このところ映画ネタが多い気がするけれど、また映画ネタからキリスト教の話をしてみたい。
映画『シビル・ウォー』を劇場鑑賞した。大変よくできていて面白かった。これはMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)というアメコミ映画の作品群の1つで、主人公はスティーブ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)だけれど、いわゆるアベンジャーズの各キャラも沢山登場している。物語的には『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』の続きとなっている。
私はアメコミにもヒーロー物にもさほど関心がなかったけれど、MCUの作品は、なんとなく全部観ている。映画で連続ドラマをやっているようなものだから、続きが気になるというのもある。
で、長い話を簡単に書くと、多くの街や人を犠牲にして戦ってきたアベンジャーズが、その被害の甚大さから、ついに国際世論の批判を浴びる。そして国連の管理下に置かれることになる。それを良しとするトニー・スターク(アイアンマン)と、断固反対するスティーブとの間で確執が起こる。2人の対立は、やがてアベンジャーズを二分する内戦(シビル・ウォー)へと発展してしまう。
という訳でヒーロー集団vsヒーロー集団の戦いが面白いのだけれど、物語の中核はきわめてシリアスだ。トニーにもスティーブにもそれぞれ揺るがない信念があって、互いに仲間だけれど、対立せざるを得ない。決して相容れない。今作では圧倒的な「悪」は登場しない。その分、ヒーローたちの葛藤に光が当てられている。
■自分の信念に従うか、組織に従うか
今作のテーマはまさにこれで、自分の信念に従う男(スティーブ)と、組織に従う男(トニー)との戦いである。それぞれの過去をみれば、その対立がよりわかりやすくなる。
まずスティーブだけど、彼は愛国心と忠義心の塊みたいな男だった。第二次世界大戦当時、志願兵の検査を何度も受けるが、虚弱体質の為ことごとく落とされてしまった。しかしいろいろあって超人化計画の対象に選ばれ、キャプテン・アメリカとなる。そして国の為、正義の為、軍隊やシールドといった組織の下で戦ってきた。
しかし前作『ウィンターソルジャー』でシールドの腐敗を知り、組織を信じられなくなってしまう。もはや信じられるのは親友と仲間たちだけ。だから「国連の管理下に置かれる」なんて、彼には全然考えられない。
一方のトニーは、大企業の社長であり、天才工学者であり、大金持ちだ。基本的に個人プレーしかしない。昔から自分のやりたいようにやってきた。しかし自社が製造した兵器が悪用されるし、良かれと思って造った人工知能『ウルトロン』が暴走して大参事になるしで、もはや自分のやることが本当に正しいのかどうか、わからなくなってしまった。だから第三者の公正な判断に自らの行動を委ねたい、と考えるようになった。
ちょうどそこにアベンジャーズを国連の管理下に置くという話が出で、彼は率先して賛成する。つまり好き勝手にやってきた男が、自分の非を認め、組織に従うことを選んだ。
ここには皮肉な逆転がある。ずっと組織に仕えてきたスティーブが、組織の非を知り、組織を離れた。一方、自分の信念に従って生きてきたトニーが、己の非を知り、組織に従属した。それぞれ見てきた景色が全然違うのである。だからその結果も、全然違うところに2人を運ぶことになった。
■これをクリスチャンに置き換えると
私個人はスティーブにものすごく共感している。私は長年教会に仕えてきたけれど、その教会が根本的に数々の問題を抱えているのを知ったからだ。 それはスティーブの体験と性質的に似ていると思う。現に私は今も、教会や牧師に管理されたくないと思っている。だからカトリックのミサで完全放置されるのはむしろ心地よい。
また私だけでなく、教会に躓いたことのあるクリスチャンにはそういう考え方をする人が少なくないようだ。一つの教会に定められないとか、牧師を信頼できないとか、そういうことで悩んでいる人もいる。そうなるのも当然だと思うけれど。
一方で、かつての私のように教会にドップリ浸かっている人もいる。「神の家族」の連帯意識に居場所を感じ、牧師に心酔し、その教会が教える聖書知識に染まっていく。組織特有の面倒臭さもあるけれど、居心地は良い。
私は教会や教会に属することを否定したいのではない。ただ「ドップリ浸かる」のはいろいろ危険だと思っている。あるいは「ドップリ浸からないと認めてくれない教会」は危険だと思っている。
組織に完全に従属することで、心が安定するかもしれない。けれど純粋な意味での「自分の判断」は消失していく。組織の考え方や価値観に思考が染まっていくからだ。客観性が失われていく。あるいは客観と思っていることが主観でしかないという事態になっていく。組織の中にいてもある程度距離を置いておかないと、いろいろ見えなくなってしまう。
また教会だけの話でなく、どの組織もそうだけれど、問題のない教会組織というものはない。何かしら問題や難点がある。「神の教会だから大丈夫だ」「神様が導いて下さるから大丈夫だ」ということもない。組織は人が集まって運営し、人が動かしていくものだから。自浄作用を保つも失うも、人次第。そこに神の介入を期待することは、組織運営をどこかに放り投げるのと同じだ。そこは人間の責任としてやっていかなければならない。
■ある結論
ではこの映画は、スティーブとトニーの対立にどんな解答を提示しているのか。
結末としては、2人は別々の道を進むことになる。けれどトニーの行動をみると、結局のところ、組織に従うかどうかはケースバイケースだ。トニーも最後は組織を欺き、スティーブとの友情を優先している。
だからやっぱり組織はダメなんだ、という話ではない。大事なのは客観性であり、自分の頭で物事をしっかり考えて判断することなのだと思う。自分の属する組織(教会)を絶対視するのでなく、視野を広くし、いろいろ情報を得たうえで判断していくことが、個人個人に求められるのではないかと私は思う。
またこれも持論だけれど、教会を信じられない、牧師を信じられない、というところで悩んでも仕方がない。そもそも教会も牧師も、信じる対象ではないからだ。私たちは当然ながら神を信じるのだけれど、それがいつのまにか教会信仰、牧師信仰にすり替わっていることがある。
聖書が言っているのは、「神に信頼する者は失望することがない」だ。これを反転すると、「神以外のものを信頼すると失望する」となる。神以外のものとは何か。それはたとえば教会。たとえば牧師。
教会は手段であって目的ではない。教会は手段であって信じる対象ではない。私たちは神を信じているのであって、教会の絶対性を信じているのではない。というそれだけの話。
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