聖書の言葉と自分の感覚、どちらを優先すべきか?

2023年6月27日火曜日

キリスト教信仰

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 拙ブログ記事『 聖職者はモラハラに走り、信仰はゴッコ遊びになる』の続き。未読の方は先にこちらを読んでいただきたい。

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 浮気の発覚をきっかけに、この牧師が妻に長年暴力を振るっていたことが判明した。他にも多くの信徒スタッフ(私含む)にモラハラ、パワハラを行っていたことや、その一部に暴力を振るっていたことや、教会会計を不正流用していたことなど、芋づる式に様々な悪事が発覚した。寝耳に水なことが多かった。けれど以前から、「牧師の妻に対する態度が酷すぎるのでは?」と疑問に思うことは度々あった。人前で妻を罵倒したり、妻の「駄目さ」を笑い話にしたりと、目に余るものがあったのだ。


 私は一度、悩んだ末に副牧師に相談したことがある。「夫婦のことに口を出してはいけない。神様が導いて下さる」というのが副牧師の返事だった。私も当時は「そういうものなのか」と納得してしまい、それ以上のアクションには繋がらなかった。結果、長年DVを放置することになってしまった(そこで私一人が踏ん張ってもどうにもならなかっただろう……とも思うけれど)。

「信仰の名の下の思考停止」に陥るのでなく、自分の感覚や胸の痛みをもっと信頼すべきだった。その教会においては(あるいはその牧師との関係においては)一事が万事そうだった。「牧師の私に対する扱いは酷いのではないか」と何度も考えた。けれどいつも、「自分が信仰的に未熟だからだ」とか「訓練を受けているのだから忍耐しなければならない」とかと考え直して自分を納得させていた。もっと自分の「おかしい」という気持ちを大切にすべきだった。自分の心の痛み、叫びを無視してはいけなかった。


 だから「神に委ねる」とか「耐えて祈る」とか「信じて待つ」とかの、福音派系教会でよく言われる言説が大嫌いだ。そうやって悠長に待っている間に、人が傷ついてしまう。自分が壊れてしまう。身近な誰かを犠牲にしてしまう。


 キリストの教えはそんな無慈悲なものではないはずだ。聖職者が何と言おうと、聖書にどう書いてあろうと、傷んでいる人を前にして沈黙すべきでない。「聖書の言葉と自分の感覚、どちらを優先すべきか?」と問われたら、多くのクリスチャンが迷いなく「聖書の言葉」と答えるかもしれない。しかし私は迷いなく「自分の感覚」と答える。

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