2016年5月8日日曜日

「感動体験」と「神の働き」の混同

 私は教会奉仕に熱心だった頃、ずっと「リバイバル」について誤った理解をしていた。
 その時代が終わり、村上密先生のこちらの記事を読んだのをキッカケにいろいろ調べるようになって、誤りを確認した。しかし私のように勘違いしている人は今も大勢いると思うので、同記事を少しでも広めたいし、私自身の言葉でも訴えていきたいと思う。

「リバイバル」の意味は「信仰の復興」であって、大勢の未信者がいっぺんに信者になることではない。 でも私は「リバイバル」を「大勢の未信者が超自然的にどんどん救われて教会に溢れる」みたいな現象を夢想していた。だから根本的なところで意味を履き違えていた。

 また上記の紹介記事にあるように、世の終わりに起こるのは「リバイバル」でなく「背教」だと聖書は言っている。多くの者が惑わされるとも書いてある。敬虔な信者がわんさか増えてハレルヤ、みたいな状況になるのではない。むしろその逆だ。

 と、いうのはすごくわかりやすく、客観的で正当な聖書解釈だと思う。どう読んでも聖書はそう言っている。けれど「リバイバル」信奉者にかかると、こういうのは「サタンンの惑わし」になってしまう。彼らは聖書の記述をいろいろ引用する割に、自分たちの都合でそれを曲解したり無視したりしている。そしてそのことにさえ気付いていない。だからいくら理屈を論じても、いっこうに話が入っていかない。

 彼らはべつに知能に問題がある訳でない。なのに、何故そんな簡単なことがわからなくなってしまうのか。これについては私もずいぶん考えたけれど、その答えはおそらく彼らの「感動体験」にあると思う。

■厄介な感動体験

 主に聖霊派の話になると思うけれど、礼拝や祈りや賛美で「どれだけ感動したか」が彼らにとって重要になっている。熱い賛美、情熱的な祈り、お涙頂戴のメッセージ、などでどれだけ泣けて、どれだけ心を震わせられて、どれだけ叫べたか、みたいなことで「神の働き」や「神の臨在」が測られる。つまり自分が感動すれば神が働かれた、感動しなければそうでもなかった、みたいな判断だ。完全に自分の感覚頼みで、実は神様なんて全然関係ない。

 くわえて周囲の人間の「感動体験」もそこに影響する。つまり同じ教会の信徒たちが同じように心を震わせて、「神様すばらしい!」とか「神様が働かれた!」とか言うので、あーやっぱり自分の感覚は正しいんだなと変な自信をつけてしまう。赤信号でも、皆一緒だから怖くないのだ。

 その根本的な原因は「教え」にある。誰が最初に言い出したのか知らないけれど、たぶんペンテコステ運動の流れの中で派生したんだと思う。「感動体験=神の働き」という図式が。

感動体験=神の働き

  これは昨今の福音派・聖霊派の皆さんの、キリスト教信仰に関する甚だしい勘違いの、根源に横たわっている図式だと思う。いろいろな問題がここに根を持っている。上述のリバイバルも、預言も、異言も、癒しも、啓示も、霊の戦いも、ダビデの幕屋も、和解の務めも、その他のいろいろなムーブメントもすべてそうだ。個人的な「感動体験」に「神の働き」が勝手に組み込まれ、あたかも神がそう語ったかのように、神がそう働かれたかのように、言い広められてきた。

 それは波紋のように広がり、新たな波紋を誘発させ、そういう波紋が何重にもなって、あたかも大きな波が水面に起こっているかように思わせる。完全なる捏造。でも神様はそこに少しも関係していない。

■解決はあるのか

 人は理屈で固められると、余計に反発したくなるという。つまり正論だから納得するのではない。それは実感としてわかる。人が動かされるのは、やはり「感動」した時だ。

 ということは、彼らが教会やいろいろな集会で何重にも受けてきた「感動」を上回る、「逆感動」が必要になるという訳だ。ちなみに私の場合、それは牧師がしてきた不正の発覚と、その結果としての教会の解散だった。その強烈な「逆感動」が、私を現実に引き戻してくれた。そのことでこそ私は神様に感謝したい。

 ただ、そういう「逆感動」はなかなか起こりそうにない。牧師の不正発覚も、教会の解散も、そう簡単にあちこちで起こるものではないからだ。
 だからやはり、こういうことを地道に書いていくしかないのかな、と思う。

1 件のコメント:

  1. 逆感動があっても目が覚めない人は決して少なくはありませんよ。オウム(現アレフ)がまさしくそうではありませんか。地下鉄にサリンをまいたことも、麻原が信者に菜食と禁欲を強制しながら、自分はファミリーレストランでエビフライを食べて、美人の女性信者たちとハーレム状態だったとわかっても、信者たちは全く動揺もせず、怒りの感情すら持たなかったのですからね。
    オウムは出家型コミューン宗教で、教団の中では在家信者より出家信者のほうが霊的ステージが高いということになっていたわけですが、麻原自体は在家で、出家した信者が家庭を解体したのに、麻原は家族と一つ所で暮らしていましたよね。こういったことは信者全員がわかっていたわけですが、麻原が何をしようが誰も関心を持たなかったといえるのかもしれませんね。
    オウムの事例でいえることは、深く洗脳が進んでしまった信者は、かえって教祖(もしくは上層部全体)の所業には無関心になってしまうものだということなのです。

    「体験を疑え」とよくいわれます。オウムの信者たちが、麻原が肉食をして女を抱いていたのが発覚しても教団にとどまったのは、「尊師の私生活なんかどうでもいいんです。自分がオウムのイニシエーションで体験したことは本物とわかっているので・・・」という感じになってしまったこともあると思うのですね。
    教祖の実態があれでも、全財産や人生を布施してまで体験したことですので、絶対に否定したくないのが人間の心理というものなのですよ。「○○のイニシエーションで××がわかった」が、彼らのアイデンティティのすべてになってしまっているのです。
    しかしそのイニシエーションとは幻覚剤によるものだったわけですが・・・

    新興宗教系プロテスタントは、薬物を使わない分、「体験を疑え」といっても、なかなか目が覚めないでしょうね。「オウムは薬物を使っていた。私たちは薬物を使っていない→だからオウムと違って本物だ」となってしまうからですよ。
    薬物という反則技のオウムですらあれですので、薬物を使わない新興宗教系プロテスタントとなると、信者に「体験を疑え」といっても、オウムよりもはるかに難しいものになりそうですね。

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