかしな「解き明かし」

 これは上の話に直結するけれど、時々「私、異言の解き明かしができます」とか言う人がいる。そして、たとえば誰かの「ワラワラ」という異言を聞いて、こんなふうに言う。

異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「今、スウェーデンのために祈っています」
異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「今は北朝鮮のために祈っています」
異言の人「ワラワラワラワラ・・・」
解き明かしの人「うん、今は神の深い愛を称えています」
ウソつけ! 以外の言葉が出てこない。

・その「異言」が霊的力を充満させるなら

 ナンチャッテ「異言」を熱心に何時間も続ける人がいるけれど、そういう人たちが霊的力を充満させているとするなら、その「充満具合」をどう可視化し、どう判定したらいいだろうか?
 答えは簡単だ。その人がどんな人物になるか、を見ればいい。霊的力で充満しているなら、当然「聖霊に満たされて」いるだろうから、「御霊の実」くらい備えるだろう。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、という項目でそれぞれ充実してきて、月日を追うごとに、すごい聖人君主になっていくと思う。そうだとしたら、「霊的力で充満している」と言えるだろう。

 でも現状を見る限り、ナンチャッテ「異言」を祈る人たちにそういう傾向は見られない。ナンチャッテ「異言」で10年も20年も祈ってきたはずの牧師たちが、金銭問題や女性問題を起こして何人もトンズラしている。またそういう問題を起こさないまでも、とても人格者とは思えない発言を繰り返す牧師もいる。だから「異言」で沢山祈ったから・・・というのは、私には全然リアリティのない話だ。

 という訳で「異言」についてまとめてみた。
 補足があればまた書いていく。

2016年5月15日日曜日

神の愛と予定論をめぐる、クリスチャンの自己中心性について

■映画『神は死んだのか』で気付いたこと

 少し古い話になるけど、2014年のアメリカ映画『神は死んだのか』(God's not dead)を公開当時に劇場で観た。その内容を今でも時々思い出しては、いろいろ反芻している。で、最近ふと気づいたことがあるので、それについて書いてみたい。



 この映画のメインストーリーは、クリスチャンの大学生が無神論の哲学教授に対して「神の存在」を証明しようとするもの。群像劇的な作りになっていて、同時にいろいろなエピソードが進行していく。その中の一つに、デイヴ牧師とジュード牧師のエピソードがある。

 デイヴ牧師とジュード牧師が、2人で車で出掛けようとする。しかし車が故障したり、借りた車が故障したり、教会で何だかんだトラブルが起きたりで、なかなか出発できない。そうこうするうちに半日たち、1日たち、数日たってしまう。そして映画の終盤、ようやく2人は出発できる。しかし今度は目の前で交通事故が起き、人がはねられるのを目撃する。2人はすぐ救助に向かう(結果やはり出発できない)。

 このはねられた人というのが、先の哲学教授である。瀕死の重傷で、すでに虫の息。2人の牧師が路上でその死を看取ることになった。デイヴ牧師が手短に福音を語る。すると無神論だった教授が、死に直面し、ついに神を信じ受け入れる。
 要は、死ぬ前に救われて良かったね、牧師たちが出発できなかったのはこの為だったんだね、というような話。

  このエピソードの背後には、予定論とか運命論とかいうものがあって、そこに神の愛が絡み合っている。つまり、神は無神論者の教授さえも愛しており、なんとか救おうとしている。しかし教授はその夜、交通事故で死ぬことになっている。だからそこに2人の牧師を居合わせようとして、車を故障させたりトラブルを起こさせたりで出発を遅らせた。そして瀕死の教授に福音を語れるよう、お膳立てした。

 という訳で、全てのことは起こるべくして起こった、すべては神のご意志のまま、ハレルヤ、アーメン、というお話。

 ちなみに言うと、その夜はクリスチャンバンド『ニュースボーイズ』のライブがあり、クリスチャンの登場人物たちが盛り上がって賛美している。そのすぐそばの道路で教授が死んでいく、という構図。まさにクリスチャンの「勝利」と無神論者の「敗北」を提示している。まあクリスチャン映画だからそうなるよね。

 私は映画は映画で単純に楽しめて感動できる方なので、この映画も感動しながら観れた。特にムスリム家庭に育った女子大生がクリスチャンになり、そのことが親にバレて家を追い出されるくだりは心が痛かった。

■「神の愛が絡んだ予定論」が全部「自分の為」というのは

 で、何が言いたいかというと、この「神の愛が絡んだ予定論」について。
 神は私を愛しておられる。だから私の周囲のいろいろな状況を操作して、私に最善を成してくれる。たとえ悪いことが起こってもそれは一時的で、最後は全てが益とされる。
 つまり全ては起こるべくして起こるし、それは全部「私」の為なんだ、ということ。
  これは昨今の福音派、聖霊派あたりでよく言われることだ。たとえば、

「今この試練にあっているのは、きっと私が何かに気付く為なんだ」
「あの試練の意味は××だったのだ。結果私は幸いだった」

 みたいな感じ。
 神が全てを益にして下さることも、試練とともに逃れの道を用意しておられることも、聖書に書かれているからその通りだと思う。けれどこの場合の用法は全部「私が」「自分が」となってしまっていて、結局自分中心な発想から抜け出せていない。全てが自分を中心に回っている、神は自分の益のために状況を都合よく操作してくれる、という訳で、要は自分のことしか眼中にない。なんだかんだ綺麗事を言っても、それは「自分中心クリスチャン」なのだ。

 ちなみに言うと、他のクリスチャンに対して「この試練は必ずあなたにとって益になります」というのも、根っこは同じ。「自分の為」を「あなたの為」に置き換えているだけで、根本的な発想は同じ。

 少女マンガのヒロインの典型的な敵役として、「学園の才女」が出てくる。彼女は成績優秀でスポーツもできて、生徒会長とかやってて、しかも父親が学園の理事長ときてるから、何でもやりたい放題だ。気に入らないヤツがいれば「お父さん」に訴えて、強引に退学させることもできる。つまり、学園のことは何でも自分を中心に回っている、と信じている。状況は違うけど、自分中心クリスチャンはこれとあんまり変わらない。

 あるいはコロンブスの時代に、天動説を主張した教会の考え方にも似ている。太陽も星もこの地球を中心に回っている、海の果ては断崖絶壁だ、地球が丸いなんて馬鹿なことがあるか、と彼らは主張した。けれど結局全部間違っていた。真相は地動説であって、地球の方が(つまり自分たちが)太陽を中心に回っており、地球は丸かった。

 彼らの間違いのもとは、自分の視点から見えるものが全てだ、と信じていた点だろう。早い話が自分中心。中心が他にあって、自分たちの方が回っている、とは考えられなかった。

■「自分の為」から「他者の為」へのシフトが必要では

 私は映画『神は死んだのか』を観て感動したんだけど、何か違和感のようなものも感じていた。そしてそれはきっと、このクリスチャンの側の「自分中心」という考え方に対してだったろうと思う。それはある登場人物からでなく、この映画全体から感じられた。

 ではどうするべきかと言うと、私たちは「自分の為」から「他者の為」へと、ちょっとでも考え方をシフトしていく必要があると思う。自分中心なのは人間の根本的な性質であって、変えられないだろう。でも私たちには考える力があるので、いつも何かを選択することができる。つまり「自分の為」を考えるか、「他者の為」を考えるか。

 そしてそのどちらがキリスト教の理念を実現するものかは、いちいち説明する必要はないだろう。

2016年5月13日金曜日

「洗脳の10の手口」のキリスト教会版(後篇)

 前回に引き続き、「洗脳の10の手口」のキリスト教会版。
 今回は後篇(→前篇はこちらから)。

⑤告白強要による思考・行動操作

「あなたの信仰を告白しなさい」「宣言しなさい」と言う牧師がいる。
「口に出すことによって、その信仰は実現するのです」という聖書から来ているのか来ていないのかよくわからない理屈で、信徒に人前で「告白」するよう強要する。信徒は講壇に上らせられたり、大勢の前に立たせられたりして、私は○○になります」みたいなことを言わせられる。
 嬉々として「告白」する人もいれば、嫌々言う人とか、あるいは思ってもないことを言って皆の喜ぶ反応を楽しみたいだけの人とか、まあ信徒の方はいろいろだ。

 そういう「告白」自体が悪いという話ではないけれど、その程度によっては、問題にもなる。

 あくまで本人が信じていること、信じたいことを「告白」させるならいいかもしれない。けれど、牧師がある人をつかまえて、たとえば「あなたには実は賛美の賜物がある。シンガーとして献身しなさい」みたいなことを言うとする。その信徒は歌が苦手で、人前に立つのも嫌な人だ。シンガーなんてとんでもない。でもそこで、「告白して、この召しをあなた自身のものにしなさい。それが神の御心です。勇気を出しなさい」みたいに迫られる。まるで、神の求めに逆らう不従順な人、弱くて信仰に立てない人、みたいに扱われる。苦手なことをいきなり言われて戸惑っているだけなのに。でも周りの目もあるし、牧師に執拗に迫られるし、確かに自分が不従順で悪いのかもしれないとか思ってしまって、やむなく「私はシンガーになります」と「告白」してしまう。

 すると、次の日からさっそく、
「シンガーとして頑張ってね」
「祈ってます」
「賛美のチームに入りなさい」
 みたいに周りから言われて、どうにも逃げられなくなる。ああ無情。

④ラブシャワー

 これはもはや説明不要かと思うけど、新しく来た人を熱烈に歓迎し、皆で好意的に接し、あれやこれやとお世話し、手厚くケアすること(初めのうちだけ)。
 愛されて嬉しくない人はいない。これをやられた人は居心地が良くて、進んで教会に来るようになる。「居場所」を感じるからだ。承認欲求も満たされる。するとその教会の教理や聖書解釈ややり方が、無条件に正しくて思えてくる。そして教会のために一生懸命になる。

 そうやってガッチリ心を掴まれたところで、シャワーは止まる。あとは想像通りだけど、「クリスチャンは教会に全力で仕えるものですよ?」という話とともに、搾取が始まる。

③奇跡による操作

 現代も奇跡は起こるのか、現代も癒しは起こるのか、という論争がキリスト教界にあるけれど、ここでその論争をするつもりはない。あくまで「カルト化教会で使われている手口」としてこれを紹介すると、こんな感じ。

世界中で奇跡や癒しが起こっている。重病人がどんどん癒され、死人がボンボンよみがえっている。

しかし日本は霊的に「開かれていない」から、そういうことが起こりにくい。

日本で奇跡や癒しを見られるかどうかは、あなたの信仰生活にかかっている。

だから熱心に祈り、沢山捧げ、精一杯奉仕しなさい。

なに、それでも見られない? おまえの信仰が足りないんだ!

 という訳で更に祈り、更に捧げ、更に奉仕するようになる。回転車の中のハムスターみたいに決してゴールに達しないのに走らされる。
 でもそれだといつまでもは続かないから、時々、牧師がアメを与える。たとえばこんな感じ。

「この前、台湾の〇〇に奉仕に行ったら、××という奇跡を目の当たりにした。いやー素晴らしかった」
 すると信徒らは目を輝かせて、なんの証拠も提示されていないのに、ハレルヤ―とかアーメンとかなる。 それで「よしっ、自分も奇跡を見るぞ」みたいなことを言って更に頑張ってしまう。
 でもそれはそれでおかしい。それはいったい何の為の祈り? 神様の? 奇跡を見る為? 

②脅迫による離脱困難

 これもよくある手口。
「この教会を離れたら、神の罰が降るぞ。地獄に堕ちるぞ」みたいに信徒を脅して、離れられなくする。あるいはそこまで脅迫的でなく、たとえば聖書の「はかりなわ」の箇所なんかを引用して、「ここはあなたが植えられた教会だ。あなたのゆずりの地だ。離れるのは神の御心に反する」とか言って、結果的に離れられなくする。それでも信徒が離れたいと言うと、「それは教会批判だ。ただちに役員会を開いてお前の処遇を決める」とか、あからさまに脅してくる。そこまできたら信徒の方もおかしいと思うだろう。たいへん傷つくけれど。

①思考停止させる為の決まり文句

 すべての反論や議論をピシャッと止める「決まり文句」が、それぞれのカルトっぽい教会にあると思う。共通するのは、「それを言ったら一切の議論がやむ」という点。たとえば、

 「神が確かに〇〇と語られた。何度も確認したが、やはりそうだ」

 みたいなもの。この「霊的」で「奇跡を沢山経験している」牧師先生が言うんだからそうなんだ、というまったく根拠のない思考経路でそれが「神の御心」と断定され、それ以外は御心でない、とされる。そして教会全体がそこに向かって進むことになる。本当にそれ御心ですか? という議論はとっくの昔に終わっている。いや、実ははじめから議論などない。「牧師が言ったこと=神の御心」という図式が強固に条件付けされていて、誰もそこに触れることができないからだ。仮に触れたとしたら、②のような目に遭って教会を追われることになる。

 以上、カラパイアの記事を再構成して、キリスト教会向けに書いてみた。何かの参考になればこれ幸い。 

2016年5月11日水曜日

「洗脳の10の手口」のキリスト教会版(前篇)

 カラパイアの記事『洗脳。その恐ろしい10の手口と実体』を読んだ。

 これはアメリカの「人民寺院」など、歴史的にも規模的にもインパクトの強かった新興宗教の洗脳の手口について書かれたもの。けれどこれ、新興宗教だけでなく、カルト化したキリスト教会でもみられる手口だと思う。だから今回は、上記記事をキリスト教会版に構成し直してみたい(元記事を読んだうえで比較してもらえるとわかりやすいと思う)。

 ご自身の教会のカルト化の危険性について、参考にしていただければ幸いである。
 では、「洗脳の10の手口」のキリスト教会版、前篇

⑩賛美や「異言」や「霊歌」による洗脳

 元記事にある通り、信徒による歌唱詠唱は、強い一体感と仲間意識を芽生えさせる。教会で一生懸命賛美する人には、きっとそういう覚えがあると思う。また教会だけでなく、部活の大事な試合で歌う校歌とか、国際試合で歌う国歌とかでも、強い一体感とともに感動を覚えたりする。だから皆で賛美を歌うことで「私たちは神の家族」という一体感や特別な愛情を感じるのは、必ずしも「神の働き」によるものとは言えない。

 だから、歌唱にはもともと特別な心理作用がある。ということはよく知っておく必要がある。

 ちなみに言うと、私は「神の働き」を否定したいのではない。何が「神の働き」で、何が「神の働き」でないのか、ハッキリさせたいだけだ。

 さらに歌唱には特別な作用がある。抑揚の低い同じフレーズを繰り返し歌うことにより、人間の脳はいわゆるトランス状態に傾く。脳波のうちα波が強くなり、意識レベルが低下し、被暗示性が強くなる。
 オーソドックスな讃美歌、聖歌などは歌詞が小難しく、けっこう歌うのも大変で、また繰り返すこともなくサクッと終わるので、トランス状態にはなりにくいと思う。けれど昨今のコンテンポラリーな賛美は、メロディが単調うえ、同じフレーズ何度も繰り返す(教会によるだろうけど)。曲と曲の間にはさまる「霊歌」とか「異言」の祈り(ちなみにこれは異言ではない)とかも同様で、単調な音の繰り返しが続く。この繰り返しが、トランス状態を招きうる。
 被暗示性が強まるから、この時に見たものや聞いたものが後々まで印象に残ったり、行動に影響したりする。人によっては幻覚を起こすかもしれない。存在しないものが見えたり、聞こえたりするかもしれない。そしてそれを「特別な体験」「超自然的な体験」と捉えてしまう可能性がある。

 だから昨今の賛美が直ちに危険だ、とは言えない。けれど賛美にかける時間には注意した方がいい。賛美にたっぷり時間をかける教会だと、本人が自覚しないままトランス状態に陥っている可能性がある。それゆえの精神的体験を「神からのもの」と思ってしまうことにもなりかねない。

⑨外部からの孤立、あるいは情報統制

バイブルキャンプ」なんかはこれの典型だと思う。海とか山とかの閉鎖的な環境で2泊とか3泊とかして、集中的に、ある一連のメッセージを聞き続ける。繰り返し繰り返し。すると頭の中がそのメッセージに侵食されていく。良いメッセージだと認識しているから、侵食は尚更早い。
それが数日間のキャンプならまだしも、もっと長期間、同じような状態が続いたらどうなるか。頭は一連のメッセージに従って考えるようになる。思考力や判断力の低下も避けられない。誰であっても。

 またそういう物理的な隔離や孤立がなくても、情報における隔離や孤立は起こり得る。都会の真ん中にいても。
 たとえば、  
「この本はサタンの影響を受けているから危険だ」
「あの人物の思想は聞くだけでもあなたの霊に傷がつく
「あの牧師の主張を目にするだけで悪霊の影響を受けてしまう」
  
 みたいなことをずっと言われて、精神的な「鎖国状態」へと自分自身を追いやってしまう。自分の心を守るため、有害な情報を入れてはいけない、触れてはいけない、と強迫的に考えるようにさえなる。すると、周囲に情報は溢れていて、いつでもアクセスできるのに、自らシャットアウトしてしまう。そしてますます視野狭窄に陥っていく。 わずかな情報をもとに物事を判断することになる。それはもはや判断とも言えない。
 
⑧依存と恐怖

 牧師と信徒の(あくまで)一般的な関係を考えてみると、その知識量や経験の違いから、「導く側―導かれる側」「教える側―教えられる側」という関係になると思う。だから信徒は牧師のお世話になることが多い。それ自体は自然なことで、たぶん避けられない。

 問題は、牧師がその関係をどうにでも操作できてしまう立場にある、という点。
 良識ある牧師なら大丈夫かもしれない。けれど、たとえば信徒を自分に依存させることもできるし、「○○しなければ××だ」みたいな恐怖を植え付けることもできる。そこは牧師の一存で、どうにでもなる。

 た信徒のコミット具合にもよるけれど、その教会にとってふさわしい人間になろう、牧師に気に入られる信徒になろう、みたいな意志もはたらく。記事にあるパトリシア・ハーストの話もそうだ。テログループに拉致された彼女は、もはやそこから逃げられない、そこで生きていくしかないと悟り、ある意味積極的にテロリストになった。
  そこまで極端な話でなくても、一部の教会内で同様のことが起こっている。牧師に完全に依存してしまい、もはや自分で判断できなくなった信徒、恐怖によって支配され、牧師に言われるまま行動してしまう信徒、など。
 そういう信徒操作が始まると、カルト化はすごく早い。
 
⑦長時間の礼拝・祈祷・賛美

 私の教会がまさにそうだったけど、礼拝も祈祷も賛美も異様に長かった。記憶によると、日曜礼拝の最長記録は5時間超だ。賛美だけで1時間、メッセージで2時間、その後の賛美とか「霊歌」とか「異言」とか「招き」とか「按手」とかで2時間、という内訳。
 牧師が何を狙ってそこまで長くしたかはわからない。宗教行為で信徒を縛りつけたかったのかもしれない。あるいは礼拝を自分の「ショー」みたいに思っていたのかもしれない。いずれにせよ、長時間の礼拝行為で信徒が疲弊ていたのは事実だ。といっても「神様と時間を過ごしている」という認識だったから、ある意味心地よい疲労感だったんだけど。

  元記事にある通り、その疲労感が、信徒の不平や不満を鎮めていたのはあると思う。教会生活を送っていれば、細々したところで、いろいろ不満も出てくる。けれど華やかな礼拝の中、ドンシャンドンシャンやりながら、なんかすごいことが起こっているような気がして、その中でずーっと踊ったり叫んだり祈ったり歌ったり、そうこうしているうちに、「まあいいや」みたいな気持ちになる。体も心もグッタリして、怒る気力もなくなる。そういう効果は確かにあった。

⑥過重な奉仕による搾取

 カルト化、あるいはカルト傾向のある教会の特徴として、「信徒は奉仕をして当たり前」という考え方がある。信徒である以上、何かの係や担当になって奉仕をするのが「当然」であり、「使命」でさえある。奉仕のない信徒は半人前扱いされる。そういう雰囲気の中だから、誰もが奉仕をしようとする。
 しかもそれが「神のため」「霊的成長のため」となれば、やらない訳にはいかない。そして頑張れば頑張るほど牧師に褒められ、教会内の地位も安定していくから、ますます奉仕が重要になっていく。

 そういう奉仕の仕方だから、必然的に長時間労働になる。実際私の教会で徹夜なんて当たり前だったし、何日も家に帰れないとか、寝に帰るだけとか、そういうのが常態化していた。
 すると私生活も奪われ、時間も奪われ、文字通りすべてを教会に捧げた生活になっていく。それは一見「敬虔」だ。よく仕える立派なクリスチャン評される。だからあまり疑問に思わない。でもその姿はもはや「奉仕ロボット」みたいなもので、社会性も失われていく。忙しすぎて、親戚の結婚式とか葬式とかにも出られな

 結果、自発性とか自己選択とかいう、人間として大切な機能を放棄することになる。しかし神は人間の自発的な選択を良しとされ、願われている。その点だけ考えても、これはどうもバランスが悪い。

(後篇に続く