2016年5月11日水曜日

「洗脳の10の手口」のキリスト教会版(前篇)

 カラパイアの記事『洗脳。その恐ろしい10の手口と実体』を読んだ。

 これはアメリカの「人民寺院」など、歴史的にも規模的にもインパクトの強かった新興宗教の洗脳の手口について書かれたもの。けれどこれ、新興宗教だけでなく、カルト化したキリスト教会でもみられる手口だと思う。だから今回は、上記記事をキリスト教会版に構成し直してみたい(元記事を読んだうえで比較してもらえるとわかりやすいと思う)。

 ご自身の教会のカルト化の危険性について、参考にしていただければ幸いである。
 では、「洗脳の10の手口」のキリスト教会版、前篇

⑩賛美や「異言」や「霊歌」による洗脳

 元記事にある通り、信徒による歌唱詠唱は、強い一体感と仲間意識を芽生えさせる。教会で一生懸命賛美する人には、きっとそういう覚えがあると思う。また教会だけでなく、部活の大事な試合で歌う校歌とか、国際試合で歌う国歌とかでも、強い一体感とともに感動を覚えたりする。だから皆で賛美を歌うことで「私たちは神の家族」という一体感や特別な愛情を感じるのは、必ずしも「神の働き」によるものとは言えない。

 だから、歌唱にはもともと特別な心理作用がある。ということはよく知っておく必要がある。

 ちなみに言うと、私は「神の働き」を否定したいのではない。何が「神の働き」で、何が「神の働き」でないのか、ハッキリさせたいだけだ。

 さらに歌唱には特別な作用がある。抑揚の低い同じフレーズを繰り返し歌うことにより、人間の脳はいわゆるトランス状態に傾く。脳波のうちα波が強くなり、意識レベルが低下し、被暗示性が強くなる。
 オーソドックスな讃美歌、聖歌などは歌詞が小難しく、けっこう歌うのも大変で、また繰り返すこともなくサクッと終わるので、トランス状態にはなりにくいと思う。けれど昨今のコンテンポラリーな賛美は、メロディが単調うえ、同じフレーズ何度も繰り返す(教会によるだろうけど)。曲と曲の間にはさまる「霊歌」とか「異言」の祈り(ちなみにこれは異言ではない)とかも同様で、単調な音の繰り返しが続く。この繰り返しが、トランス状態を招きうる。
 被暗示性が強まるから、この時に見たものや聞いたものが後々まで印象に残ったり、行動に影響したりする。人によっては幻覚を起こすかもしれない。存在しないものが見えたり、聞こえたりするかもしれない。そしてそれを「特別な体験」「超自然的な体験」と捉えてしまう可能性がある。

 だから昨今の賛美が直ちに危険だ、とは言えない。けれど賛美にかける時間には注意した方がいい。賛美にたっぷり時間をかける教会だと、本人が自覚しないままトランス状態に陥っている可能性がある。それゆえの精神的体験を「神からのもの」と思ってしまうことにもなりかねない。

⑨外部からの孤立、あるいは情報統制

バイブルキャンプ」なんかはこれの典型だと思う。海とか山とかの閉鎖的な環境で2泊とか3泊とかして、集中的に、ある一連のメッセージを聞き続ける。繰り返し繰り返し。すると頭の中がそのメッセージに侵食されていく。良いメッセージだと認識しているから、侵食は尚更早い。
それが数日間のキャンプならまだしも、もっと長期間、同じような状態が続いたらどうなるか。頭は一連のメッセージに従って考えるようになる。思考力や判断力の低下も避けられない。誰であっても。

 またそういう物理的な隔離や孤立がなくても、情報における隔離や孤立は起こり得る。都会の真ん中にいても。
 たとえば、  
「この本はサタンの影響を受けているから危険だ」
「あの人物の思想は聞くだけでもあなたの霊に傷がつく
「あの牧師の主張を目にするだけで悪霊の影響を受けてしまう」
  
 みたいなことをずっと言われて、精神的な「鎖国状態」へと自分自身を追いやってしまう。自分の心を守るため、有害な情報を入れてはいけない、触れてはいけない、と強迫的に考えるようにさえなる。すると、周囲に情報は溢れていて、いつでもアクセスできるのに、自らシャットアウトしてしまう。そしてますます視野狭窄に陥っていく。 わずかな情報をもとに物事を判断することになる。それはもはや判断とも言えない。
 
⑧依存と恐怖

 牧師と信徒の(あくまで)一般的な関係を考えてみると、その知識量や経験の違いから、「導く側―導かれる側」「教える側―教えられる側」という関係になると思う。だから信徒は牧師のお世話になることが多い。それ自体は自然なことで、たぶん避けられない。

 問題は、牧師がその関係をどうにでも操作できてしまう立場にある、という点。
 良識ある牧師なら大丈夫かもしれない。けれど、たとえば信徒を自分に依存させることもできるし、「○○しなければ××だ」みたいな恐怖を植え付けることもできる。そこは牧師の一存で、どうにでもなる。

 た信徒のコミット具合にもよるけれど、その教会にとってふさわしい人間になろう、牧師に気に入られる信徒になろう、みたいな意志もはたらく。記事にあるパトリシア・ハーストの話もそうだ。テログループに拉致された彼女は、もはやそこから逃げられない、そこで生きていくしかないと悟り、ある意味積極的にテロリストになった。
  そこまで極端な話でなくても、一部の教会内で同様のことが起こっている。牧師に完全に依存してしまい、もはや自分で判断できなくなった信徒、恐怖によって支配され、牧師に言われるまま行動してしまう信徒、など。
 そういう信徒操作が始まると、カルト化はすごく早い。
 
⑦長時間の礼拝・祈祷・賛美

 私の教会がまさにそうだったけど、礼拝も祈祷も賛美も異様に長かった。記憶によると、日曜礼拝の最長記録は5時間超だ。賛美だけで1時間、メッセージで2時間、その後の賛美とか「霊歌」とか「異言」とか「招き」とか「按手」とかで2時間、という内訳。
 牧師が何を狙ってそこまで長くしたかはわからない。宗教行為で信徒を縛りつけたかったのかもしれない。あるいは礼拝を自分の「ショー」みたいに思っていたのかもしれない。いずれにせよ、長時間の礼拝行為で信徒が疲弊ていたのは事実だ。といっても「神様と時間を過ごしている」という認識だったから、ある意味心地よい疲労感だったんだけど。

  元記事にある通り、その疲労感が、信徒の不平や不満を鎮めていたのはあると思う。教会生活を送っていれば、細々したところで、いろいろ不満も出てくる。けれど華やかな礼拝の中、ドンシャンドンシャンやりながら、なんかすごいことが起こっているような気がして、その中でずーっと踊ったり叫んだり祈ったり歌ったり、そうこうしているうちに、「まあいいや」みたいな気持ちになる。体も心もグッタリして、怒る気力もなくなる。そういう効果は確かにあった。

⑥過重な奉仕による搾取

 カルト化、あるいはカルト傾向のある教会の特徴として、「信徒は奉仕をして当たり前」という考え方がある。信徒である以上、何かの係や担当になって奉仕をするのが「当然」であり、「使命」でさえある。奉仕のない信徒は半人前扱いされる。そういう雰囲気の中だから、誰もが奉仕をしようとする。
 しかもそれが「神のため」「霊的成長のため」となれば、やらない訳にはいかない。そして頑張れば頑張るほど牧師に褒められ、教会内の地位も安定していくから、ますます奉仕が重要になっていく。

 そういう奉仕の仕方だから、必然的に長時間労働になる。実際私の教会で徹夜なんて当たり前だったし、何日も家に帰れないとか、寝に帰るだけとか、そういうのが常態化していた。
 すると私生活も奪われ、時間も奪われ、文字通りすべてを教会に捧げた生活になっていく。それは一見「敬虔」だ。よく仕える立派なクリスチャン評される。だからあまり疑問に思わない。でもその姿はもはや「奉仕ロボット」みたいなもので、社会性も失われていく。忙しすぎて、親戚の結婚式とか葬式とかにも出られな

 結果、自発性とか自己選択とかいう、人間として大切な機能を放棄することになる。しかし神は人間の自発的な選択を良しとされ、願われている。その点だけ考えても、これはどうもバランスが悪い。

(後篇に続く

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