プロテスタント教会の一部における「聖書のみ」は、神学史や教会史の軽視(無視)に繋がっている。
聖書だけ読んで、そこから「自分」が感じたものだけ受け取ればいい、インスパイアされたことだけが大切だ、となりがちだからだ。しかしそれは自分勝手な解釈でしかない。危険な上に、無駄が多い。特に信者になったばかりの人の「聖書から新しく発見したもの」は、実は何世紀も前に提唱され、議論され、とっくに廃れたものだったりする。既存の神学を知らないと、自分の発見が新しいものなのか古いものなのか、それさえ判断が付けられない。
「型」を破るには「型」が何かを知っていなければならず、それを最初から無視するのは「型破り」でなく「形なし」だ、という歌舞伎界の話に近い。
論文テーマを決める際に先行研究の有無をリサーチしておかないと、一生懸命書いたものがとっくの昔に書かれたものだったりして、恥ずかしい思いをする。研究者として初歩的すぎる失敗だ。しかしその手の教会で同じようなことが行われても、(神学の積み重ねがないので)誰も気づかない。だからいつも「これは新しい発見だ」と刹那的に喜ぶ、不毛な行為を繰り返してしまう。
神学を「古臭いもの」と退けても、知識ゼロの状態で聖書を読んだら、遅かれ早かれ自分もその「古臭いもの」と同じ疑問に突き当たって、結局先人たちの歩みを時間をかけてなぞることになる。それなら先人たちの積み重ねを先に学んだ方が、効率が良いのは自明の理だ。そうした視点の欠如が、今日の「聖書のみ」の弱点だと思う。「聖書のみ」という言葉だけが一人歩きし、好き勝手に解釈されてしまっているのではないだろうか。
「聖書のみ」は宗教改革時のプロテスタントの旗印の一つだけれど、ルターは神学者であり、もともと豊富な知識があった。何も知らない人の「聖書のみ」とは、スタート地点がそもそも違うのだ。「聖書のみ」は聖書のみではない。
神学は道しるべ |
似た話で、神学を「ただの学問であって、神との関係を築く役には立たない」としたり顔で語るクリスチャンがいるけれど、その人の信仰理解、神理解も、ある神学に基づいて構築されたものだ。神学がなければ信仰理解も神理解もない。自分の足もとの土台をぶっ壊して、それでも立っていられるのだろうか。
私のかつての牧師は「神学校にこもって勉強しても頭でっかちになるだけだ。実践がないから役に立たない」と豪語していたけれど、神学を学ばないと、でっかくなる頭さえない。頭がなくて、どんな実践ができるのか。
神学を離れた先にあるのは自由の平原でなく、どんな解釈も成り立つ無法地帯だ。神学はあなたを縛るものでなく、あなたの逸脱を防ぐ牧場の柵のようなものなのだ。謙虚に学ぶ姿勢が必要だと思う。