総収入の10分の1を毎月捧げる「什一献金(返金)」は、本人(とその支出の影響を受ける家族等)が十分納得しているなら自由に捧げればいいと思う。けれど、
①家族がしっかり納得していないのに勝手に捧げるのは「経済的DV」になり得る。
②「捧げないのは神様から盗むこと」と事実上脅して捧げさせるのは「恐喝」になり得る。
③「捧げた以上に(物質的にか精神的にか)祝福されて返ってくる」と確約するのは「詐欺」に当たる。
④「捧げた以上のものが返ってくるから捧げる」のは(結果がどうであれ)献金でなく「投資」感覚に近い。
といった点には注意していただきたい。
献金は本来、他者の必要のために、自分の懐を痛める行為だ。文字通り「捧げ物」であって、それによって何らかの「見返り」を求めるのは「捧げる」行為というより「対価を支払う」行為に近い。翻って什一献金を信徒に行わせる教会の多くは、「捧げれば神様が報いて下さる」と見返りを強調している。それは「見返りがあるから捧げる」という動機を強化することになる。では見返りが期待できないなら捧げないのか? という話になり、献金のコンセプトからズレてしまう。
もちろん人間の心は複雑でアンビバレントだから、見返りを求めたい気持ちを100%排除することはできない。捧げたら感謝の言葉の一つでも掛けてもらいたくなる。捧げる額が大きければ大きいほどその気持ちも大きくなる。しかし逆に言うなら、そういう気持ちが大きいなら捧げるべきでないかもしれない。「これくらい捧げて当然だ」と思えることが、結局のところ献金の納得感と満足感に繋がるから。そして自分が納得して満足していれば、見返りを求める必要もない。
その視点で考えると、自分の気持ちや状態、家族の経済的必要などの変化にかかわらず、毎月総収入の十分の一を捧げさせる固定的「什一献金(返金)制度」は、捧げる本人の納得感や満足感、ライフイベントに応じた経済的必要性を全く無視したものだと言わざるを得ない。その教会の会員であり続けるための「会費」、と言った方が適切かもしれない。
そして「什一献金を捧げるのは苦しい時もあったけれど、いつも神様が必要を満たして下さったから困ることがなかった。」と言えるのは、もともとそれなりの経済水準にあったからだ。あるいは生存(成功)バイアスが掛かっている。本当に経済的に余裕がなかったら困って当然だ。しかし「お金に困っている」とはなかなか言いづらい。結果、「什一献金を捧げ続けても困らなかった」話ばかりが広がり、ネガティブな話は表に出てこない。そして什一献金が礼讃される。それは経済的強者から弱者への、暴力にもなり得る。信仰を騙った暴力だ。