「什一献金」の現状と弊害

2016年5月26日木曜日

「什一献金」問題

t f B! P L
 カルト化教会を批判する声の一つに、「什一献金は悪だ」というのがある。

什一献金は信徒から金銭を巻き上げる為の教会口実だ。
 新約聖書はそんなこと命じてない。
 あたかも聖書の命令であるかのように教会側が勝手に解釈しているだけだ

 と、いうような趣旨。

 私は基本的に、それには賛成だ。けれど「什一献金は悪だ」という表現についてはちょっと思うところもある。なぜならカルトっぽくない教会で普通に什一献金を実施していて、信徒の皆さんもべつに騙されて捧げている訳ではないところもあるからだ。だから今回は、聖書解釈の問題はさておき、そのへんの什一献金事情について書いてみたい。
 ちなみに過去にも何度か書いているので、興味のある方は「什一献金」のラベルからどうぞ

■什一献金の概要

 什一献金はマラキ書に「だけ」根拠をもつ献金の一スタイルである。全収入の10分の1は主のものだから、主に返す必要があって、返さないと「主から盗む」ことになる、盗んだ者は祝福されないよ? だから捧げなさいね、まさか捧げないなんて・・・ないよね? という話。
 そこに「脅し」の要素が加わると一気にカルトっぽくなるので、注意が必要だ。

 もう一つのカルト要素としては、信徒が正会員になってから突然その話をする、というのがある。ちょっと後出しジャンケンっぽいけど、まあ今更だったり、そういうもんかと単純に納得したり、あるいはこれが聖書の真理かと逆に感動したり、信徒の反応はいろいろだと思うけど、最終的には同意する(しなかったら教会には残らない)。そして自分の毎月の給与から、10分の1に相当する額を献金として教会に捧げはじめる。ずっと。ボーナスからも。年末調整からも。「什一献金袋」というのがあって、要は昔の「月謝袋」みたいなものだけど、信徒は毎月そこに10分の1を入れて教会に提出する。袋は受領印が押されて返ってくる。まさに月謝

 もちろんこの什一献金は、日曜礼拝や祈祷会での献金とはまったく、完全に、徹底的に、「別」である。


■信徒側の現状

 ちょっと下世話な話だけど、おカネの話をしてみよう。一般的なサラリーマン家庭が、こういう教会の信徒になったらどうなるか。
 事例として、サラリーマンのお父さんと、専業主婦で教会でよく無償奉仕をするお母さんと、小学生の子供が2人、という家庭を想定してみる。

 サラリーマン給与は社会保険等が控除されるから、「総支給額」と「手取り額」は当然ながら違う。仮にお父さんの総支給額を40万円とした場合、扶養が3人なら控除額はだいたい10万円弱だから、手取り額はザックリ言って30万円チョイ。で、什一献金は手取り額でなく総支給額の10分の1で計算するので、この家庭の什一献金額は4万円。すると残りは26万円チョイ
 そしてそこから、日曜礼拝や祈祷会での「自由献金」を支出する。1回の「自由献金」を千円とすると、月に8千円くらい。すると残りは25万円チョイ。
 というわけで一家4人、25万円くらいで生活することになる。
 生活環境にもよるけれど、いささか厳しい数字ではないか思う。質素に暮らすにしても余裕はないだろう。子供の教育費とか将来に向けての貯蓄とか、いろいろ不安になるかもしれない。

 でも「主のものを盗んでいない」という安心感を得られ、かつ「主に従っている」という自負を得ることができる。また教会に対する帰属意識も強まる。それもどうなのって話だけど。

■教会側の現状

 什一献金をする教会は、教会会計の大部分をそれに頼っていることが多い。

 そもそも教会は、どこかの教団に属しているとか、何かの事業をしているとかでなければ、献金の他に収入源がない。しかも毎回の礼拝献金だけが収入源だとしたら、相当悲惨なことになってしまう。日本の教会は平均礼拝出席者数が50人前後らしいけど、1回の礼拝で仮に全員が千円ずつ「自由献金」したとして、5万円。月にすると20万円~25万円。その他に祈祷会とか特別な集会とかで献金が集まったとして、30万円がいいところだろう。
 でもこの数字はあくまで「良い場合」で、それより低い場合も当然ある。そうすると会堂家賃とか光熱費とか印刷代とかの教会運営費を賄うのがやっとで、牧師への謝儀などとんでもない。牧師の専業などまず不可能だ。

 しかしそこに什一献金が導入されると、事態は一変する。一信徒(一世帯)が毎月3万円とか4万円とか(礼拝献金とは別に)収めてくれるから、教会収入は劇的に増加し、かつ安定する。牧師の専業も可能になるだろう(牧師の専業が良いかどうかは別として)。

 だから現在什一献金をしている教会に「什一献金やめろ」と言うのは、「教会やめろ」と言うのに等しい。

 ちょっと個人的な体験を書く。
 クリスチャンの知り合いに、立派に働いていて、それなりの地位もあって、収入も十分にある(と考えられる)男性が何人かいる。彼らは教会に対して熱心だけど、猪突猛進タイプでもなく、そのへんのバランスは良いように見える。みんな教会は違うんだけど、それぞれ什一献金をしている。どの教会も別段カルトっぽくはない(まあこれは見た目ではわからないけれど)。
 そんな彼らに、私は個別に質問したことがある。什一献金についてどう思いますか? やってない教会もありますけど? という質問を。すると彼らの答えは面白いくらい同じだった。もちろん言葉遣いは違うんだけど、内容は一緒。こんな感じ。

「え、什一献金しないで、どうやって教会運営するんですか?」

 これは私の勝手な解釈だけど、きっと彼らは教会のことが大好きで、その運営を助けたいと思っているんだと思う。あるいは自分も教会のお世話になっているのだから、その教会を支えるのは当然だ、と思っているのかもしれない。教会が什一献金で成り立っているのは彼らにとって常識みたいなものだから、なんなら「什一献金」という呼び名でなく、文字通り「月謝」でいいかもしれない。たぶんその方が、彼らの在り様を正しく伝えられるかもしれない。

■什一献金がカルト化を助長する場合

 そういう健全と思われるケースもあるけれど、やはり什一献金には、負のイメージが強い。
 前述したように信徒に対する「脅し」と「強要」になってしまうケースもあるし、他にもある。ちょっと列記してみよう。

・拝金主義やご利益主義に陥らせる

 什一献金を信徒に払わせ続けるには、脅しと同時に「アメ」が必要になる。 什一献金を払うことによって「天に宝を積んでいる」とか、「報いは大きい」とか、「捧げた幾倍も得ることになる」とかいうニンジンをぶらさげる。それで結果的にどうなるかと言うと、信徒は見返りがほしくて捧げるようになる。あるいは幾倍にもなることを期待して捧げるようになる。つまり、より多くのお金がほしいからお金を捧げる、という動機。でも見返りがほしくて捧げるのは、もはや「捧げる」行為ではない。そういうのは「投資」と言う。

・教会内差別を生じさせる

 教会には明らかに高収入と思われる人と、そうでないと思われる人とがいる。双方で毎月の什一献金額も当然違うし、いろいろなイベント時の貢献度も違う。ある家庭なんかは、教会でイベントがあるたびに大量のオードブルとか飲み物とかを提供していて、まあ余裕があるんだろうなあと思わせる。それはそれで素晴らしいことなんだけど、結果、牧師の態度が変わる(ことがある)。

 ある時、海外から「大物ゲスト」がやってきた。 教会をあげて歓迎したんだけど、なぜか牧師が名指しで紹介したのが、この高収入家庭だった。べつに教役者じゃないし、何かのリーダーでもないし、普通の信徒の一員なのに、なぜこの家庭だけ? という違和感を覚えたものだ。
 他にもいろいろあるんだけど、まあ牧師は大切にしていた。この家庭を。

・初めての教会でそう教えられたら、捧げる以外にない

 これは什一献金だけの問題ではないけれど、初めて行った教会の言うことが全部正しく聞こえる、みたいな状況はあると思う。
 特に什一献金教会の場合、什一献金を否定するような聖書解釈をなるべく信徒に見せないようにしようとするし、特にそのことに言及しようとしない。
 また、什一献金しないことはすなわち「主への反逆」であり、救いから漏れる、くらいに言う。あるいは什一献金しないクリスチャンのことを「自分のために生きている人たち」とか「本物ではない」とか言う。そして逆説的に、「什一献金する自分たちは本物のクリスチャンだ」という結論に持っていく。
 そうなると、信徒はもう什一献金する以外にない。あるいは喜んで、「本物」というプライドにのっかって、捧げるようになる。

■ひとまず結論

 という訳で、什一献金の現状と弊害について書いてみた。これは必ずしも什一献金を完全否定するものでなく、あくまで「現状どうなっているか」について述べたものだ。

 什一献金についてアレコレ学んだうえで、それでも「自分の教会を支えたい」みたいな動機で捧げるなら、それはそれで全然悪くないと私は思う。だから要は、個人個人がよく学び、よく考えて、「信仰の通りにする」のがいいんだと思う。
 ただ悪意のある教会(牧師)ほど信徒の考える機会を奪いにかかるので、いかんともし難いのだけれど。

QooQ