2016年5月6日金曜日

クリスチャンの「キャンプ」の弊害

 クリスチャンが参加する「キャンプ」がある。

 教会単位で開催するものとか、超教派的に開催するものとか、宣教団体が開催するものとか、いろいろある。また名前も「バイブルキャンプ」とか「リトリート」とか「修養会」とか「カンファレンス」とかいろいろある。
 要は、不特定多数のクリスチャンが集まって、2泊3日とかで集中的に礼拝したり賛美したり学んだり、当地のグルメを楽しんだり遊んだりして過ごすイベントのこと。参加した人はだいたい、「すっごい恵まれました!」とか言って興奮しながら帰ってくる。

 私はそういうキャンプに参加したことも運営にかかわったこともある。そこでの様子や内部事情もよく知っている。だから中の人として書くけれど、そういうキャンプにはいくつか気を付けた方がいい点がある。ポイントを挙げてみよう。

■キャンプで安易に何かを決心しない方がいい

 そういうキャンプの目的は大概、信徒の信仰面の何らかの「成長」とか「ステップアップ」とかにある。参加した人が何かの成長を踏めれば成功、という訳だ。だからキャンプ最終日の最後の集会なんかに「招き」とか「特別な祈り」とか「献身の表明」とかの時間が設けられている。そこで何か大きな決心をして、それを表明して、祈って、結果「このキャンプで自分はこんなふうに変わりました」とかいう話になる。

 たとえば、洗礼を受ける決心ができなかった人が、キャンプの中で洗礼の決心に至った、とか。
 何かの(信仰的な)行動を躊躇していた人が、ついに実行に移すよう決心した、とか。

 そういうのが悪いという話ではない。けれどキャンプの雰囲気にのまれて「つい決心してしまった」という面があるのも事実だ。たとえば「明日から毎日、1日に最低1人に福音を伝えます」みたいな決心をしてしまった人がいて、それはそれで立派な心がけだと思うけど、実行可能性という点で考慮が足りなかったのは否めない。
 それでもその人はしばらく有言実行していたようで、たしか1週間くらいは「今のところ毎日1人ずつ福音を語ることができてます。ハレルヤ」とか言っていた。けれど案の定、1ヶ月くらい経つとそんな話は一切しなくなった。こちらから聞くのも憚られた。つまり挫折した訳だ。

 結果だけ言うと、できない決心をしてしまった、ということ。

 そういう事例はすごく多い。もちろん洗礼の決心とかなら、洗礼を受けてしまえば決心を果たしたことになるからいいだろう。そうでなく継続的な努力が必要なこと、たとえば、

「毎日欠かさずディボーションします」
「毎日賛美する時間を持ちます」
「毎日〇〇分祈ります」
「毎日誰かに愛の行動をします」

  みたいなのは、言ってしまったらそれを一生涯続けるのが筋になってしまうので、やめた方がいいと私は思う。そういうのは結果的に義務だけになったら意味がないから。それに「言ったことができなかった」というのは自分自身にも周囲の人にも良くない印象をもたらすので、精神衛生的にも良くない。

 だから、安易な決心は避けた方がいい。なんなら決心しない方がいい。もし決心するなら、誰にも言わず自分の胸にしまっておくのがいい。だって本当に決心したことなら、人に言おうが言うまいが、関係ないはずだから。

■キャンプ独特の雰囲気を「神の御業」と勘違いしない方がいい

  普段通っている教会での日帰りのセミナーなら話は別だけど、こういうキャンプは大概、海とか山とかのいわゆるリゾート地で開かれる(予算の関係で「リゾートっぽいところ」になるかも)。参加者は仕事を休んで2泊3日とかで参加する。日常と違う空間で、時間を気にせず過ごせる。礼拝や祈りや「学び」も違った雰囲気になる。くわえて(都会の人には)普段見れない海や山を体験できる。料理もおいしい。温泉もあるかもしれない。すると心も体もリラックスして、普段と違う気持ちになり、違った感覚になる。

 そこで礼拝の大音響の中、牧師の声が響く。「神は〇〇と言われる!」
 その声がガツンと腹の奥まで響き、全身に鳥肌が立つ。すると、「うぉー、今マジで語られてる!」みたいな感覚になって、間違いないように思われる。まわりの皆も感動して涙を流したり叫んだり祈ったりしている。ここは神聖な空間だ、と信じて疑う余地がない。

 でもそれは、ハッキリ言うけれど、「リゾート地の特別感」がすごく影響している。つまり人為的に作られた「特別感」だ。そこに特別に神様が働いているとか、御業が現れているとか、そういうことではない。

 なぜそこまでハッキリ断言できるか。じゃあ逆に聞くけど、その「神は〇〇と言われる!」を普段の生活の中で、どこかの誰か(牧師じゃなくて、あなたにとってどうでもいい誰か)がボソッと小声で言ったとしたら、あなたはそこまで腹の奥までガツンときて、全身に鳥肌が立って、うぉーとなるだろうか。ならないと思う。 であるならそれは神の言葉じゃない。雰囲気とか声の大きさとかに呑まれているだけだ。
 それに、神様はリゾート地にだけ特別に働かれるのではない。

 キャンプ運営側の考えとして一つハッキリ言えるのは、キャンプ地の特別感は利用できる、ということだ。と言ってもべつに悪意がある訳じゃない。リゾート地で皆でリラックスして、3日とか4日とか集中的に聖書の学びとか礼拝とかすれば、信徒が成長するのではないか、そしてもっと教会に対して献身的になるのではないか、みたいなことを考えているだけだ。つまり、信徒の信仰面を集中的に補強したいというのが目的で、表現が古いけど、「カンフル剤」みたいな扱いなのだ。キャンプとは。

 ただカンフル剤は、気持ちを一時的にグワッと盛り上げるにはいいのだけど、いわゆる「熱しやすく冷めやすい」状況を作ることにもなる。つまり「一時的な盛り上がり」で終わってしまうことにもなる。
 その現れが、前述の「できない決心をしてしまった」みたいな事態。一時的な感情の盛り上がりに任せて「よし、献身しよう!」みたいな決心をしてしまって、終わってしばらくしてから後悔する、みたいなケース。そういうのを沢山見てきた。

 だからキャンプの効果も善し悪しだ。現地での感動が、終わって日常生活に戻ると次第に薄れてきて、結局決断したことや、「変わった」と思った部分が元に戻っていく。それで「自分の信仰は弱いな」と後ろめたく思うのだけど、そんなふうに思う必要はない。

 キャンプとは、そういうものだから。

 だからキャンプ帰りで興奮して絶好調とか言ってる人がいたら、その熱がどう冷めていくか、しばらく様子を見てみたらいい。だいたい元に戻っていくから。

 本当に決心して変わろうとする人は、キャンプに行かなくても、誰も何も言わなくても、牧師が大声で叫ぼうが何をしようが関係なく、地味にコツコツ変わっていく。

1 件のコメント:

  1. 通常とは違う空間に身を置いて洗脳するというやり方ですが、ヤマギシの特講がまさしくこれです。バキュームカーも来ない山奥で携帯電話も取り上げ、怒り研鑚からスタートして、一週間後にはヤマギシの人間に変えてしまうのですから。

    山奥やリゾート地以外(つまり日常の空間)でこれをやるときは、SF商法の会場のように、外からのぞけないように、そして中にいる人は外の風景を見えないようにしてしまうのです(たいていは開店を知らせるチラシをびっしりとガラスにはる)。
    やはり日常の風景がみえてしまうと、孫を思わせる年齢の子供が歩いているのも目に入るわけですので、そうなると「孫にお金を残しておきたい」という心理がはたらいて、心が日常モードになってしまい、物が売れなくなるからでしょう。
    日常を感じさせない空間に、判断力が衰えがちの高齢者を連日通わせて、スタッフと親しい関係を作り、健康不安をあおって、孫のようなかわいいスタッフから「おばあちゃんの健康を心配して~」とか「うちのおじいちゃんも癌だったんです~」とやって、高額な健康食品や健康器具を何百万も買わせています。

    結局大きな決意(特にお金や人生にかかわること)をさせるときに、一番大敵になるのが日常の風景ということが結論としていえると思います。
    農事組合法人でも新興宗教でもSF商法でも、全く同じことをやるというのは、非常に興味深いものがありませんか?

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