「肉の思い」という名の洗脳

2023年7月3日月曜日

キリスト教信仰

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 一部のキリスト教会が主張する「肉の思いを捨てなければならない」というよく分からない教えのせいで、自分の自然な心の動きや葛藤を「間違ったもの」として、自ら否定しなければならなくなる。洗脳みたいな構図だ。そうやって自分の心から出てくるものを次々と否定し、教会が提示する価値観や考え方、生き方で置換し、「教会が喜ぶ人間」になり変わっていくから(教会はそれを「霊的成長」とか「整えられた」とか言う)。そして教会は、同じような人間で溢れていく(教会はそれを「一致」と言う)。

 そもそも「肉の思い」とは何なのか。

 人間は「罪の性質」を持っている、とその手の教会は教える。だから存在自体が「悪」であり、「考えることや思いつくことはことごとく悪」だとされる。人間は放っておけば悪くなる、と(ノアの時代がそうだったように、と教会は補強する)。その「悪い思い」を、パウロの言い方を借りて「肉の思い」と表現しているのだ。


 「肉の思い」の対称になるのが「神の思い」「御霊の思い」「霊の思い」だ。これは神からくると教えられる。一生懸命に祈り、聖書を読み、心を吟味すれば「肉の思い」と「神の思い」を判別できるようになる、と教会は言う。そう教えられたクリスチャンは「これは肉の思いか」「あれは神の思いか」と悩むようになる。


 しかし何が「肉の思い」で何が「神の思い」かなんて、分かるわけがない。いくら祈ったって断食したって同じだ。しかし教会は「判別できる」と言い張る。だから真面目な信徒ほど、しなくていい葛藤に追い込まれる。内面を見つめる答えのないスピリチュアル・ジャーニーを、延々と歩む羽目になる。そして自分が自然に思いつくことを片っ端から否定して、教会で語られること、牧師から教えられることを判断基準にしていく。それが一番無難だからだ。結果、前述の「教会が喜ぶ人間」になっていく。

 しかしそもそもの話、人間が自然に思いつくことが全て「悪」なはずがないではないか。人間は(クリスチャンであろうとなかろうと)「神に似せて創られた」と書いてあるではないか。「悪い者ではあっても、子どもには良いものを与える」とも書いてあるではないか。現実世界の歴史を見ても、キリスト教国が悪をなし、非キリスト教国がその被害を受けるケースは枚挙にいとまがない。非キリスト教国が悪に心を痛め、正義をなすケースも然りだ。


 クリスチャンを殊更「きよい存在」「特別な存在」にしておきたい、という意図がこの「肉の思い」という言葉の背後にはある。


 「自分はああいうふうに反応したけれど、あれは肉の思いだった。神様に悔い改めなければならない」みたいな葛藤を延々と繰り返すクリスチャンがネット上にも沢山いる。昔の自分を見ているようで辛い。申し訳ないけれど、そこに「正解」などない。「肉の思い」「神の思い」という二項対立から離れない限り、あなたは死ぬまでその悩みから解放されない(死後に「天国」に行くとして、そこでも「神の思い」とか何とか言っているのだとしたら、結局そこでも解放されないと思う。それは果たして「天国」なのか?)。

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