「罪を犯してはならない」と聖書に言われるまでもなく、「罪」が悪いものだとほとんどの人は分かっている。問題はそこでなく、「罪までの距離」が人によって全く異なる点だ。
例えば金持ちは「盗む」必要がないし、性欲が薄い人は「姦淫」に関心がない。逆にその日の食べ物に困っていれば「盗む」選択がリアルになるし、性依存症の人は「姦淫」に抗うのが困難だ(依存症なので「困難」という表現は正確ではないけれど)。
そのように「罪を犯してはならない」という言葉は人によって大きかったり小さかったりする。非常に大きな誘惑として感じさせられる人と、別世界の他人事として澄ましていられる人に等しく「罪を犯すか犯さないか」という基準を適用するのは公平ではない。もし適用するなら、その人の「きよさ」は生育環境や立場や健康状態などでほとんど自動的に決まることになる。信仰心は関係ない。本人の意志や選択も関係ない。
その不平等を無視して、罪を犯す必要がなかったり、犯しても上手く隠せたりする立場の人を「きよい」とし、環境的に罪を犯さざるを得ない人を「罪びと」と断罪するなら、それは福音ではない。恵まれた人をさらに優遇し、そうでない者をさらに虐げる道具に過ぎない。
「罪」を100%個人のものとしてのみ捉えるのは無理がある。個人の力ではどうにもならない、いわゆる社会的な「罪」や構造的な「罪」もあるからだ。一見個人的な「罪」に見えても、個人では抗えない背景や事情が隠れている場合もある。そういった視点を持たずにキリスト教的「罪」を語るのは非常に危険だと言わざるを得ない。