「死んで終わりじゃない(天国に行ける)」はキリスト教で広く言われる解釈だ。それが希望となってクリスチャンになる人もいると思う。けれど一方で、「いや死んで終わりにしてほしい」と願うくらい、絶望や苦痛に打ちひしがれている人もいる。「愛」とか「慰め」とかの綺麗事が全く通用しない、宗教が無力になるケースだ。
彼らが切実に必要とするのは、聖書とか神とか愛とか許しとかの「言葉」ではない。現金、安全、適切な治療、束縛からの解放、といった具体的な解決策だ。クリスチャンが「人の救い」を本気で言うのであれば、単なる「言葉」で済ませるのでなく、そういう困難すぎる現実に取り組む覚悟が必要だと思う。自分自身も傷ついたり、損害を被ったりする覚悟だ。
ある時、想像を絶する酷いめに遭ってきた人に、青二才だった自分は一生懸命「福音」を語った。誠意からの行動だったと思う。心から「救われてほしい」と思っていた。けれど相手から、「せっかく話してくれたのに悪いけど、全然響かない」とはっきり言われてしまった。衝撃だった。「この人はまだ福音に目が開かれていないんだ」などと傲慢なことは思えなかった。逆に自分が絶対と信じてきた「福音」の、脆さと薄っぺらさを思い知らされた。
いくら私の動機が良いものでも、いくら「福音」が良いものでも、良い結果をもたらすとは限らない。むしろその「良い」という感覚は、自己満足に過ぎないかもしれない。
「あなたを永遠に愛している、あなたを造った神様がいる」という言葉に気持ちが救われる人もいると思う。けれどそれが何の役にも立たない人もいる。そんなちっぽけな光では照らせないほど深い闇。その言葉で慰められるのは、まだ恵まれた人なのかもしれない。
「福音」を受け入れない人に対して「霊が開かれていない」とか「まだ準備ができていない」とか「罪に覆われている」とか偉そうに論じるクリスチャンがいるけれど、そうやって安易に問題を相手に帰してしまうことで、本当の問題を見えなくしている。語る側の問題だ。その「福音」は本当に相手を「救う」のか? 悲惨な状況に置かれて打ちひしがれている人に、その「福音」は一体どんな意味があるのか? 語る側は真剣に考えなければならない。
私個人は「死んで終わりじゃない」のは福音だと思っていた。生きるのは苦労の連続なのだから、死んだ後くらいラクになったっていいではないか。それに「自分という存在(意識?)が永遠に消える」状態も理解できなかったし、怖かった。
けれど最近は、案外その方がいいのかもしれない、と思うようになった。天国であれどこであれ、「その状態が永遠に終わらない」のはいつか苦痛になるかもしれない。それより眠るように存在が消えてしまった方が、「ラク」なのかもしれない。