「什一献金は信徒から金銭を巻き上げる為の教会側の口実だ。
新約聖書はそんなこと命じてない。
あたかも聖書の命令であるかのように教会側が勝手に解釈しているだけだ」
と、いうような趣旨。
私は基本的に、それには賛成だ。けれど「什一献金は悪だ」という表現についてはちょっと思うところもある。なぜならカルトっぽくない教会で普通に什一献金を実施していて、信徒の皆さんもべつに騙されて捧げている訳ではないところもあるからだ。だから今回は、聖書解釈の問題はさておき、そのへんの什一献金事情について書いてみたい。
ちなみに過去にも何度か書いているので、興味のある方は「什一献金」のラベルからどうぞ。
■什一献金の概要
什一献金はマラキ書に「だけ」根拠をもつ献金の一スタイルである。全収入の10分の1は主のものだから、主に返す必要があって、返さないと「主から盗む」ことになる、盗んだ者は祝福されないよ? だから捧げなさいね、まさか捧げないなんて・・・ないよね? という話。
そこに「脅し」の要素が加わると一気にカルトっぽくなるので、注意が必要だ。
もう一つのカルト要素としては、信徒が正会員になってから突然その話をする、というのがある。ちょっと後出しジャンケンっぽいけど、まあ今更だったり、そういうもんかと単純に納得したり、あるいはこれが聖書の真理かと逆に感動したり、信徒の反応はいろいろだと思うけど、最終的には同意する(しなかったら教会には残らない)。そして自分の毎月の給与から、10分の1に相当する額を献金として教会に捧げはじめる。ずっと。ボーナスからも。年末調整からも。「什一献金袋」というのがあって、要は昔の「月謝袋」みたいなものだけど、信徒は毎月そこに10分の1を入れて教会に提出する。袋は受領印が押されて返ってくる。まさに月謝袋。
もちろんこの什一献金は、日曜礼拝や祈祷会での献金とはまったく、完全に、徹底的に、「別」である。
■信徒側の現状
ちょっと下世話な話だけど、おカネの話をしてみよう。一般的なサラリーマン家庭が、こういう教会の信徒になったらどうなるか。
事例として、サラリーマンのお父さんと、専業主婦で教会でよく無償奉仕をするお母さんと、小学生の子供が2人、という家庭を想定してみる。
サラリーマン給与は社会保険等が控除されるから、「総支給額」と「手取り額」は当然ながら違う。仮にお父さんの総支給額を40万円とした場合、扶養が3人なら控除額はだいたい10万円弱だから、手取り額はザックリ言って30万円チョイ。で、什一献金は手取り額でなく総支給額の10分の1で計算するので、この家庭の什一献金額は4万円。すると残りは26万円チョイ。
そしてそこから、日曜礼拝や祈祷会での「自由献金」を支出する。1回の「自由献金」を千円とすると、月に8千円くらい。すると残りは25万円チョイ。
というわけで一家4人、25万円くらいで生活することになる。
生活環境にもよるけれど、いささか厳しい数字ではないか思う。質素に暮らすにしても余裕はないだろう。子供の教育費とか将来に向けての貯蓄とか、いろいろ不安になるかもしれない。
でも「主のものを盗んでいない」という安心感を得られ、かつ「主に従っている」という自負を得ることができる。また教会に対する帰属意識も強まる。それもどうなのって話だけど。
■教会側の現状
什一献金をする教会は、教会会計の大部分をそれに頼っていることが多い。
そもそも教会は、どこかの教団に属しているとか、何かの事業をしているとかでなければ、献金の他に収入源がない。しかも毎回の礼拝献金だけが収入源だとしたら、相当悲惨なことになってしまう。日本の教会は平均礼拝出席者数が50人前後らしいけど、1回の礼拝で仮に全員が千円ずつ「自由献金」したとして、5万円。月にすると20万円~25万円。その他に祈祷会とか特別な集会とかで献金が集まったとして、30万円がいいところだろう。
でもこの数字はあくまで「良い場合」で、それより低い場合も当然ある。そうすると会堂家賃とか光熱費とか印刷代とかの教会運営費を賄うのがやっとで、牧師への謝儀などとんでもない。牧師の専業などまず不可能だ。
しかしそこに什一献金が導入されると、事態は一変する。一信徒(一世帯)が毎月3万円とか4万円とか(礼拝献金とは別に)収めてくれるから、教会収入は劇的に増加し、かつ安定する。牧師の専業も可能になるだろう(牧師の専業が良いかどうかは別として)。
だから現在什一献金をしている教会に「什一献金やめろ」と言うのは、「教会やめろ」と言うのに等しい。
ちょっと個人的な体験を書く。
クリスチャンの知り合いに、立派に働いていて、それなりの地位もあって、収入も十分にある(と考えられる)男性が何人かいる。彼らは教会に対して熱心だけど、猪突猛進タイプでもなく、そのへんのバランスは良いように見える。みんな教会は違うんだけど、それぞれ什一献金をしている。どの教会も別段カルトっぽくはない(まあこれは見た目ではわからないけれど)。
そんな彼らに、私は個別に質問したことがある。什一献金についてどう思いますか? やってない教会もありますけど? という質問を。すると彼らの答えは面白いくらい同じだった。もちろん言葉遣いは違うんだけど、内容は一緒。こんな感じ。
「え、什一献金しないで、どうやって教会運営するんですか?」
これは私の勝手な解釈だけど、きっと彼らは教会のことが大好きで、その運営を助けたいと思っているんだと思う。あるいは自分も教会のお世話になっているのだから、その教会を支えるのは当然だ、と思っているのかもしれない。教会が什一献金で成り立っているのは彼らにとって常識みたいなものだから、なんなら「什一献金」という呼び名でなく、文字通り「月謝」でいいかもしれない。たぶんその方が、彼らの在り様を正しく伝えられるかもしれない。
■什一献金がカルト化を助長する場合
そういう健全と思われるケースもあるけれど、やはり什一献金には、負のイメージが強い。
前述したように信徒に対する「脅し」と「強要」になってしまうケースもあるし、他にもある。ちょっと列記してみよう。
・拝金主義やご利益主義に陥らせる
什一献金を信徒に払わせ続けるには、脅しと同時に「アメ」が必要になる。 什一献金を払うことによって「天に宝を積んでいる」とか、「報いは大きい」とか、「捧げた幾倍も得ることになる」とかいうニンジンをぶらさげる。それで結果的にどうなるかと言うと、信徒は見返りがほしくて捧げるようになる。あるいは幾倍にもなることを期待して捧げるようになる。つまり、より多くのお金がほしいからお金を捧げる、という動機。でも見返りがほしくて捧げるのは、もはや「捧げる」行為ではない。そういうのは「投資」と言う。
・教会内差別を生じさせる
教会には明らかに高収入と思われる人と、そうでないと思われる人とがいる。双方で毎月の什一献金額も当然違うし、いろいろなイベント時の貢献度も違う。ある家庭なんかは、教会でイベントがあるたびに大量のオードブルとか飲み物とかを提供していて、まあ余裕があるんだろうなあと思わせる。それはそれで素晴らしいことなんだけど、結果、牧師の態度が変わる(ことがある)。
ある時、海外から「大物ゲスト」がやってきた。 教会をあげて歓迎したんだけど、なぜか牧師が名指しで紹介したのが、この高収入家庭だった。べつに教役者じゃないし、何かのリーダーでもないし、普通の信徒の一員なのに、なぜこの家庭だけ? という違和感を覚えたものだ。
他にもいろいろあるんだけど、まあ牧師は大切にしていた。この家庭を。
・初めての教会でそう教えられたら、捧げる以外にない
これは什一献金だけの問題ではないけれど、初めて行った教会の言うことが全部正しく聞こえる、みたいな状況はあると思う。
特に什一献金教会の場合、什一献金を否定するような聖書解釈をなるべく信徒に見せないようにしようとするし、特にそのことに言及しようとしない。
また、什一献金しないことはすなわち「主への反逆」であり、救いから漏れる、くらいに言う。あるいは什一献金しないクリスチャンのことを「自分のために生きている人たち」とか「本物ではない」とか言う。そして逆説的に、「什一献金する自分たちは本物のクリスチャンだ」という結論に持っていく。
そうなると、信徒はもう什一献金する以外にない。あるいは喜んで、「本物」というプライドにのっかって、捧げるようになる。
■ひとまず結論
という訳で、什一献金の現状と弊害について書いてみた。これは必ずしも什一献金を完全否定するものでなく、あくまで「現状どうなっているか」について述べたものだ。
什一献金についてアレコレ学んだうえで、それでも「自分の教会を支えたい」みたいな動機で捧げるなら、それはそれで全然悪くないと私は思う。だから要は、個人個人がよく学び、よく考えて、「信仰の通りにする」のがいいんだと思う。
ただ悪意のある教会(牧師)ほど信徒の考える機会を奪いにかかるので、いかんともし難いのだけれど。
十分の1ジャスト献金した事、ありましたけど、百倍になった事って、ありませんでした…orz
返信削除「キングズキッドの生き方」の本は面白いけど、あまりうのみにしないほうがいいかな。
返信削除自分も、期限を定めて思いきって十分の一したことあります。
今思うと、主の前に悪臭放ってたかもしれません。
日本版ハロルド・ヒルっぽい人々が配信している情報も、おもしろいなと思うくらいにとどめておいたほうがいいのかも。
うちの教会も十分の一献金はやっていますが
返信削除洗礼をうけても強制ではないですよ。
あと、新しい方に十分の一献金を進める場合でも
出来るのであれば十分の一が理想だけど、
それぞれの家計も大変だろうから自分の出来る範囲でやれれば十分みたいな感じです。 なので自分は最初は3か月滞納してしまっても献金出来る額を捧げていました。
同じ話を、什一献金は義務だと教えてる牧師から聞きました。
削除ところで、「什一献金はできる範囲でいい」との見解は、すでに什一献金されてる信徒にも言われるものなのでじょうか?
そうでないと不公平だと思いますし、いわば、献金は「取れるところから取るから、新人には無理させなくても今は大丈夫」みたいに聞こえます。
コメント有難うございます!
削除「什一献金はできる範囲でいい」これはすべての信徒に当てはまるものなんじゃないえすか?というかウチの教会ではそうなっています。
献金が強制になてしまったら、献金じゃなくなりますよね・・・
家計の苦しさは人それぞれですし、感謝を返すという意味では
あくまでも「気持」なので出来る範囲になると思います。
あとは、献金を捧げられる方は献金で、奉仕の時間を捧げられる方は時間を
お金は無理でも献品(野菜や日常用品)ならって方もいます。
形は違えど、主から頂いた祝福を返すという意味では共通するものはあるのかなと思います。
お返事ありがとうございました。
削除すべての信徒にとって、献金はできる範囲で良いとの意見、私も賛成です。
そうなると、「什一献金制度」の意味がなくなってしまいますね。
でも、新約聖書でイエスは「献金のやりすぎ」にクギをさしてますし、「什一献金」とは、収入の10分の1以上は寄付しなくていいと、寄付額の上限を設けるものだったのかもしれませんね。
洗脳の一言だと思います。
返信削除宗教と言う商売に引っ掛かっているだけだと思います。
目覚めたらわかります。
全能の神は、人間の労働の対価で養われる、張りぼてでしょうか?
真逆である事は明白だと思いますが。
思考停止にするのが、宗教と言う商売の醍醐味なのでしょう。
牧師一家のグータラ生活見てたら、真面目に献金する気はなくなります。
返信削除自分は働かず。信徒には脅してカネ集めする腹黒さに閉口します。
ただそれだけです。
什一献金で、あまりにも10分の1を強調するので、収入の10分の1以上を献金した場合、超過分は還付されるんですか、と牧師に質問したら、返事が返ってこなかったことがあります。
返信削除実際のところ、どうなんでしょうかね?
什一献金の一番の弊害は、教会に多額の寄付をすることで、信徒がほかの社会活動(寄付など)をする余裕がなくなってしまい、結果的に社会をにおける役割を十分に果たすことができなくなってしまうことだと思います。
私の知り合いで不動産を売ったお金も、什一献金の対象と教えられた人がいます。
返信削除什一献金に賛成の人は、不動産を訴えるお金の10文の1も、什一献金として寄付すべきとお考えなのでしょうか?
ぜひ、意見が聞きたいです。
手許に入る、ありとあらゆる「収入」の10分の1だ、と考えるでしょうね。
削除不動産を売ったお金も収入ととらえられて、什一献金しなさいというならまだましなほうじゃないですか?
削除私が聞いた話で一番ひどいと思ったのは、資金繰りが苦しくて借金した人に「借りた金も収入のうちだ。一千万融資されたなら、その一割の百万を献金しろ」といわれてさせられた人がいます。
ひどい話ですね
返信削除とりあえず、下記の記述は誤りでは... 創世記、ルカにも什一の奨励はありますよね。
返信削除>什一献金はマラキ書に「だけ」根拠をもつ献金の一スタイルである。
私はむしろマラキではなくアブラハムのまねっこをしたいという気持ちでささげています。
横槍かもしれませんが、その文章は誤りではありませんよ。
削除まず、創世記の件で、収穫物の10分の1を偉い人にささげることは当時の中東地域で行われた習慣です。
決して、聖書特有のとか、信仰によるものとかではありません。
続いてルカの件では、収穫物の10分の1を収めるだけでよかったにもかかわらず、律法学者たちは、はっかなど収穫物以外のものまでささげていた。
そのことで彼らが偉そうにしていたことへの警告です。
ちなみに、なぜ収穫の10分の1を収めていたかというと、貧困世帯などへの社会福祉のためであって、いわば「10分の1税」です。
マラキ書でも、イスラエル人が同胞の貧しい人たちをないがしろにしていたことへの警告です。
そして私たちは、消費税や所得税などの税金をおさめることで、こうした聖書の教えを実行しているのです。
ですから、「什一献金」として教会に富を集めることは、まったくの筋違いであり、もしそれで税金を滞納するようであれば、それこそ「神のものを盗んでいる」のです。
ですから本当をいうと、「什一献金」にはマラキ書にもその根拠はない、というのが正しいのです。
その通り(だと思います)です。
削除キリスト教福音主義・カリスマ・ペンテコステ・聖書崇拝の教会の大多数では、「聖書聖書」と言いながら、実は完璧な御都合主義です。
「十分の一は神のもの」だと。
「教職を養うのは信徒の責任だ」と。
聖書と言うのは、実に色々な解釈が出来ますし、それゆえ星の数ほど教派が存在しています。
自分こそ正しく、他は間違っている。
少しでも異を唱えようとして違う説を述べたら「私達はこれが正しいとずっとやって来てます。他の教会に行かれたら?」と牧師が言うのですから。
特定の教理に凝り固まった、煮ても焼いても喰えない状態の人々だと思います。
お金と時間のムダです。
私は今年から仕事が超大変になりまして、一切の奉仕を降りて、ほとんど顔を出しません。
最近とみに、以前の教会に縛られていた生活が馬鹿馬鹿しくて、本当に貴重な時間を無駄にしていたな、と反省する日々です。
ただ一つの真理など存在せず、キリスト教だって数ある宗教の一つなのですから、捕らわれの身になるのは自由ですが、一刻も早く目覚めて、一人でも多くの人達が教会になど行かなくなる事を、ただひたすら、全能の神に祈る毎日です。
「ほかの教会に行かれたら?」というのは、わりとたちのいいほうじゃないですかね。ひどいのになると「自分に逆らうことは神に逆らうことじゃあ!」とブチ切れて暴れるのもいますよ。
削除「教職を養うのは信徒の責任」というよりも「教職に贅沢三昧の生活をさせるのは信徒の義務」といいたいんじゃないですか本音は(笑)。
世の中には天照皇大神宮教のように、教団が起業してその収益で教祖一族の生活費や教団の維持費を賄い、ついでにいえば信者もそこで働いて給与を得ているというところもありますよ。
同じ新興宗教系なら少しはこれを見習ったらいかがでしょうかね。
伝統宗教だって、起業して地元の人間を雇って養っているところもありますよ。氏子に快く献金してもらう(神社はキリスト教会よりも負担が軽く、年に二回のお祭りのときに千円か二千円くらいですが)には、まず氏子がちゃんと生活できるようにしなくてはならないからです。
キリスト教だって、ド・ロ神父がいるではありませんか。現金収入の乏しい土地で、人々が安定的に生活を営めるように、そうめん工場を作ったのですよ。神父は今も「ド・ロ神父様」と慕われ、彼の名を冠したそうめんが売られており、遺徳をしのんで墓所にお参りする人が絶えません。
聖書の解釈は星の数ほどある。
返信削除まさにその通りだと思います。
だからこそ、牧師(プロテスタント教会)は、自分たちの方針をきちんと説明する責任があるのだと思います。
特に、「什一献金」など、信徒の生活に大きく影響を与える問題については、それこそ信徒が納得できるまで説明する姿勢が必要だと思います。
けれども、私が出会ったかぎりでは、「什一献金制度」に採用している牧師の方で、私がこれまで書いてきたような質問をしてもまともに返事が帰ってきたことがありません。
それが私がキリスト教に失望する理由の1つですが、「これ以上は議論しません」とか「わからなければ他へ行ってください」で一方的に打ち切られてしまいます。
そういう牧師の態度が、プロテスタント教会をタコツボ化して、牧師は教会や教団だけの「お山の大将」に成り下がっていくのだと思います。
これだけネットが発達した社会なんですから、牧師たちによる討論サイトや信徒や未信者も巻き込んだ議論サイトをつくって、深く広くキリスト教について話し合う場を作れば、もう少しキリスト教が市民に受け入れられる宗教になるのに、と思います。
まぁそれができないから、キリスト教はどんどん内向きになってカルト化するばかりなんでしょうけどね。
「昔は今のように現金経済ではなく、自給自足の暮らしだった。よって収入の一割ではなく収穫の一割だった。そして昔は祭政一致だった。宗教が政府の役割を兼ねていたので、収穫の一割を納税という感覚で供出した。それは福祉目的税も含んでいたので、社会保障の財源にもなっていた」
返信削除これ絶対に言わないから(笑)。リストラされた家の人間に失業手当から一割献金させる?あんた、それ逆でしょ?失業した家の人間には、教会からも失業手当を出して経済援助するもんじゃないの?それこそそんな家の住宅ローンや子供の教育費まで肩代わりしてやれよな!
でも現実に什一献金よこせとわめき散らす教会で、かわいそうな信者に援助したり肩代わりしてやったなんて話聞いたことある?ないでしょ?つまり現代で什一献金しろというのはやらずぼったくりというわけ。
昔は自給自足だし、収穫の一割を納税しても、家にはちゃんと食べ物があったので生活できた。しかし現代社会において、世の中の大半の人は自分の田畑を耕して自分たちの食料を生産しているわけではない。食料はすべて店に行って現金で買わなきゃいけない。つまり収入の一割も献金したら、下手をすると食料が十分に買えなくなって、飢え死にするかもしれないというのが現状。
つまり最悪の場合の社会保障としての機能という義務は無視して、自分たちが贅沢したいがために収入の一割をしっかり取り立てる権利があるとのたまう。収入の一割を取り立てる権利をいうのなら、その前にまずかわいそうな信者に援助するという義務はちゃんと果たしなさい!義務を果たしもしないくせに、権利だけは一人前に要求する。これが新興宗教系プロテスタントの悪いところです。
十分の一献金についてのコメントが多いのは、それだけ大勢の人が疑問に思っているからです。教会が説明する明確な聖書箇所だと言うものは、単なるこじつけでしかなく、やはり宗教なのだと。
返信削除他の重要と言える教理についてもですが、さまざまな文献を調べたら、多くの疑問が出て来ますよ。歴史が証明しています。こじつけ。
全体像は「特定の人種(白人)が他の人種を支配するために作り上げたシステム」。
日本人が思うような綺麗事ではありません。
そう言う思想が根本にあるから、現実、現場の末端では、「ママゴト」「教会ごっこ」に終始するしかないんです。だから、人の不幸は「祈りましょう❗」で終わり。
全てに於いて、御都合主義なのですから。
「目を覚まして」教会から出ましょう❗
そういえば新興宗教系プロテスタントの聖職者の中にこのような主張をする人がいたのを思い出しました。「私たち聖職者は現代におけるレビ族なのです」
返信削除レビ族=耕す土地を持たず、宗教専業でやっている人たちなので、当然宗教活動によってしか収入を得られない。
↓
古代のユダヤでは十人で一人のレビ族の人間を養った。
↓
ここは「正統的な教えの教会」であるから、古代ユダヤの規定に従って、お前ら信者は総収入の一割を、われわれレビ族に差し出すべきである。
しかしこれはかなり乱暴な論理で、古代ユダヤの話がそもそも現代社会に通用するかという・・・(笑)。
そこまでいうのなら割礼を子供のころに済ませてあるのかい?奥さんは頭髪を全部そっているのかい?食物に厳格なタブー(豚肉は禁止で肉と乳製品を一緒に料理できないし、食器も分けなくてはならない)も守っているのかい?
だいいち自分たちをレビ族というのは明らかにおかしいじゃないか。レビ族というものは、レビ族に生まれた人間で、宗教を職業にする身分を世襲しなくてはならなかったし、ついでにいうならあの時代は職業選択の自由なんかなかったよ?
本人は「祈っていたら聖職者になれという神の声が聞こえた。神の命令でなるべくしてなった」と主張しますが、古代ユダヤでは「祈っていたら神がレビ族になれといったから」という理由で、自分で勝手にレビ族になるなんてことはありません!
つまり職業選択の自由がある時代で、ヒンズー教のインドのように厳格なカースト制度で、先祖代々の職業に就く義務があるわけではないのに、本人が聖職者になっている(あるいはそのまま世襲する)のは「自分でなりたくてなった」わけであって、別にレビ族でもなんでもないじゃん!
その通りです。
削除彼らは全てが、全てに於いて「御都合主義」なのですから。
そんな者達の所へワザワザ出向いて、言いなりになったり、恐れおののいて「ここは正に神のものだ」等と勘違いをする必要がありません。
と言うよりも、時間とお金のムダです。