2018年1月31日水曜日

クリスチャンって、「什一献金」を捧げるものなの?

什一献金を捧げ続け・・・これで良かったの?

 むかしむかし、ではありませんが、あるところに什一献金を捧げているクリスチャンがいました。
 彼は非常に真面目です。毎月収入のキッチリ十分の一を、教会に捧げていました。子供に何か買ってやる余裕はありませんが、「主が第一」なので仕方ありません。

 ところがある日、失業してしまいました。リストラに遭ったのです。やむなく失業手当をもらうことにしました。でも彼は真面目なので、そこからもキッチリ十分の一を教会に捧げます。そして就職活動をしました。が、これがなかなかうまく行きません。

 失業手当は平均給与の7割ほどですから、生活はカツカツです。というか、回りません。月末になると食費に事欠きました。でも礼拝で献金もしたいです(什一献金とは別に)。だから削れるところを削り、毎日節約です。子供の学校の給食費が払えなくなりましたが、これも「主のため」だから仕方ありません。

  何ヶ月かして再就職にこぎつけました。が、以前ほどの給与はもらえません。生活は苦しいままでした(それでも献金だけは律儀に続けるのでした)。

 そんなこんなで、子供が高校3年生になりました。大学に進学したいと言いだします。でも、そんなお金あるはずありません。そうだ、奨学金を借りればいいんだ! 書類を取り寄せてみましょう。なに? 連帯保証人が必要? しまった、頼む相手がいない。

 教会を優先するため、親とも親戚とも関係を断ってきたからです。友人もいません。再就職したばかりで、頼めるような上司もいません。

  というわけで、子供には大学進学を諦めさせ、就職させました。でも、すべてを神様に捧げてきたのだから、きっと報われるはずです。これで良かったんです。富に仕えず、主のみ仕えるとは、こういうことなんです。ハレルヤ!

  と、いうのは私の作り話なのですが、あながちフィクションでもありません。 似たようなケースを時々見るからです。
  さて、皆さんはこういうの、どう思われるでしょうか。
 信仰者としてあるべき姿でしょうか。それともやり過ぎでしょうか。

什一献金の扱われ方は

 教会に通っている皆さんに質問ですが、「什一献金」をされているでしょうか。

  こう書くと、私が什一献金に反対していると思われるかもしれませんが、別に反対はしていません。「どうしても収入の十分の一を捧げたい」と願う人は、そうしたらいいと思います。誰に迷惑を掛けるわけでもないでしょうから(無自覚的に家族に迷惑を掛けているかもしれませんが)。

  また、教会の運営の携わっておられる方は痛いほどわかると思いますが、什一献金は大切な収入源ですね。他に収益事業があるとか、大きな教団に属しているとか、すごいパトロンを抱えているとかでなければ、信徒の什一献金(+礼拝での献金)がほとんど唯一の収入源のはずだからです。
 まさか教会を潰すわけにも行かないでしょうから、「皆で什一献金しましょう」みたいな話になるのは、当然です。

  では次の質問ですが、その什一献金は「義務」でしょうか。
 あるいは「義務」という言葉でなくても、事実上のルールとなっているでしょうか。
 そしてもし義務になっているのでしたら、その「根拠」は何なのでしょうか。

  もし根拠が聖書からでなく、あくまで教会の独自ルールとして、「うちの会員になったら収入の十分の一を会費として払っていただきます」みたいな取り決めをしているのでしたら、それはそれで結構です。 教会に籍を置くための「会費」であると一律に決めているなら、信徒の皆さんは納得して払っているはずでしょう。それぞれが納得して会員になり、什一を払っているなら、何も問題ありません。

 ですが、もし聖書を根拠にしているとしたら、若干問題ではないかと私は思います。

 たぶん旧約聖書のマラキ書を根拠にしているのでしょう(他にもいくつかあります)。
 けれど、 什一献金はそもそも旧約聖書の概念ですね。イスラエル民族の、共同体としてのルールという側面もありました。
 というのは、12部族のうちレビ族だけは土地を持たず、専ら祭司の役割を担っていたので、他の部族と違って収入源がなかったからです。他の11部族が収入の十分の一をそれぞれ捧げ、それを集めてレビ族の生活費に充てていたわけです(11部族のそれぞれ十分の一だから、ちょど1部族分くらいになるのでしょうね)。

 その制度を現代社会にも適用すべきなのか? というのがここで疑問になります。「働き人を支える為だからいいのだ」という意見もあるでしょうが、じゃあ新約聖書の人たちはどうしていたのですか? ある程度は支えられていたでしょうけれど、それが「収入の十分の一だった」という記述はありませんが?
 むしろパウロが言っているのは、「収入に応じて」「可能なだけ」というニュアンスですよね。

「十分の一を捧げなさい」という命令は、新約聖書のどこにもないのです。
 だから「会費」でなく、「聖書に書いてあるから」という理由で信徒に什一献金を課すのは、微妙なところです。

 もちろん、それを「信仰」として解釈するのは、それぞれの教会の自由です。信徒が払ってくれるなら、課せばいいでしょう。でもその場合、「聖書に収入の十分の一を捧げるように書いてあるから」と言うのでなく、「うちの教会はそう解釈しているから」と言うべきです。でないと、フェアでありません。

信仰というより教会政治

 お金の扱い方は人それぞれ、考え方も人それぞれでしょうけれど、教会に捧げる前に、自分の生活を安定させるのが先だと私は思います。今は先の見えない時代ですから、特に、将来に対する備えが必要ではないでしょうか。

 でもこう言うと、「いや、神様を第一とすべきだ」と言ってマタイの福音書6章33節を持ち出す人がいると思います。
 そういう人に、私は逆に尋ねましょう。
「神様を第一にする」とは、お金を払うことなのですか?
 お金を払わないと、神様を第一にできないのですか?

 お金を必要とするのは神様でなく、教会です。
 前述の通り、什一献金が大事な収入源になっている教会があります。そういうところは今更什一献金を廃止するなんてできないでしょう。だからこれまで通り旧約聖書のマラキ書を開いて、什一の義務性・正当性を訴え続けると思います。でも、それは聖書をよく知らない人にとっては詐欺に近いことだと知っておいて下さい。

 というわけで、什一献金は「信仰」の話というより、実は「教会政治」の話なのですね。
 皆さんは、どう考えるでしょうか。

2018年1月29日月曜日

「断食」ならぬ「断教会」の勧め

「神の導き」を捏造してしまう理由は

 前回は クリスチャンの結婚って、「神の導き」なんですか? という記事でしたが、ちょっと続きを書きたいと思います。

「神の導きならば◯◯しましょう」みたいなことを言う人がいて、私に言わせれば完全に勘違いしているのですが、それは彼らのせいではありません。教会でそう教えられているからです。
 彼らの指導者(多くは牧師)が「神の導き」を連発するので、彼らの判断基準も「神の導き」になってしまうのです。
 だから何かするにしてもしないにしても、

「それは神の導きなのですか?」
「神に祈って、ちゃんと答えを得たのですか?」
「神からのゴーサインはあるのですか?」

 みたいなことを、牧師に問われるのですね。だから信徒は、それが「神の導き」であると証明しなければなりません。それで一生懸命祈ったり、聖書を読んだり、ディボーションしたり、賛美したりして、導きかどうか見極めようとします(導きを求めて賛美する、というのもよくわからない話なんですが)。

 でも、正直なところ、神様からのアンサーがズバッと語られるわけではありません。
 だから聖書を読んでいて感動した箇所とか、祈っていて心に感じたこととか、日常の中でふと閃いたこととか、夢で見たこととか、そういうのを「神からの啓示だ」「導きだ」「語りかけだ」と決めつけてしまうのです。ほとんど「捏造」だと思うのですが。
 でもそうでもしないと、いつまで経っても「神の導き」を確認できないのですね。時間とともに焦りが出てきて、「何でもいいから答えを得ないと」という追い詰められた心理になっていきます。そして結果的に、「神の答え」をこじつけてしまうのです。

「神の導き」とはそもそも何なのか、というふうには考えないのですね。

 ある時、教会で宣教旅行が計画されました。詳細は省きますが魅力的な企画で、大勢が参加を希望しました。でも牧師はこういう参加条件を付けました。
祈って導かれた人だけが参加して下さい。遊びではないので
 さて、どうなったと思いますか。
 皆で「神の導き」の捏造合戦です。

「聖書のこの箇所が示されました」
「行くように語られました」
「昨日これこれこういう出来事がありました。これは行けというサインだと信じます」
「ロバの子でも神は用いられると書いてあります。私はロバのようなものです。でも信仰によって・・・(以下略)」

 単純に行きたいって言えばいいんじゃないかな、と私は思いましたが、そう言えないのは彼らのせいではありません。前述の通り、牧師からそう指導されているからです。そういう教会では、何でも「導き」を絡めないと、二進も三進も行かないのです。

人はどうしても環境に左右されるので・・・

 聖書には「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」という言葉があります(コリント第一・15章33節)。悪友を持つと自分も悪くなる、ということですね。簡単に言えば。

 これを教会にも当てはまります。すなわち「導き」を強調する教会に通うと、「導き」ばっかり言うクリスチャンになります。変な教会に行くと、変なクリスチャンになります。環境の力は馬鹿にできません。

 だからどういうクリスチャンになるかは、どういう教会に行くかに左右されます。あるいは、どういう牧師に教えられるか、に。
 人は良くも悪くも、環境や人に影響され、染まっていくものです。だから「染まらないように」と頑張るよりは、「こういうふうに染まりたい」と意識を変えて、自ら環境を選びに行った方がいいかもしれません。

 以前、と言っても10年以上前の話ですが、高校時代の同級生が、突然連絡してきました。久しぶりに会いたいと。さほど仲良くなかったので不思議でしたが、行ってみて納得。ア◯ウェイにすっかりハマっていて、私を巻き込もうと企んでいたのです。
 おかげでファミレスで小一時間、ア◯ウェイの素晴らしさを聞かされる羽目になりました。最後はケンカ別れになりましたが(笑)。

 高校時代はまともな人でしたが、まあいろいろ事情があったのでしょうね。それにしても人間とは変わるものです。それを実感した出来事でした。

 ア◯ウェイと言えば、ある宣教師夫人もハマっていました。
 だいぶ前の話ですが、健康食品か何かのサンプルが、その夫人から送られてきました。手紙が添えられていて、商品の素晴らしさが力説されています。なぜか「怪しいものではありません」という台詞も繰り返されていて、逆に怪しく感じましたが(笑)。

 教会で生き生きと奉仕していた青年が、結婚して献身して、地方の山奥の祈祷施設の管理人になりました。でも数年後に再会したらすっかり参ってしまっていて、見る影もなかったです。詳しくわかりませんが、よほど過酷な生活だったのでしょう。掛ける言葉がありませんでした。

 環境が、人を変えるわけです。

 だから「神の導き」ばっかり言う人たちも、そういう教会でガッチリ教え込まれているのですね。ほとんど洗脳だと思うのですが。

 そういう人たちと「導き」について論じ合っても、論理的な話になりません。こっちが「論理」で話を組み立てても、向こうは「信仰」で話を組み立てますから。論理vs信仰。そもそも土俵が違います。パウロ的に言ったら「空を打つ拳闘」みたいなものですね。こっちも向こうも互いに空を打っているだけ、というエアーボクシング(笑)。

 そういう人たちは断食も熱心にやるのですが、食事を抜くより、教会そのものを抜いた方が良いと私は思います。1ヶ月くらい教会に行かないで、断食ならぬ「断教会」をしてみるわけです。たぶん見方や考え方が変わると思います。いかがでしょうか(やらないか笑)。

2018年1月27日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第76話

 というわけで、「50時間の祈り」の会場は決まった。
 当日はフリント先生と、アメリカの賛美チームも合流すると、溝田牧師が発表した。彼らは前日に来日するそうだ(フリント先生は現在アメリカで活動中とのこと)。同行する賛美チームは全部で4人らしいが、どういう人たちなのか、まだ情報はない。
 本番までまだ1ヶ月あるけれど、教会の皆はどこか落ち着きがなかった。キマジメくんも同じだった。
 そもそも50時間続けて祈るのがどういうことなのか、誰にも想像がつかなかった。50時間と言えば丸2日と2時間だが、まさかずっと祈り続けるのだろうか。どこかで休めるのだろうか(さすがに50時間眠らずに過ごす自信は、キマジメくんにはなかった)。けれど詳しいことはまだ何も聞かされていない。
 もう1つ気になるのは、フリント先生が言っていた「5人の巨人たち」だ。古来からこの日本を縛ってきたという。あの家康の「結界」よりも古く、より強いということだろうか。50時間連続の祈りでなければ、打ち破れないのかもしれない。キマジメくんは聖書の一節を思い出した。
「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」
 マタイの福音書9章29節だ。
 日本を解放するには、この50時間の戦いにどうしても勝利しなければならない。キマジメくんは気を引き締めて、毎朝のディボーションと祈りに精を出した。
 そして2週間ほど経ったある木曜日の夜、信徒たちに突然召集がかかった。溝田牧師からの一斉メールだった。
「今夜7時から、50時間の祈りに向けてミーティングをします。関係者は全員参加するように。なおこのメールを見たら必ず返信するように」
 キマジメくんはすぐに「了解しました」と返信した。

 2ヶ月程前、まだ「霊の戦い」で東京の街を巡っていた頃、やはり急なミーティングがあった。一斉メールで召集され、ほぼ全員集まった。けれどミーティングに来た溝田牧師は、非常に腹を立てていた。
「みんな、どうしてメールに返信しないんだ? 連絡が伝わったかどうか、わからないだろう? いちいちこっちから電話しなきゃダメなのか? いい加減にしてくれよ! こんなことで牧師を煩わせるんじゃない!」
 案の定、そのミーティングは「悔い改めの夜」となった。
 以来、溝田牧師からのメールは、たとえ内容が伝達事項だけでも、返信が必須となっている。

 さて、キマジメくんは7時前に会堂に入った。さっそくパソコンを起動し、プロジェクターを準備する。
 信徒は概ね揃っているようだった。皆祈ったり、聖書を読んだり、いつもより静かだ(皆50時間のことを気にしているのかもしれない、とキマジメくんは思った)。
 7時10分過ぎに溝田牧師が入ってきた。サトリコ姉妹が背後に控えている。牧師はステージに立ち、会衆席を見回す。厳しい目付きだ。急に怒り出すパターンかと思った。しかし怒りはしなかった。
「愛する兄弟姉妹、さっそくですが祈りましょう」
 牧師はそう言うと、ひとり「異言」で祈りはじめた。まるでまわりに誰もいないかのように。両手をポケットに突っ込んで、天井を見上げている。
 何秒か遅れて、全員が「異言」で祈りだした。キマジメくんもそれに倣った。
 そのうちにピアノが伴奏を始めた。祈りが盛り上がってきたところでギターとベースとドラムも加わった。そしてコーラスたちがウーウー歌いはじめた(これは「霊歌」と言うものだ、とキマジメくんは理解している)。
 牧師がマイクを口につけた。
「皆さん、私たちは50時間の祈りに向かっています。これは主からの霊的戦略です。私たちがこの数ヶ月、霊の戦いを積み上げてきたので、主が私たちを認め、武器を下さったのです。その武器こそが50時間なのです!」
「アーメン!」
「私たちはこの戦いを預言的に戦います。すべては主の啓示によるのです。私たちは示されるままに歌い、楽器を奏で、旗を振り、角笛を吹き鳴らし、主の勝利を宣言します!」
「アーメン!」
「旗振りの姉妹たちよ! 前に出て、信仰によって旗を振りなさい! 角笛の兄弟たちよ! 同じく信仰によって吹き鳴らしなさい! 高らかに!」
「アーメン!」
 総勢10名ほどの姉妹たちが、色とりどりの旗を持ってステージに上がった。全員で旗を振るには狭いから、たぶん順番に振るのだろう。角笛を持った兄弟は全部で3人で、隅の方に立っている。さっそく何人かの姉妹が、旗を振りはじめた。
 旗の色にはそれぞれ「霊的」意味がある、という話だった。それぞれ、ふさわしい「霊的タイミング」で振らなければならない。キマジメくんは聞きかじっただけなので詳しくわからないが、紫が「信仰」、赤が「戦い」、黄色が「恵み」、緑が「平安」、金色が「栄光」だったはずだ。他にも何色かあるが、意味は覚えていない。
 そして今、振られている旗は紫と金色だ。今の「霊的」な流れが「信仰」と「栄光」だということか。
 旗はどれも光沢のある生地で、ラメで様々な模様が描かれている(どれも姉妹たちの手作りだった)。照明を反射して、キラキラ輝いている。振り方は姉妹によって色々だが、これにも「霊的」な意味があるのだろうか。
 一方、角笛には「敵の到来を告げ知らせる」「味方を召集する」「勝利を宣言する」という意味があるとのことだった。やはり吹き鳴らすには「霊的タイミング」が重要で、むやみに吹いてはならない、という。兄弟たちは主にAメロとBメロの間、Bメロとサビの間、サビの終わり、といったタイミングで吹いている。その意味では楽器に近い立場だった(とキマジメくんは思った)。
 しばらくすると、溝田牧師による指導がはじまった。
「旗が切り替わるのが遅いよ。みんな長く振りすぎだ! もっと短いスパンで、どんどん切り替えて!」
「今はその色じゃないよ! もっと敏感に、もっと繊細に霊の流れを読んでくれよ!」
「角笛の音が濁ってるよ! そんなんじゃ預言的アクションにならないだろ!」
「なんだろう、吹き鳴らすタイミングが微妙に遅いんだよね。もっとスパッと入ってくんない?」
 その都度、楽器の演奏が中断された。姉妹たちの何人かは泣きそうな顔になっている。兄弟たちは緊張の面持ちだ。でもそれで雰囲気が硬くなると、また指導が入るのだった。
「そんなビクビクしてたら戦えないよ? もっと大胆に、自信を持ってやってくれないと! この戦いは君たちに掛かっていると言っても過言じゃないんだよ? 今回の50時間で5人の巨人たちを倒すことができなかったら、どうしてくれんの? ええっ?!」
 そんな見るに耐えない光景が長く続いた。しかし珍しいことではない。歌や楽器の奉仕者たちが、礼拝のリハーサルでいつも受けていることだ。
 その指導の矛先がいつ自分に向けられるかわからない。キマジメくんはそう考えると、パソコンを操作する指が硬くなった。歌詞を出すのが遅い、字が見えづらいから色を変えろ、背景画像を変えろ、など今まで何度も言われてきた。
(これも神様のためなのか・・・)
 不意に、先の見えないトンネルを歩いているような気分になった。この「戦い」はいつまで続くのだろうか。この「訓練」はいつまで続くのだろうか。いつか「ゴール」して、報われる時が来るのだろうか。
 そんなことを考えていたら、パワーポイントを切り替えるのが何秒か遅れてしまった。慌ててキーを押した。今にも溝田牧師の声が掛かるかと思った。「おい、キマジメくん!」
 しかし、いつまで経っても声は掛からない。見回すと、誰もが旗振りと角笛に注目している。歌詞など誰も気にしていないようだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年1月25日木曜日

クリスチャンの結婚って、「神の導き」なんですか?

導きを求めるべき? 求めないべき?

 当ブログでたびたび書いているトピックですが、「神の導き」についてまた書きます。また書きたくなってきました(笑)。

 さっそくですが、

「神の導きを求めます」
「神の導きに従います」
「神が導かれるなら◯◯します」

 みたいなことを言う人がいますね。敬虔そうな態度に見えます。いや、たぶんその人自身は敬虔なのだと思います。実際のところはよくわかりませんが。

 ある時、あるクリスチャンの方に、「◯◯するのはいかがですか」と勧めたことがあります。答えはこうでした。
主の導きならば、そうしますね
 私は「わかりました」と言って会話を終わりにしましたが、もう二度と言うまいと決めました。
 導かれないならしないんですか?
 あなたには意志とか願望とかないんですか?
 と思ったからです。

 べつに「導き」を口に出すのが悪いのではありません。その人がやりたいのか、やりたくないのか、聞きたかっただけなのです。だから適当にはぐらかされた感じがして、それが正直不快だったのですね。もしかしたら「やりたくない」というのを「導きならば」に置き換えただけかもしれませんが。

 でも別の日にその人と食事に行く機会がありましたが、行くか行かないかで祈った様子もなく、メニューを選ぶ時に祈った様子もなく、私が奢ったことで葛藤した様子もありませんでした。
 また別の日、礼拝中に代表の祈りを指名されると、即座に祈っていました。何を祈るべきかと、「導き」を求めた様子がなかったです。

 どうやらその人には、「導きを求めるべきレベル」のものと、「導きを求めなくていいレベル」のものとがあるようでした。このラインを越えたら「神の導き」を求める。ラインを越えないものは自分の好きにする。みたいな。
 であるなら、そのレベル、あるいはラインは、いったい誰が決めたのでしょう。神様? あるいはその人?

 そのあたりが大いに疑問なのですが、誰か教えていただけないでしょうか(笑)。

 結婚も神の導き・・・?

 この手の「神の導き」を、自分の結婚にまで持ち込む人たちがいます。

「結婚を願っていますが、神の導きに委ねています」
「神様が備えた相手がいるならば、結婚したいと思います」
「結婚は神様からの贈り物ですから、私の願いではありません」

 なにやら理想の結婚観があるみたいですね。
 旧約聖書の、イサクにリベカという結婚相手が(神によって)備えられていた、というエピソードが影響しているのかもしれません。
 気持ちはわかりますけれど、なんかモヤモヤします。

 結婚の習慣は時代や文化によっていろいろでしょうが、おそらく創世記の時代から近現代まで、日本で言えば昭和初期あたりまで、結婚は親や親戚が決めるのが主流だったはずです。「お見合い」は親や上司がセッティングするものでした。本人たちの意思はほとんど関係ありません。言われた相手と結婚し、いろいろあっても忍耐して、生涯を一緒に過ごす。それが長い間の「結婚観」だったのですね(念のため書いておきますが、例外もあったと思います)。

 過去のクリスチャンたちもそれは同じで、基本的に、親に当てがわれた相手と結婚していました。自分の意思ではありません。だからこそですが、「この人は神様が備えて下さった人なんだ」と信じるようになったのだと思います。頑張ってもどうにもならない、ほとんど運命とも言うべき事柄だったので、「神様の言う通り」と考えたのではないでしょうか。

 ですが、今はそういう時代ではありません。
 いまだ親の都合で結婚する人もいるでしょうが、ほとんどの人は違います。いわゆる自由恋愛で結婚します。
 昔と違い、結婚はほとんど自分の意思でコントロールするものとなったのです。

 だからでしょうが、何を基準に結婚したらいいのか、どういうタイミングで結婚したらいいのか、よくわからなくなっている面もあると思います。昨今の生涯未婚率の上昇は、それを物語っているのではないでしょうか。男性の4人に1人、女性の7人に1人は生涯未婚というデータもあります(2015年)。もちろん低賃金とか非正規雇用の増加とか、そういった社会情勢も関係あると思いますが。

 私の知っている限りでは、教会にも独身の方が多くいらっしゃいます(独身が悪いという話ではありません)。
 教会を一種の「社交サークル」と見るならば、出会いの場として機能する気もします。ですが聖書的(?)倫理観や貞節、純潔といった縛りが強いからか、なかなかそういう場にならないみたいです。その昔は周辺教会の男女をマッチングしてくれる「お局様」もいましたが、今はほとんど聞きません。未信者との結婚を良しとしない雰囲気も、結婚が進まない一因でしょう。教会内の男女比の差も大きいですし。

 という背景が、結婚を願う人たちの混迷を深めていると思います。どうしたらいいかわからない、みたいな。
 そしてわからないから、「神様が導かれる」「神様が備えておられる」「結婚は(神様からの)贈り物だ」みたいに、考えたくなるのかもしれません。

 ですが今の時代の結婚は、自分で考えなければ進みません。親も誰もセッティングしてくれず、ある意味誰からも強制されないものとなったからです。するもしないも(様々な事情があるでしょうが)自分と相手次第です。

 先輩であるクリスチャン夫妻たちの中に、「神様の不思議な導きで結婚しました」というケースがあるでしょうか。もしあるとして、それは本当に「不思議な導き」だったのでしょうか。「後付け」で何とでも言えるものではないでしょうか。

 もちろんですが、これは「結婚しなければならない」という話ではありません。独身は全然悪いことではありません。ただ結婚を願うならば、意識するならば、「神の導き」でなく自分で考えましょう、という話です。

結局、「神の導き」って何なの

「人生で起こったことは全て神の導きだ」という考え方もあると思います。人生は全て「偶然」でなく、神による「必然」だと。
 ですがその場合、悲惨な事故や事件に巻き込まれたり、酷い目に遭ったりしたことも全て「神の計画」だったことになります。あなたの神は、災いをもたらす神なのですね。

 あるいは良いことだけを「神の導きだった」と言う人がいますが、良い悪いを自分が決めている時点で恣意的です。自分にとって良いことが、皆にとって良いこととは限りません。

 あるいは、ある事柄で「神の導き」を求めるのは、良いことなのでしょうか。選択肢がいくつかあって、どれが良いのか神様に尋ねるのは、良いことなのでしょうか。

 私はそれは、神を都合よく利用することだと思います。
 選択に失敗したくないから、最善の選択をしたいから、つまり自分が得をしたいから、「全知全能」なる神のアンサーを聞きたいのです。「あみだくじ」のゴールを知っているであろう神に、「事前に」聞いておきたいのです。

 でもそれらは全部、自分で悩んで考えるべき事柄です。自分自身のことなのですから。正しいかどうかわからないけれど精一杯考えて選択し、ドキドキしながら成り行きを見守って、その結果をも受け入れるべきです。神のせいにも、誰かのせいにもしてはいけません。

 じゃあ結局「神の導き」って何なの、という話になるでしょう。
 でもそれが簡単にわかるなら誰も苦労しません。私もよくわかりません。でも少なくとも私は、「この選択肢のどっちを選ぶべきでしょうか」みたいな祈り方をして、神を利用しようとは思いません。また、よくわからないのに「導きとはね・・・」と語ろうとも思いません。

 まあ正直なところ、「神の導き」なんて難しいことは言わない方がいいと思いますね(笑)。
 皆さんはどうお考えでしょうか。ご意見あればお聞かせ下さい。

2018年1月23日火曜日

進化論 vs 創造論。何が問題なの?

 今回はちょっと、「進化論」と「創造論」について書きたいと思います。

 皆さんの教会は「創造論」推進派ですか。それとも「進化論」でオッケー派ですか。
 そしてあなた自身は、どのように考えていますか。

 これはアメリカではずっと議論されている問題です。裁判にまでなりました。アメリカでは公教育が進化論を教えていて、ファンダメンタルな教会群がそれに反対しているからです。彼らは反進化論(創造論)を主張しています。

 進化論 vs 創造論、という構図です。

 日本では、聖霊派系の教会群が創造論を主張しています。と言っても日本では絶対数が少ないので、その声は非常に小さく、まったく相手にされていませんが。

 創造論者の主張は「聖書の記述はすべて正である」というものです。
 だから「神が6日間で世界を創造した」というのを文字通り信じています。すなわち何もなかった空間に光ができ、闇ができ、大空ができ、大洋ができ、地面ができ(以下略)、というのを1週間足らずで神がやった、と信じているのです。

 そんな創造論者が指摘する、進化論の大きな問題点は、「猿が人間になるはずがない」というものですね。「生物は種にしたがって造られたのだから、猿は猿、人間は人間なのだ」と。

 でも「猿が人間になった」というのは、進化論の主張を簡略化しすぎた表現です。あまり正確ではありません。

 進化論は、何かを断言するものではありません。生命のなりたちを探求する「試み」であり、科学です。研究の途上なので沢山の穴があり、欠点があります。そして現段階の仮説として、「突然変異が生命進化の鍵ではないか」と推測しているわけです。と私は理解しています。

 だから「進化論者は猿が人間になったと言っている」というのは、正確ではありません。

 さすがに、猿が人間になるというのはおかしい気がしますね。
 でもだからと言って、進化論が全否定されるわけではありません。実際、細胞レベルの突然変異は常に起こっていますし、形質が大きく異なる個体が生まれることもあります。これは進化の「可能性」を示唆していて、その可能性自体は否定できません。猿の一件がおかしいからって、それで全部がダメとは言えないのです。

「進化論は科学的に証明できない」と創造論者は言いますが、では逆はどうでしょう。創造論は科学的に証明できるのでしょうか? できません。

 創造論のズルいのは、「神の力」「創造の御業」というマジックワードを使うところです。

Q「神が6日間で天地万物を創ったのですか?」
 ↓
A「そうです。聖書にそう書いてありますから」
 ↓
Q「ではそのプロセスはどういったものだったのですか?」
 ↓
A「それは神の創造の力です」
 ↓
Q「その力とはどういったものなのですか?」
 ↓
A「それは神のみが知るところです」

 創造論者は進化論の「穴」を指摘しますが、それを言うなら創造論こそ「穴」だらけです。わからないことは全部「神の力」で済ませていますから。まったく科学的でなく、同じ土俵に立っていると言えません。

 私が思うに、「進化論 vs 創造論」の本当の問題点は、この「同じ土俵に立っていない」という点です。進化論が「科学的探求」であるのに対して、創造論が「信仰の表明」だからです。
 科学と信仰がぶつかり合っても、そもそもベクトルが違いますから、結局「話にならない」のです。

 ある病院での話です。
 入院患者のAさんは、某学会の熱心な信徒です。毎朝ベッドで1時間以上、念仏(?)を唱えています。
 ところが大部屋なので、他の患者さんたちが迷惑していました。
「念仏を唱えるのはいいけれど、短めにしてほしい」
 皆でそうAさんにお願いしました。
 それを聞いたAさんは、激怒しました。
「信仰の自由を奪う気か。俺が祈れば皆に良いことがあるのに、なぜ邪魔するんだ。俺はどんなに止められても、祈るのをやめない」

 そんな感じで、まったく話になりませんでした。理屈も通りません。

 進化論 vs 創造論の議論を見ると、よくこのAさんのことを思い出します。

2018年1月21日日曜日

【時事】電車内出産と小室哲哉氏の引退会見に、聖書の言葉を当てはめてみると

 JR常磐線の車内で妊婦さんが破水し、そのまま出産に至った、というニュースがありました。車内での分娩はいろいろな意味で大変だったと思いますが、母子ともに無事とのことです。珍しいケースですが、何事もなくて良かったです。

 ただその間、電車が止まりましたので、急ぐ人には不都合があったでしょう。私も通勤電車が止まったら困るので、そこでのイライラは想像できます。
 でも急な出産だったのなら、仕方がないと諦めるしかないですね。お互い様な部分もあると思いますし。

 その昔、友人が電車を止めてしまったことがあります。
 電車を降りようとして足を滑らせ、電車とホームの間に落ちてしまったのです。完全に落ちたのでなく、上半身だけ残る形で。
 気づいた駅員さんが連絡してくれたので、助け出すまで、電車は止まっていてくれました。たぶん1分以内の出来事だったと思います。コントみたいな光景でしたが、あのまま発車していたら大惨事になっていたでしょう。
 その現場を見ていない人は、なんで早く発車しないんだとイライラしたかもしれません。でもそういう不可抗力な出来事があったわけです。
 まあ、足を滑らせた友人が悪い、と言えばそうかもしれませんが。

 電車内で突然産気づいた妊婦さんを、非難する声もあるみたいです。「なんでそんな状態で電車に乗ったんだ」とか、「そうなることは予想できただろう」とか。
 でもその妊婦さんにしたって、電車内で出産したかったわけではないでしょう。一番予想外だったのは本人だったと思います。

 冒頭に書いた通り、そういうのは「お互い様」と考えた方がいいと私は思います。
 電車が止まったと大騒ぎした人が、いつ足を滑らせて、電車とホームの間に落ちるかわかりません。臨月の妊婦が電車に乗るなんてけしからん、と言う人が、いつ心臓発作を起こして電車を止める羽目になるかわかりません。
 明日は我が身と言いますが、人間いつ何が起こるかわかりません。「そんなのは予想できたはずだ」と言われても、予想できなかったから起こったのです。そしてそれは誰にも起こり得ます。今まで大きなトラブルに見舞われたことがないという人は、たまたま運が良かっただけです。

 迷惑をかけた人を非難したくなるのは、人情かもしれません。でも自分がいつ迷惑をかける側に回ってしまうか、わからないのです。というより、人間誰しも、誰かに迷惑をかけたことがあるのではないでしょうか。

 もう一つ、小室哲哉さんの引退表明が、大きな話題となっています。
 テレビで引退会見が放送されましたが、衝撃を受けた方も多いようです。
 私は「吊るし上げ」を見ているようで、途中で見るのをやめました。小室さんはあまり好きではありませんが、あまりに哀れだったので。

 小室さんに限らず、昨今はああいう「吊るし上げ」報道がずいぶん多いなあと思います。なんと言うか、ちょうどいい攻撃対象を見つけてきて、皆でボコボコにする、みたいな。

 たとえば小室さんが、普段から芸能スキャンダルを取り上げて「なんて酷い奴だ」とか「芸能界から追放しろ」とか言いまくっていたのなら、今回の報道は「あー自業自得だな」としか思わないでしょう。でもそうではありません。あら探しをされ、やり玉に上げられたような形です。そしていきなり公衆の面前に引っ張り出されて、事情を説明させられたわけです。こういうのを「吊るし上げ」と言うのだと思いますが。

 聖書にも、こんなふうに「吊るし上げ」を食らった女性が登場します。
 姦淫の現場で捕らえられ、キリストの前に引っ張って来られた女性です(ヨハネの福音書8章)。
 ユダヤ人の律法によるならば、こういう女性は石打の刑に処せられます。だから男たちは石を準備して、キリストの言葉を待っていました。でもキリストはこう言います。

あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい

 すると、皆自分の罪を自覚していたのでしょう、一人また一人と去って行きました。自分のことを思うならば、この女のことは責められない、と気づいたのだと思います。

 これは聖書の有名なお話ですが、電車内で出産した妊婦さんのニュースと、小室さんの会見を見て、ふと思い出した次第です。
 皆さんはどう思われたでしょうか。

2018年1月19日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第75話

 教会でさっそく「50時間の祈り」が企画された。開催は1ヶ月後となった。
 まず会場探しから始まった。50時間以上続けて使えて、大きな音を出せて、関係者以外近づかず、100人くらいを収容できるホール、というのが最低条件だった。くわえて皆が寝泊まりする部屋が、それぞれ別に必要になる。
 ホテルや旅館、研修施設などが検討された。スタッフ総出でネット検索し、方々に電話し、見学に出向いた。キマジメくんもその中にいた。
 最終的に、いくつかの小規模なホテルが候補となった。どれも海沿いや山の中など、僻地にあった。
「最後は自分が見に行って決めよう」
 というわけで溝田牧師とカンカク姉妹と、何人かのスタッフらが現地に出向いた。キマジメくんは残ってポスター作りをするよう言われた。
 ポスターは使う文字や画像など、珍しく溝田牧師から細かな指示があった。だからかえって簡単だった。必要な素材を、画面上に配置するだけだ。迷ったり考えたりする手間がなかった。
 しかしそもそもの話、今回はポスターが必要かどうか疑問だった。キマジメくんの理解では、「50時間の祈り」は内々の活動で、ポスターを見た誰かに来てほしいイベントではなかった(未信者がいきなり来たら、かえって困るだろう)。だから告知の必要がないように思われた。それを牧師に直接言う勇気はなかったけれど。
 ともあれポスターは早々に完成したので、キマジメくんは他のスタッフの仕事を手伝うことにした。
 牧師が不在だと、教会の雰囲気が明らかにちがう。途中で休憩したり雑談したりできる。牧師が一緒だと、こうはならない。
「僕はなんでも結果が大切だと思っています」
 雑談の中で、タタカイ兄弟がそんな話をした。
「この前の癒しの聖会、メボ・ルンド先生のやつ、あれは全然結果が伴わなかったと僕は今でも思っています。だって癒しの聖会なのに、何の癒しも起こらなかったんだから」
 いつかのミーティングのことをキマジメくんは思い出した。その時もタタカイ兄弟は、同じようなことを主張していた。
「今回の霊の戦いもそうです。いろいろ戦いに行きましたけど、結果どうなったか? それが一番大切だと僕は思います」
「でも、霊の領域の変化だってあるでしょ」他のスタッフが言った。「それは結果としては、わかりにくいんじゃないの?」
「結果がわからなかったら意味ないですよ」とタタカイ兄弟。「父もよく言っています。霊的なことより、実際的なことが大切だって。僕もそうだと思います」
 タタカイ兄弟のお父さんは、他の教会で牧師をしている。教派のことはよくわからないけれど、溝田牧師とはちがう系統のはずだ。
「まあ、牧師先生によって強調点がちがうからね」と、そのスタッフは言葉を濁した。このまま続けたら面倒な論争になると察したのだろう。
 タタカイ兄弟は言い出したら後に引かないタイプだ。溝田牧師にも平気でものを言ってしまう。
「とにかく、今回の50時間で一定の結論を出すべきです」タタカイ兄弟はぴしゃりと言った。「本当は、東照宮の後に結論を出すべきでしたけれど」
 東照宮の名前が出て、なんとなく雰囲気が暗くなった。
 キマジメくんにはその理由がわからなかったけれど、あの武道館が関係しているのは間違いない。
 東照宮で聞いた「戦いの音」が、実はそうではなかった、という噂は、教会内で徐々に広まっていた。ここにいるスタッフはほとんど知っていた。そしてすでに、触れてはいけない話題になっていた。特にタタカイ兄弟の前では。どんな騒ぎになるかわからないから。
「こういう時こそ、祈りましょう。ね、タタカイ兄弟」
 一番年輩のスタッフが、まとめるように言う。「私たちには、わからないことが沢山ありますから。霊の目・・・ですか? が開かれないとね」
「霊の目という表現も、曖昧だと僕は思うんでうよ」しかしタタカイ兄弟は食ってかかる。「その開かれている、開かれていないは、どうやったらわかるんですか? 開かれていると思っているだけかもしれないじゃないですか」
「霊の領域のことは、霊によって祈らなければ、悟ることはできませんよ」他のスタッフが口をはさんだ。メガネをかけた、秀才タイプだ。「つまり、これはこう、あれはこう、と口で説明できるものではありません。それだけ深く、神秘的なものなのです」
「イエス様は何でも口で説明したんじゃありませんか?」とタタカイ兄弟。「わかりやすくたとえ話を用いたじゃないですか。弟子たちに」
「でも弟子たちは悟ってはいませんでしたよ」とメガネ。「彼らが悟ったのは、聖霊降臨のあとです。イエス様と一緒にいた時、彼らはむしろ無知でしたよね。しかし聖霊が遣わされて、彼らはやっと、霊的なことに目が開かれたのです」
「だから僕が聞いているのは、その霊の目が開かれているかどうかの基準は何ですか、ってことです」
「霊の目に基準やら条件やらを持ち出すのが、すでにこの世のレベルの考え方なんですよ、タタカイ兄弟」メガネがメガネをくいっと上げながら言った。「大事なのは信仰です。信仰によって、私たちは霊の目が開かれていると知るのです。開くかどうかじゃなくて、開かれてると信じるんです。霊的な事柄に、この世の基準など持ち出してはいけません」
「じゃあ信じているなら、すでに霊の目が開かれていると? ではなぜ、霊の目が開かれるようにと祈るんですか? 信じるだけでいいはずですよね?」
「そういうのを屁理屈と言うんですよ、タタカイ兄弟」とメガネ。「信仰者の態度ではありませんね」
「まあまあ、これくらいにしましょう」と年輩のスタッフが割って入る。「タタカイ兄弟は、強い探究心を持ってらっしゃるんですよね。私は素晴らしい信仰の態度だと思いますよ」
 何人かが、それに同調してウンウン頷く。たぶん同意したのでなく、早く話を終わらせたかっただけだろう。
「でも霊的な深いお話は、ぜひ溝田先生にしましょうね。私たちだけで話しても、不毛な議論になってしまいますから。さあ皆さん、奉仕を続けましょう」
 それまで手を止めていたスタッフたちが、思い出したようにそれぞれ動き出した。そのまま雑談はおひらきになった。
「まあいずれにせよ」とタタカイ兄弟が誰にでもなく言った。「50時間の祈りが終われば、はっきりします。何が起こるのか、あるいは起こらないのか」

 それから1時間ほどして、溝田牧師一行が帰ってきた。
「みんな喜んでくれ。50時間の会場が決まったぞ」
 スタッフらは手を止めて、牧師のもとに集まる。お茶とお菓子が運ばれてくる。牧師はミーティングルームのソファにどかっと腰を下ろすと、いつものようにふんぞり返って、足を組んだ。
「会場は海辺のホテルにした」
 おおっ、という歓声が起こる。
「理由はいくつかあるけれど、環境的にも設備的にも申し分ない。まさに50時間のために用意されたような場所だ。さっそくあそこを3泊で予約してきたよ。教会で貸切だ」と牧師。
「まさに預言的な場所でした」とカンカク姉妹。「最後の晩餐が用意されていた二階座敷を思い出しました。まさに、主の備えられた場所です。ハレルヤ! アドナイ・イルエ!」
「カンカク姉妹の言う通り、霊的にもぴったりくる場所だった。海が近いのもいい。海には実は、霊を研ぎ澄ます作用があるんだ。だから50時間の祈りで、さらに深い啓示が私たちに与えられるだろう。想像しただけで身震いしてくる。これはすごいことになるぞ」
 溝田牧師はそう言うと、お菓子をぼりぼり食べた。
 キマジメくんはふと気になった。たしか川の流れには、悪霊の力を増す作用があると言っていたはずだ。では、海は大丈夫なのだろうか?(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年1月17日水曜日

キリスト教と死後の世界

天国、地獄、よみ、煉獄

 プロテスタントの方であれば「天国」、「地獄」、「よみ」について教会で聞いたことがあると思います。カトリックの方であれば、そこに「煉獄」も加わるようですが、いずれにせよ、「死後の世界」についての話です。

 時々「天国を見てきた」「地獄を見てきた」と言う人がいます。それぞれ詳細な描写をして下さっています。天国に自分用の宮殿が用意されていた、なんて人もいます。それが本当かどうか知りませんし、確かめようもありませんが。
 あるいは、確かめられないから、いろいろ言えるのかもしれませんが。

臨死体験と天国(あるいは地獄)

 それと関係あるかないか微妙ですが、「臨死体験」をされた方々がいます。短時間であれ「死亡」して、その間魂が肉体を離れ、いわゆる「死後の世界」を見てきた、という体験です。それが天国なのか地獄なのか、よみ(ハデス)なのか煉獄なのかわかりませんが、とにかく「どこか」に移動した(あるいは移動したと感じた)ようです。これはけっこうな数の報告があるそうなので、臨死体験自体は、「ある」ようです。

 臨死体験には、ある程度共通性が認められています。
 たとえば欧米では「強い光を見た」「神の存在を感じた」という臨死体験が多いとのこと。しかも居心地が良かったようで、「これなら死はもう怖くない」と言う人が多いと聞きます。

 ということは、そこはよみなのでしょうか。あるいは天国なのでしょうか。そして現在一般的にイメージされる「天国観」が、結局は正しいのでしょうか。

 でも話はそう簡単ではありません。
 たとえば日本では、「大きな川を見た」「先に死んだ身内に会った」という臨死体験が多いそうです。一方でインドでは、「閻魔の審判を見た」というのが多いとか。
 つまり、臨死体験には地域差があるのです。

 ということは、天国にも地域差があるのでしょうか。人は死んだ地域によって、それぞれ違うところに行くのでしょうか。でもそれだと、キリスト教的「天国観」と整合性が取れません。皆同じところに行くはずですから。

 そもそもの話ですが、臨死体験は脳の知覚システムの(一時的な)異常だという説もあります。本当はどこにも行っていないのに、あたかも不思議な場所にいるかのように脳が勘違いしている、という。
 それなら、臨死体験に地域差があるのも考えやすいです。日本には文化的に「三途の川」や「お彼岸」のイメージがありますから、臨死状態で「川」や「死んだ身内」を見るのは、ありそうです。欧米にはキリスト教文化的な「天国」のイメージがありますから、臨死状態で「光」や「神の存在感」を感じるのも、やはりありそうです。
 つまり、文化的にもともと持っている「死後のイメージ」が、臨死状態で想起されるのかもしれない、ということです。

 であるなら、臨死あるいはそれに近い状況で「天国(あるいは地獄)を見た」という証言は、信憑性が低いことになります。
 臨死体験を否定しているのではありませんよ。臨死によって「見た」とする光景が、個人が持っている「死後のイメージ」の投影かもしれない、という話です。宗教的な天国(あるいは地獄)ではなくて。

 余談ですが、最近リメイクされた映画『フラットライナーズ』も臨死体験をテーマにしています。
 死後の世界に魅せられた医学生たちが、内密に臨死実験を行います。人為的に心停止を起こし、数分後に蘇生させる、という超危険な実験するわけですが、なんて馬鹿な人たちでしょう(笑)。

 ともあれ、彼らはそれぞれ個別の「死後の世界」を見てきます。皆ちがうのですね。やはりそれぞれの心配事やトラウマが、そこに投影されていたのです。天国でも地獄でもなく。
 結局映画では、死後の世界が何なのかはわからないままでした。

 まあ、ただの映画の話なんですけどね。

天国と地獄の「歴史」

 クリスチャンの方なら、天国や地獄の存在を、割と自然に信じていると思います。詳しくわからないにしても、そういうものは「ある」と。
 そして死後に「主の裁き」があるから、地上ではできるだけ敬虔に生きよう、悪い裁きを受けないように生きよう、下手して地獄に行かないようにしよう、みたいに考えます。

 でも聖書を見てみると、いわゆる天国(千年王国か新天新地かといった区別がありますが)に関する記述は、少ないですね。イザヤ書とエゼキエル書、各福音書、黙示録あたりでしょうか。ダニエル書にもちょっとあるかな。
 でもそれらを総合しても、はっきり「これ」とわかることはほとんどありません。地獄にしても、よみにしてもそうです。というか、地獄などはほとんど記述がありません。「火と硫黄」くらいです。

 カトリックが採用する「煉獄」は、プロテスタント的には「よみ」に近い概念ではないかと思います。天国と地獄の中間、冷静と情熱の間、みたいな感じです(すみません後者は冗談です)。

 人は死んだら煉獄に行って、生前の罪の重さに従って、苦行をします。そしてある程度認められるとレベルが上がり、最終的に天国に行けます。というのが煉獄のイメージですね。ダンテが『神曲』において具現化しました。仏教的な地獄にもちょっと似ています。

 でも天国にしても、地獄にしても、よみにしても、煉獄にしても、後付けで神学化されたものです。少なくともキリスト教初期の人たちは、そういう認識はしていませんでした。煉獄に至っては中世後期にできた概念です。
 だから天国にも地獄にも、その時代その時代の考え方が反映されている、ということです。そして時代とともに変遷してきました。たとえば中世では「地獄に堕ちちゃいかん」と恐れる人が大勢いたようですが、反対に近年の欧米では、そんな心配をする人は少なくなったようです。罪意識が変わってきたのかもしれません。

 原理主義的な人は、今考えられている天国や地獄を「絶対的なもの」と信じていますが、そういう変遷を経てきたものなので、絶対的とは言えません。今後も変わっていく可能性があります。

 だから流動的に考える余地を残しておいた方がいいのかな、と私は思っています。

天国や地獄にこだわってもロクなことがない

 天国や地獄をやたら強調する教会、牧師がいますが、注意した方がいいです。
 なぜなら天国も地獄も「脅し」の材料になるからです。

 こういう教会生活をすれば天国に行けますよ、これだけ奉仕すれば天国でいい思いができますよ、こういうことをしたら地獄に堕ちますよ、という報酬あるいは恐怖を提示されたら、疑って下さい。いくら口で「あなたのため」と言っても、結局はあなたを利用したいだけかもしれませんから。

 また信仰の動機が「〇〇したら天国に行ける」とか「××したら地獄に堕ちてしまう」とかいうものなら、あまり褒められたものではありません。結局自分がいい思いしたいだけでしょ、という話になりますから。

 つまり、天国や地獄にこだわりすぎるとロクなことがない、ということです。大雑把な言い方ですが。

 はい、それでは今日の結論。
 天国とか地獄とか、そんなこと難しいことは放っておいて、今日すべきことをしましょう(これだけ書いておいてそこかよ笑)。

2018年1月15日月曜日

『たいせつなきみ』が伝えているもの

ロスト・ジェネレーションが求めた You are special

 98年に刊行され、キリスト教界(の一部)で話題となった絵本『たいせつなきみ』をご存知でしょうか。著者はクリスチャン作家のマックス・ルケードさんです。



 児童向け絵本の体裁を取りながら、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という聖書のメッセージをダイレクトに伝える作品です。クリスチャン(あるいは聖書を読んでいる人)なら、いろいろピンとくる内容です。 
 おそらく多くの教会学校で、またクリスチャン家庭で、読まれたと思います。かれこれ20年くらい経っていますが、いまだ話題に上っています。

 それと同じような時期(2000年前後)に、韓国発の賛美『君は愛されるため生まれた』が輸入されました。これも多くの教会で歌われました。教会ごとに歌詞や歌い方が微妙に違っていて、驚きながらも面白かったのを覚えています(当時はいろいろな教会に足を運ぶ機会がありました)。

 またキリスト教とは関係ありませんが、2002年にSMAPが『世界に一つだけの花』をリリースしました。「No.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one」のフレーズは、誰もが聞いたことがあるのではないでしょうか。

 こうして見ると、ちょうど2000年前後に『たいせつなきみ(原題:You are special)』、『君は愛されるため生まれた』、『世界に一つだけの花』という、似たようなメッセージが発信されたのがわかります。前の2つはキリスト教界での話ですが。

 でもそれはキリスト教界だけの傾向ではなかったと思います。『世界に一つだけの花』の大ヒットには、時代の要請があった気がします。

 当時はバブル崩壊後の就職氷河期でした。いわゆるロスト・ジェネレーションです。皆が同じリクルートスーツを着、黒髪に戻し、同じようなエントリーシートを書き、同じような面接対策をし、会場に入る前に一斉にコートを脱ぐ、という没個性を絵に描いたような就活シーンが始まった時代です。

 個性が失われ、奪われた時代だからこそ、「あなたは特別なんだ(You are special)」というメッセージが、求められたのかもしれません。私はそんなふうに見ています。

「特別」と「特別扱い」のちがい

 子供時代の大半を教会で過ごしたある子が、やはりこの世代でした。子供が少ない教会なので皆から愛され、大切にされて育ちました。そして大学進学を機に、いろいろあって教会を離れることになりました。
 数年たって再会すると、立派な青年になっていました。すでに就職していました。でもこんなことを言うのです。
「社会に出て、特別扱いされないことが初めてわかりました」

 私はこの言葉に、「あなたは特別なんだ」というメッセージの弊害を見た気がしました。

 誤解のないように書きますが、自分自身を「特別」と思い、「大切」にするのは、重要なことです。健全なアイデンティティの確立に欠かせません。
 特に自尊感情の低い人、セルフイメージの低い人には必要です。「こんな自分に価値はない」と信じて、時に自暴自棄なことをしてしまうからです。彼らは「あなたは特別なんだ」としつこく言ってもらう必要があります(もちろんケース・バイ・ケースですよ)。

 でもそこまで自分を卑下していない人には、「特別だ」と強調する必要はありません。あんまり強調しすぎると、「自分は特別だから、大切にしてもらって当然だ」みたいに考えるようになるからです。

 もちろん、すべての人が「特別」で、「大切」なのです。でも、だからと言って「特別扱い」されるのではありません。自分を「特別」と思うことと、「特別扱いされたい」と思うことは、全然ちがうということです。

 上記の青年は、教会でずっと「特別扱い」されてきたのでした。それを当然と思っていました。でも社会に出たら全然そんなことなくて、自分が「大勢の中の1人」に過ぎないと気づいたのです。たぶん、もうちょっと早く気づきたかったのではないでしょうか。
 一気にセルフイメージが落ちてしまう(自信をなくしてしまう)こともありますから、こういうケースは注意が必要ですね。
『たいせつなきみ』も害をなすことがある、ということです。

 だから今、教会で同じような状況になっている子がいたら、ちょっと厳しくしてみて下さい。即、嫌われるでしょうけれど(笑)。

「特別」なのは自分だけではない

 自分を「特別」と思うのと同じくらい重要なのが、他者を「特別」と思うことです。

 でもこれが案外難しいです。
 変に自信がある人ほど、「特別な自分」と「その他のどうでもいい人たち」というふうに世界を見てしまいやすくなります。でもそれだと鼻持ちならないイヤな奴ですね。結果的に大切にされません。

 聖書には「自分にしてほしいことをまず他者にしなさい」みたいな意味のことが書いてあります(マタイの福音書7章12節)。つまり自分を「特別」と思ってほしかったら、まず他者を「特別」と思いなさい、ということです。「大切」にされたかったら、まず誰かを「大切」にしなさいと。

余談ですが、カルト牧師は信徒に「愛しています」「あなたの将来を大切に考えています」と言いますが、嘘ですから注意して下さい。本当はあなたを利用し、搾取したいだけです。出会った頃に比べて「雑」な扱いをされるようになったら、要注意です。
 人の本心は、言葉でなく行動に出るのですから。

 話を戻します。
 自分が「特別」で「大切」なのと同じように、他者も「特別」で「大切」なのです。当たり前なんですけれど。
 でもここで問題が生じます。私たちには嫌いな人もいれば、苦手な人もいるという問題です。すべての人を等しく「大切」と思うのは難しいです。「敵を愛する」というのは簡単なことではありません。そうではありませんか。

 マックス・ルケードさんがどこまで考えたのか知りませんが、『たいせつなきみ』が最終的に提示しているのは、そういう問題です。「あなたが大切」なら、「あなたの敵も大切」なのです。

 この絵本を読んで「私って特別なんだ」と単純に感動するだけではもったいないです。ぜひそういう難題についても、考えてみたらいかがでしょうか。

2018年1月14日日曜日

【小記事】届かない振袖、返納できなかった運転免許、雪で立ち往生する電車、想像と現実のギャップ

 2018年に入って2週間が経ちました。何だかあっと言う間ですね。
 この2週間にもいろいろな出来事がありました。私は次の3つのニュースと、その後の顛末が気になりました。

 1つは、8日の成人式当日に予約した振袖が届かず、式に参加できない新成人が続出した、というニュースです。レンタル業者「はれのひ」が経営破綻を隠して予約を受け付け、当日になって姿をくらました、という計画的詐欺でした。新成人の皆さんの、せっかくの晴れ舞台が台無しになってしまいました。
 それに対して同情の声が上がると同時に、「着付けくらい自分でしろ」「自分で着付けできないなら買うな(借りるな)」みたいな声も、上がったようです。
 ずいぶん無神経だなあと思いましたね。

 もう1つは9日朝に起きた、高齢ドライバーによる交通事故です。自転車の2人の女子高生が被害に遭い、重体となっています。1日も早い回復を、お祈りします。
 ドライバーの方は何度か事故を起こしていて、免許返納を家族に勧められていましたが、当日は家族の制止を振り切る形で、車に乗ったそうです。
 自分では「大丈夫」と思ったのかもしれません。そこまで深く考えなかったのかもしれません。

 最後の1つは、11日夜にJR信越線の電車が雪で立ち往生したニュースです。430人の乗客が、車内で夜を明かすことになりました。そのJRの対応に対して、「早く降ろしてやれ」「最寄りの駅に(歩いて)戻ればいい」「バスを手配しろ」などの批判があったようです。
 でも現場の画像を見れば、外に出られる状況でなく、また簡単に近づけない状況だったとわかります(雪国に詳しくない私でもわかりました)。批判した人たちは、いったいどういう状況を想像したのでしょうね。

 振袖と電車の件については批判意見の想像力の欠如を、交通事故においては「大変な事故を起こすかも」という想像力の欠如を、残念に思います。

 振袖は人生で何度も着るものではないですから、着付け方なんて知らなくて当然です。また知っていても、綺麗に着たいはずですから、専門業者に頼むのも当然です。
 だいいち、着付け方を知らないなら着る資格がない、なんてことはありません。パソコンの構造を知らなくても使う資格はある、というのと同じで。

また、真っ暗闇の中、何十センチも積もった雪の中に普段着のまま降り立ち、何キロも歩くなんて不可能です。それだったら、狭くても暖かい車内にとどまった方が全然マシだと思います。

 また、何度も事故を起こしても、家族に反対されても、それでも運転するということは、それなりの事情があってのことでしょう。車がなければ生活できない地方の現状もわかります。それでも、運転操作を誤ったらどうなるか、その重大性はよく考え、あるいは恐れるべきだったと思います。

 人間はどうしても主観的になりますから、他者や状況に対する想像力の欠如、あるいは認識の甘さ、あるいは配慮の不足みたいなものが起こります。また自分自身に対する客観性も持ちづらいです。
 それに加えて、「百聞は一見にしかず」と言うように、体験してみないとわからない、ということが沢山あります。簡単そうに見えたものが、やってみると案外難しかった、なんて経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

 想像と現実のギャップは、けっこう大きい場合があります。

 でもそれはそれで仕方のないことなので、そういうギャップがある(かもしれない)、と認識しておくことが、大切かもしれません。
 聖書にはこんな言葉があります。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(マタイの福音書7章3節)

 他人の小さな問題はよく見えるけれど、自分の大きな問題は意外と見えにくい、みたいな意味ですね。
 ある問題が誰かの失態に見えたなら、声を上げる前に、ちょっと自分の認識が妥当なのかどうか、考えてみたらいいかもしれません。

2018年1月12日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第74話

 東照宮での華々しい「勝利」から2日後の水曜日。
 キマジメくんのもとに、溝田牧師からメールが届いた。
「急で申し訳ないが、今夜海外からのゲストを迎えることになった。祈祷会を中止して、特別集会を開く。講師の情報を添付するから、夕方くらいまでにポスターを作ってくれ。テーマは霊の戦いだ。戦いと勝利を連想するものがいい。簡単でいいからよろしく」
 今は午後2時過ぎ。あと数時間しかない。
 でも断るわけにはいかない。まして「できない」なんて言えない。「できない」なんて言ったら間違いなく怒られるだろう。
 キマジメくんはパソコンを立ち上げる間、「異言」でしばらく祈り、聖書をパラパラめくった。エレミヤ書の29章11節が目に留まった。
「あなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」
 神様が、自分に対する計画を全て把握しておられる。そしてこれもその計画の一つなのだ。そう考えると、なんだか勇気がわいてきた。
 それに、日光東照宮から東京を縛ってきた「結界」は、この月曜の夜に解除されたはずだ。あの「格闘の音」が、その何よりの証拠ではないか。だから今、クリスチャンは以前より強く、以前より自由に働けるようになったはずだ。「霊的束縛」から、解放されたのだから。
 それだけでなく、これからますます良いことが起こっていくだろう。もしかしたら「リバイバル」が訪れるかもしれない。
 パソコンが立ち上がったので、キマジメくんは作業を始めた。添付ファイルを開くと、今夜のゲストはグレン・フリント牧師とのこと。髭の白人男性で、年齢は50代くらい。アメリカ人だが今はイスラエルの教会の牧師で、長年ユダヤ人の帰還のために尽力しているらしい。写真で見る限り、温厚そうな顔をしている。
 加工ソフトでフリント牧師の上半身を切り抜いている最中に、またメールが届いた。溝田牧師からの、一斉送信だった。
「愛する兄弟姉妹へ。今夜は祈祷会でなく、特別集会とします。・・・」
 あとは知っている内容だった。
 それから2時間ほどかけて今夜のポスターを完成させ、溝田牧師に送った。何か修正しろと言われるかと思ったが、意外にも「これでいい」という返事。時間的に何度も修正する余裕がないことくらい、牧師もわかっているのだろう。キマジメくんはさっそくポスターを印刷し、教会に向かった。

 夜の7時になった。会堂はすでに信徒でいっぱいになっている。溝田牧師とフリント牧師の姿がないけれど、司会者が話しはじめ、賛美がはじまった。接待係の姉妹がお盆を持って何度か牧師室に出入りしているから、2人とも中にいるのだろう。
 少し離れたところにノンビリ兄弟がいた。賛美に合わせて手拍子をし、足で軽くステップを踏んでいる。珍しい光景だ。そういえばノンビリ兄弟は今日も朝からSNSに御言葉を連投していた。
 賛美が盛り上がってきたところで、牧師室のドアが開いた。溝田牧師に続いて、フリント牧師が出てくる。写真で見たより長身だ。溝田牧師より頭一つ分高い。歩き方がゆっくりで、やはり穏やかな印象を受ける。
 賛美が終わると、溝田牧師が今回の集会の趣旨を語りはじめた。
「皆さん、今日は急な集会になりましたが、これが神の国のペースですから、しっかり付いてくるように。神の国は、絶えず動いているのです。私たちを待ってはくれません。そのペースを知り、従う者を、神は用いられるのです。皆さん、神に用いられたいですか?(アーメンが起こる。)ハレルーヤ! それでこそ神の民です。
 そして今日は、主が絶妙のタイミングで、ゲストをこの教会に送って下さいました。イスラエルで活躍しておられる、グレン・フリント牧師です。(拍手が起こる。)師は霊の戦いにも精通しておられます。ちょうど先週来日されて、この教会の活動を知ったとのことです。なんというタイミングでしょう。これこそ主の導きです。ハレルーヤ!(またアーメンが起こる。)」
 そしてフリント牧師がマイクを取り上げた(例によって溝田牧師が通訳をする)。
「皆さんこんばんは。私はグレン・フリントと申します。この教会の素晴らしい働きを聞いて、やって来ました。皆さんの歓迎を感謝します。(また拍手。)
 実は今週に入ってから、東京の空が解放されつつあるのを感じていました。厚い闇の雲に穴が空き、第3の天が垣間見えたのです。それでこれは何だろうと調べたところ、この教会の、日光での戦いのお話にたどり着きました。そして納得しました。主がこの教会を用いて、東京を解放しようとしておられるのだと!」
 また盛大なアーメンが起こる。カンカク姉妹の声が一番大きかった。
 それからしばらく、フリント牧師の経歴の話になった。彼はもともとアメリカ西海岸で教会を牧会していたが、十数年前、イスラエルのために働くよう神に導かれた。それで教会を後任に委ね、単身イスラエルに渡った。ちょうどそこに彼を迎えてくれる教会があった。彼は正式な招聘を受け、そこの牧師になった。以来、イスラエルの守られることや、世界中のユダヤ人の帰還に尽力してきた、という。
 よほどイスラエルに対する「重荷」があるのだろう。イスラエルのことになると、穏やかなフリント牧師も熱くなった。
「皆さんは、イスラエルに対して憧れを持っておられるのではないでしょうか。イエス様が活動された場所ですから、霊的に高次な場所だと思われるかもしれません。たしかにそういう面もあります。しかし、実態は逆です。今世界中で、イスラエルほど、霊的に圧迫された土地はありません。あそこはいつも重苦しく、憎悪で満ちています。民族が民族に敵対し、争いが止みません。私はイスラエルにいる間、しょっちゅう泣き叫んで、主に祈っています」
 おおっ、という嘆きが起こった。カンカク姉妹が前後に揺れながら、「おーイスラエルに主の憐れみを、主の憐れみを」を泣きながら祈っているのが見える。
 それから、フリント牧師がイスラエルで体験したという不思議の数々が語られた。信徒はみな感嘆し、驚愕し、笑い、泣いた。フリント牧師はさほど表情を変えずに話していたから、もしかしたら溝田牧師の脚色があったのかもしれない。
 さて、話は佳境に入った。フリント牧師はずっとうつむき気味だったけれど、ここへきて顔を上げた。
「皆さん、私は長い間イスラエルで戦ってきました。もちろん血肉による戦いでなく、霊的な戦いをです。そして数年前、主から特別な戦略をいただきました。それが50時間の祈りです。年に数回、私たちは50時間の祈りを行い、主からの解放をいただいています」
 信徒の間にざわめきが起こる。「50時間の祈り」とは初めて聞く言葉だった。どんなものなのか、誰も想像できないのだろう。キマジメくんもそれは同じだった。溝田牧師だけは、冷静な顔で通訳している。事前に聞いていたのかもしれない。
「50時間の祈りとは、預言的アクションの1つでもあります。それはイスラエルで行われていた、50年毎の解放、つまりヨベルの年を表すものです。1年を1時間に見立て、全部で50時間の祈りを私たちは捧げます。そして最後にヨベルの年を宣言します。すると皆さん、大いなる解放が与えられるのです! 私たちはこの方法で、イスラエルを縛る多くの闇を打ち破ってきました!」
 今度はおおっという歓声が起こった。まだ要領を得ないけれど、とにかくすごいことらしい。ヨベルの年というのがいかにもユダヤ的な気がした。
「私は皆さんに、この50時間の祈りをお勧めします。きっと今までになかった解放、今までになかった勝利が与えられます。皆さん、どうぞこの主からの戦略、主からの武器を受け取って下さい」
 また盛大なアーメンが起こる。カンカク姉妹は両手を挙げて「ハレルヤー」と叫んでいる。さっきまで泣いていた気がしたが。
 しかしまだ話は終わっていなかった。フリント牧師は、というより溝田牧師は、険しい表情になった。
「皆さん、単刀直入に言いましょう。日本はまだ縛られています。日光の結界は解けましたが、日本にはまだ5人の巨人たちがいます。家康よりもはるか以前から、この日本に君臨し、人々を歴史的に縛ってきた巨人たちが、いまだ日本を支配しているのです!」
 また嘆きが起こった。今度は悲鳴に近い声も上がった。カンカク姉妹は頭を抱えて、フラフラと左右に揺れている。今にも倒れそうだ。
 今度は溝田牧師が話した。通訳ではない。
「愛する兄弟姉妹、私たちはこの5人の巨人たちを打ち破っていかねばなりません。今度は東京でなく、日本を解放するのです! 皆さん身を引き締め、しっかり立って下さい。そして50時間の祈りに備えましょう!」
 もちろんアーメンが起こったけれど、また大変なことになりそうだと、キマジメくんは思った。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年1月10日水曜日

キリスト教って「奇蹟」や「癒し」が起こるものなの?

「奇蹟」や「癒し」の現状は

 いきなりですが質問です。
 キリスト教的な「奇蹟」や「癒し」、あるいはその他の「超自然的な体験」について、皆さんはどう考えておられるでしょうか。

「もちろん今でもそういうものは起こるんだ」
「いや今はそういう時代ではないんだ」
「正直言ってわからない」

 など、いろいろあると思います。

 私個人はその答えは「とりあえず保留」にしておきたいですね。でも今まで沢山のインチキや勘違いを見てきましたので、態度としては非常に懐疑的です。むしろそういうものは「起こらない」と思っていた方が、健全な気もします。

 たとえば「霊の戦い」をしていたら、遠くから叫び声やドスンドスンいう音が聞こえてきて、これは天使たちが戦っている音だ! と思ったら近所の柔道場の音だった、みたいな勘違いがあります。
 あるいは散々「癒しが起こる」と言っておいて、いざ祈ってみると何も起こらない、なんてのも非常に多いですね。
 賛美していたら体がブルブル震えた、祈っていたら体が痺れたようになった、これは聖霊様の働きだ、というのも聞いたことがありますが、アドレナリンやドーパミンが出すぎただけじゃないでしょうか。もちろん断言できませんけれど。

 その一方で、ごく稀にですけれど、治るはずのない病気が治った、という話もあります。さて、これは「神による癒し」なのでしょうか?

「体験」や「現象」より重視すべきものは

「奇蹟」や「癒し」を考えるうえで大切なのは、「その結果どうなったのか」という視点だと思います。「奇蹟が起こったか起こらなかったか」でなく、「奇蹟が起こった結果どうなったのか」です。

 よく「奇蹟」や「癒し」が起こる理由として、「神の栄光が表されるため」とか「全能の神の存在が認められるため」とかいうのがあります。それはそれで間違いではないと思います。キリストも「私の言葉が信じられないなら、わざを信じなさい」みたいなことを言っていますから(ヨハネの福音書14章11節)。
 ガチガチの無神論者が、神の超自然的な働きを目の当たりにして、信仰に目覚めた、なんていうのはクリスチャン映画によくある展開です。

 ということは、「奇蹟」や「癒し」が起こった結果、誰かが神を信じるようになったり、「神様ってすごい!」という話になったら、それは「神による奇蹟(癒し)」ということになるのでしょう。

 個人的な話ですが、私の親族が昔、癌で手術が必要になりました。その人はクリスチャンではありません。私は当然祈りましたけれど、遠方だったし、急な話だったので、会いには行けませんでした。電話で話すこともできませんでした(そこまで親しくなかった、というのも関係あります)。
 ところが手術の前日、切除範囲を決める検査をしたところ、癌が消えていました。医者も本人も家族も、何がなんだかわかりません。でも喜びました。その後何度か検査をしましたが、今に至るまで、何の異常もありません(嘘のようですが、本当の話です)。
 でも、その人は今も未信者のままです。キリスト教のことなど何も知りません。

 さて、「神の栄光」も表れず、神の存在も認められていませんが、これは「神による癒し」なのでしょうか? だとしたら何のために「癒された」のでしょうか?

 また一方で、ある牧師夫人が、同じような経験をしました。癌で何度か手術を受け、まだ手術が数回必要な状態だったのですが、不思議と癌が消失したのです。何がなんだかわかりません。当然ながら、教会では「主が癒された!」と大騒ぎでしたが。

 でも私は腑に落ちませんでした。上記の親族のことがあったからです。この牧師夫人が「癒された」のが「神の御業」だとしたら、私の親族のは何だったのだろう、と。
 それに、その牧師夫人は何度も手術を受けているのです。なんで初めから「癒し」が起こらなかったのでしょうか? それだけ神様は意地悪なサディストなのでしょうか?

 あるいは、「クリスチャンは特別なんだ」と思われるでしょうか。
 でも癒されることなく亡くなっていくクリスチャンは大勢います。私も教会で散々「癒し」を祈られ、宣言され、それでも亡くなった方を少なからず見てきました。
「癒し」が起こると言うのなら、なぜ彼らは癒されなかったのでしょうか。「それは神の摂理だ」と言うでしょうか。それなら「癒しは起こる」と言ってはいけません。「癒しが起こるかどうかわからない」と言うべきです。

「全日本リバイバルミッション」の滝元明氏も、晩年は肝臓癌で闘病されました。近い牧師たちが「癒されると信じます」と言っていましたね。でも2015年8月、亡くなられました。すると「癒されます」と言っていた人たちは手の平を返したように「天に召されるのが御心でした」などと言うではありませんか。ずいぶん都合がいいなあと思いましたね。

起こらない方が良かった「すごい体験」

 礼拝中に「天使の羽根が降ってきた」「金粉が降ってきた」「天使の声が聞こえた」という話も聞いたことがあります。
 それで大騒ぎする人たちがいますが、私は「その結果どうなったのか」が気になります。でもそれで未信者が入信したとか、その地域に良いことが起こったとか、そういう話は聞いたことがありません。

 実は「天使の羽根」の人と、コンタクトを取ったことがあります。私はこう勧めました。
「それが神の御業だとはっきり証明されるために、その羽根を遺伝子検査に回すべきです。それでこの世のものでない羽根だとわかれば、すごいじゃないですか」
 でもその人は、「神を試みてはいけません」と拒否しました。
 いや、試みるんじゃなくて、確認するだけなんですけど?
 でも結局、聞き入れてもらえませんでした。
 たぶんあの羽根は大切に保管されているのでしょうけれど、そのへんの鳩の羽根が、偶然窓枠とか誰かの靴とかから落ちただけだったら、どうするんでしょうね。その可能性もあると思うんですけれど。

 またある集会の後で、「天使の声が聞こえた」という話題で盛り上がったことがあります。賛美の最中、聞き慣れた誰の声でもない、高音域の美しい声が、しばらく聞こえていたと言うのです。しかも、数名の人たちが。
 私は聞こえませんでした。私だけでなく、大部分の人は聞こえなかったようです。録画、録音したものも確認しましたが、それらしい音は入っていませんでした。でも聞こえたという人たちは、すごいすごいと盛り上がっています。

 聞こえなかった「負け惜しみ」と思われるかもしれませんが、その時私はこう思いました。天使の声が聞こえたとして、それにどんな意味があるんだろう、と。
 どんなにすごい「奇蹟」を体験しても、「すごかったね」で終わったら意味がない、と思ったのです。
 結局「すごかったね」で終わったのですが。

 ところで、この「天使の声」事件は、どういう結果をもたらすと思いますか? 
 より熱く賛美するようになるでしょうか。
 より教会の結束が高まるでしょうか。
 より一致するようになるでしょうか。

 はっきり言いますが、それがもたらすのは教会の「分断」です。信徒間の「格差」です。聞こえた人は「すごい・霊的だ・レベルが高いんだ」と思われ、聞こえなかった人は「そこまで達していない」と思われるからです。また前者は「自分ってすごい」みたいな信仰自慢に陥るかもしれません。後者は「自分はダメなんだ」と失望するかもしれません。

 それが「結果」だとしたら、そんな「奇蹟」は起こらない方が良かったのです。

本当の「奇蹟」や「癒し」とは

 私は信仰生活において、必ずしも大々的な「奇蹟」や「癒し」が起こらなくていいと思っています。以前はそういうものを求めていましたけれど、今はむしろ要らないとさえ思っています。なぜならそれらは、キリスト教信仰の中心でなく、必須条件でもなく、今まで書いてきたように、間違いや勘違いや本末転倒が多いからです。

 あなたがもし「奇蹟」や「癒し」を熱心に求めているとしたら、それはキリスト教信仰とはちょっと違うものだと知って下さい。キリストの教えの中心は「奇蹟」や「癒し」でなく、シンプルな「愛の実践」だからです。すごく地道なものです。「奇蹟」や「癒し」が起こらなければダメだと思うのは、いわゆる「体験主義」です。

 あるいは、愛を知らなかった者が愛を知り、愛を実践できなかった者が愛を実践できるようになるとしたら、それこそが「奇蹟」であり、「癒し」であるのかもしれません。

2018年1月9日火曜日

【小記事】若さか、バカさか、エンターテイメントか

 アメリカのYoutuber、ローガン・ポール氏が、富士の樹海で見つけた自殺死体の動画を公開し、炎上しました。さすがにこれはまずいと思ったのか、翌日には動画を削除し、謝罪文を発表しました。

 でも事はそれで治らず、彼が渋谷の街で大暴れした様子も批判のマトになりました。これは私も(誰かがSNSにアップしたもので)見ましたが、まあ酷かったですね。よくその場で警察沙汰にならなかったなと、不思議に思いました。

 でもネットでバカなことをして非難を浴びるというのは、以前からありました。何年か前に「バカッター」というのが流行り(?)ましたが、高速道路を制限速度オーバーで走る動画を公開して捕まったり、コンビニのおでんをつつく動画を公開して捕まったりと、後を絶ちません。

 その流れで見れば、ローガン氏のそれも、起こるべくして起こったような気もします。もちろん自殺死体の公開など、決して許されることではないですが。

 ただ今回の件の特殊性は、彼がYoutuberだということです。彼が渋谷で暴れても、神妙な面持ちで謝罪しても、注目を集めれば集めるほど、彼の収益になります。何とも皮肉な現象ですね。なんでもエンターテイメントになるというか。
 毎日動画をアップするYoutuberとしては、それだけエンターテイメント性や話題性が大切なのでしょう。それが行き過ぎて今回のような事態になった、と考えることもできそうです。

 私がいたキリスト教会には、年間通じてけっこうな数の外国人が訪れました。アメリカだけでなく、カナダとかペルーとかブラジルとか、フィリピンとかシンガポールとか台湾とか、とにかくいろいろな国から来ました。いろいろな人がいました。でも皆クリスチャンだったからか、礼儀正しかったですね。日本をリスペクトしてくれていたと思います。

 ただ、ちょっと首を傾げることもありました。 覚えている限りだと皆アメリカの白人青年なのですが(ちょうとローガン氏と同じですね)、イタズラが過ぎる輩がいました。トイレに人が入っているのを知ってて電気を消すとか、礼拝前にギターの弦をユルユルにしておくとか、後ろから誰かの頭を叩いて笑いながら逃げるとか、正直腹立たしかったです。誰も面と向かって怒らず、苦笑いしただけでしたが。

 ローガン氏を見て、ふと彼らのことを思い出しました。もちろん、そうでないアメリカの白人青年もいましたから、やはり人それぞれなのだとは思いますが。

 とかく若いうちは、バカなことをやってしまうこともあると思います。前述の「バカッター」に若い人が多いのも、その証左かもしれません(もちろん若い人ばかりではありません)。でもそれで取り返しのつかない事態になってしまったら、若さも何も理由にならなくなってしまいます。
 昨日の成人式でも、暴れた若者たちがいたようです。
 人生には後悔が付き物ですが、大きな後悔がないよう、願うばかりです。

【関連聖句】
愚かなことが子供の心の中につながれている。懲らしめのむちは、これを遠く追い出す」(箴言22章15節)

 うーん。そのままの意味かと笑

2018年1月8日月曜日

オウム真理教の元信徒の「無罪判決」に見る、カルト信徒の加害性と被害性

菊地直子さんの無罪判決

 先月25日、オウム真理教の元信徒・菊地直子さんの無罪が確定しました。
 菊地さんは95年の東京都庁郵便小包爆弾事件において、爆薬の原料を運んだとして、殺人未遂幇助等の罪に問われていました。17年の逃亡生活の末、2012年に逮捕されました。そして裁判を経て、昨年(2017年)無罪が確定、というのが大まかな流れです。

 この判決に納得が行かない、という意見も多いようです。「悪いことをしたのになんで無罪なんだ」というような意見ですね。地下鉄サリン事件では「実行犯の送迎をした」複数の信徒が無期懲役になっていますから、それとの整合性が取れない気もします。

 もちろんテロ事件は絶対的に悪いものです。どんな主義主張があろうと、それで人々を(まして無関係の人々を)傷つけていいわけがありません。だからこの計画に関わった人たちは適正な裁きを受けるべきです。菊地さんも主体的に、意図的に関わったのなら、その例外ではありません。

 私は上記の経過を新聞記事で読んだだけです。だから真相はわかりません。自分が運んだものが爆薬の原料であり、殺人に使われるとハッキリ認識していたのか、あるいはそこまで認識しておらず、あくまで「教団に命じられた仕事をしただけ」だったのかは、おそらく菊地さんのみが知るところです。そして裁判では、前者については「判断できない」とされました。判断できないから裁けない、ということです。
 だから教団の意図や計画とは別に、菊地さん自身に人殺しの意思があったかどうかは、わからないわけです。

 この判断には、カルト教団特有の「信徒は言われた通りに動くだけ」「信徒は基本的に逆らうことができない」「信徒は思考停止状態になっている」という事情も勘案されているようです。そして、それ自体は必要なことだと私は思います。

 なぜなら、「オウム真理教の人間だから悪いはずだ」「テロ事件に関与したのだから悪いはずだ」「用途がわからなくても、怪しげな薬品なのだから悪いことだとわかっていたはずだ」みたいな認識は、必ずしも正しくないからです。

被害者でもある加害者

 カルト宗教の特徴の1つは、「信徒はリーダーを盲信しており、逆らえる心理状態でない」という点です。洗脳されていたり、教義的に脅されていたり、従順を教え込まれていますから、信徒の側に「リーダーに逆らう」という選択肢はそもそもありません。脱会した人たちでさえ、その洗脳を完全に解くのに長い時間がかかります。だから内部にいる人たちがどれくらい強力に縛られているか、想像できるでしょう。多少おかしいから、多少常識外れだから、多少怪しいから、と言ってその命令を拒否することはできません。
 菊地さんの場合で言えば、「怪しげな薬品だから」「何に使われるかわからないから」という理由だけでは、運ぶのを拒否する根拠にはならなかった、ということです。

 世間的には、怪しげな薬品を運搬すると聞いたら「悪いことに使われると疑うのが普通」でしょうけれど、菊地さんからしたら「それを拒否したらどんな目に遭うかわからない」のです。麻原教祖からも「教えを否定する気持ちを持てば無間地獄に落ちる」と教えられていたそうです。一般にはなかなか理解できない視点、事情、心理がそこにはあります。
 そのあたりが勘案された判決だったのだろうと、私は考えています。
 その意味で、菊地さんは(あるいは他の信徒たちも)加害者側であったと同時に、被害者でもあったと言えます。

 地下鉄サリン事件に関わった信徒たちは次のように発言しています。
教祖の意思を実行し嬉しかった
殺人というイメージがわかず、救済として当然のことのように受け入れた
 そこまで洗脳されてしまったのは「被害」だと思います。でもそれを実行に移した時点で、「加害者」になってしまったのでした。

キリスト教も無関係でない

 おそらく多くの人が疑問に思うのが、「人の心はそんなに弱く、簡単に分別をなくしてしまうものなのか」という点だと思います。いくら洗脳されているとは言え、たとえば殺人など実行できてしまうのか、さすがに理性で止まれるのではないのか、と不思議に思うからです。
 結果的に殺人に至ったのは、少なからずその人の意思だったのでしょうか?
 そのへんの心理的メカニズムは、まだ十分に解明されていないようです。

 さて、これは怪しげな新興宗教だけの話で、キリスト教は関係ないのでしょうか。
 私は大いに関係あると思っています。
 今『キマジメくんのクリスチャン生活』は「霊の戦い」の話になっていますが、あれはまさに地域社会に対する「攻撃」です。しかし中の人たち(信徒たち)は、それこそが「救済」だと信じています。これは被害の規模が全然違いますけれど、地下鉄サリン事件と基本的に同じ構図です。信徒たちは、たとえば寺社に油を撒くのを「良いこと 」「当然のこと」と考えていますが、一般的には立派な「犯罪」だからです。
 しかもそれは小説の中だけでなく、実際に起こっています。

 もちろんこれは一部の急進的・狂信的なキリスト教会の話です。多くの教会は「一緒にしてくれるな」と思っていることでしょう。でも前者がもっと過激になっていけば、いずれもっと攻撃的な、破壊的な行為に及ぶかもしれません。その時、社会は「キリスト教は危険だ」と言うようになり、どの教会も無関係ではなくなるでしょう。

 地下鉄サリン事件の実行犯、広瀬死刑囚は、手記でこのように書いています。

地獄といったように恐怖を呼び起こす思想には近くべきではない

 これは「地獄」だけでなく、人を恐怖させる様々なもの、たとえば「◯◯でなければ救われない」「◯◯でなければ祝福されない」といった文言にも言えます。一部の教会には、そういうことを強く言う人たちがいます。しかもまったく余裕のない、寛容さのない態度でです。
 そういうのを見ると、私は地下鉄サリン事件を「どうしてもやらなければならない使命だ」と信じてしまった人たちと、全く同じではないかと思ってしまいます。

2018年1月7日日曜日

ブラックフェイスと差別と笑い

 大晦日に放送されたテレビ番組「絶対に笑ってはいけない〜」で、ダウンタウンの浜田さんがブラックフェイスを披露したのが、物議を醸しましたね。「黒人差別だ」との批判が起こり、海外のメディアにも取り上げられました。それに対して「日本に黒人差別の感情はない」「ユーモアが理解できないのか」みたいな反論も起こっています。
  皆さんは、どう考えられたでしょうか。

 私は同番組を付き合いで少し見ましたが、あんまり面白いとは思わなかったです。むしろ蹴る、叩く、汚いことをする、という笑いが散見されて不快でした。ブラックフェイスの件は後から知りましたが、やはり何が面白いのかわかりません。ついでに嫌がるベッキーさんにタイキックを食らわすのも全然笑えません。
 まあ笑いの嗜好の問題かもしれませんが、少なくとも私は全般的に「ユーモア」として理解できなかったです。

 それはいいとして、ブラックフェイスは差別だったのでしょうか。それとも笑いだったのでしょうか。

 差別とは、された方が「差別だ」と声を上げることで成立します。だから「差別感情はなかった」という反論には、意味がないように思います。差別感情があろうがなかろうが、意識していようがいまいが、された方が「これは差別だ」と感じたなら、それは差別だからです。

 だいいち、差別者が「これは差別じゃない」と言えば差別でなくなるとしたら、じゃあ差別っていったい何なのですか? という話になります。
 世界中のあらゆる差別が、「これは差別ではない」「ほんの冗談だ」という主張だけで解消されるなら、差別は存在しなくなります。でも実際にはそうではありません。

 昨今大きく取り上げられるようになった、LGBTQ差別について考えてみましょう。
 LGBTQとはご存知の通り、性の対象が同性だったり、両性だったり、性自認が合わなかったりすることです。それは生まれ持っての性質であり、変える必要のないものです(また、変えたくても変えられません)。

 でもそれらは性の一形態であって、何ら問題ありません。統計的に少数派ですけれど、少数だから悪いなんてこともありません。
 でもそれを「気持ち悪い」「同じ人間と思えない」「間違っている」みたいな評価を多数派が押し付け、あるいはからかい、あるいは笑いのネタにするので、された方は「差別」を感じるのです。そして「差別」が生まれます。した方は感じませんけれど。

ブロガーで作家のはあちゅうさんは、「スクールカーストは下からだけ見えるもの」と言っています。つまり下層に行けば行くほど「格差」を強く思い知らされる、ということです。上の層の人たちは、そんなこと気にしません。差別もこれと同じですね。

「差別なんてしてない」「あれは差別じゃない」「過剰に反応しすぎだ」と言う人は大抵、された方の気持ちがわかっていません。だからそのへんをちょっと考えてみたらいいのではないかな、と私は思います。

2018年1月5日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第73話

 ノンビリ兄弟の、ほとんど土下座に近い謝罪を見ると、溝田牧師の表情が和らいだ。さすがに言い過ぎたと思ったのだろうか。牧師はノンビリ兄弟の横に膝をつき、震える肩に手を置いた。
「ノンビリ兄弟がわかってくれれば、それでいいんだよ」と優しく言う。「私は君を愛しているから、こんなに厳しく言うんだよ。君に苦しんでほしくないからだ。ほら、私たちは長い付き合いだろう? 君が強く立ち、敵の攻撃をはねのけるくらいになってくれれば、私も安心できるんだよ」
 ノンビリ兄弟は土下座の姿勢のまま、何も言わない。まだ小刻みに震えている。よく耳を澄ますと、何か呟いているような気もする。
 溝田牧師はノンビリ兄弟の肩をポンポン叩いた。「じゃあノンビリ兄弟、しっかり祈って備えなさい。いいね?」
 そして返事を待たずに立ち上がる。「じゃあキマジメくんも、また明日」
「あ、はい」
 牧師はキマジメくんをチラリと見て、もう一回ノンビリ兄弟を見下ろすと、会堂を出て行った。

 次の日から毎週月曜ごとに、教会は「霊の戦い」に出て行った。
 区内の大きめの寺社を、順番に巡って行った。行く先々で「勝利」を宣言した。時には祈りながら街を練り歩くこともした(これはプレイヤーウォークだ、と牧師は言った)。2ヶ月後には永田町のビエ神社にも赴いた。ここでは拝殿の四隅に油を注ぐだけでなく、木の枝を一本折り、「モーセの杖」として「預言的アクション」も行った。
(それぞれの寺社での「戦い」の詳細を書かないのは、どれも似たような光景だったからである。)
 ノンビリ兄弟は結局休むことなく、毎回参加していた。だが調子はその日によって様々だった。妙に明るくテンション高めの日もあれば、塞ぎ込んで無口な日もあった。彼のSNSを見ると、早朝から聖書箇所を立て続けに投稿したり、こんな自分も主に愛されているんだみたいな喜びの投稿をしたり、深夜に涙の悔い改めの投稿をしたり、そうかと思うと一連の投稿を丸ごと削除したりと、不安定な様子を見せていた。彼はもともと社交的ではなかったけれど、最近ますます孤立していた。誰もあえて彼に近づこうとしなかった。キマジメくんも例外ではなかった(キマジメくんの場合、年上に対する遠慮と、どう接するべきかわからないという迷いがその理由だった)。
 そんなこんなで浮き沈みの激しいノンビリ兄弟を空気のように扱いながら、教会は「霊の戦い」を進めていった。
 そしてついに、「敵」の本拠地とも言うべき、日光東照宮を訪れた。

 やはり月曜の夜である。
 東照宮の拝観はすでに終わっているけれど、「行けるところまで行こう」という溝田牧師の指示があり、皆車を降りた。駐車場付近はまだ灯があった。けれどゆるやかな山道を上がるにつれ、あたりは暗くなっていく。表門の前は完全に真っ暗で、月明かりだけが頼りとなった。見たところ誰もいない。
「この時間だと拝殿には入って行けないか」と牧師。表門は閉じており、入館受付も閉まっている。しかし表門の前は広いスペースになっていた。「ならここで勝利を宣言すればいい。我らの主は全能なのだから、距離や時間に縛られることはない。もちろんこの東照宮の強い結界にも、負けることはない」
 暗闇の中、信徒らのアーメンという声が響く。
「では祈ろう」
 牧師の掛け声により、皆「異言」で祈り始める。
 さて、この後の展開はいつも通りである。「異言」の後、カンカク姉妹が「とりなし手」として祈り、感じたことを話す。それを受けて牧師が「霊的洞察」をする。それを聞いて何人かのリーダーたちが祈る。それからまた皆で「異言」で祈ったら、牧師の出番である。ここでは単に「勝利」を宣言するだけの時もあるし、何らかの「預言的アクション」を入れる場合もある。「すべては聖霊の導きに従うのみだ」というのが牧師の説明だった。
「今、賛美をするよう主が導いておられる」牧師は空を見上げたまま言う。「だから皆で一曲歌おう。旗振りと角笛も、導かれるままにやりなさい」
「旗振り」と「角笛」とは、一連の「霊の戦い」の中で始まった活動である。
「旗振り」とは、主に姉妹たちが、2メートル四方くらいの旗(いろいろな色があり、色によって「霊的意味」が違った)を持ち、祈りや賛美に合わせて、応援団みたいに振るものである。
「角笛」とは文字通り角笛のことで、海外から取り寄せた本格的なものだ。主に兄弟たちが持ち、祈りや賛美の合間(それは「霊的なタイミング」だ、と牧師は言った)に高らかに吹き鳴らすのだった。どちらも海外の教会の「預言的礼拝」を参考に取り入れたものだった。
 祈りや賛美の最中にまわりで旗が振られ、角笛が吹き鳴らされると、いかにも神秘的な、象徴的な、ユダヤ的な雰囲気になる(と言ってもキマジメくんはイスラエルに行ったことがなく、ユダヤ的な何かに触れたこともないので、この「ユダヤ的」というのは単なるイメージでしかなかったが)。
 その「旗振り」と「角笛」が、ここ東照宮で出番を迎えたのである。これはいよいよ「最終決戦」なのだろうか? キマジメくんはそんなふうに思って、胸が高鳴るのを覚えた。
 そして賛美が始まった。伴奏はアコースティックギターとカホンである(アウトドアではこれらの楽器がいつも重宝されている)。皆で声を合わせて賛美し、「旗振り」の姉妹たちがあちこちで旗を振り、「角笛」が時々吹き鳴らされる。人の気配がないのをいいことに、皆どんどん盛り上がっていく。カンカク姉妹などは狂ったように踊り回り、ハレルヤとかアーメンとか叫ぶ始末である。教会にいるのと変わらない様相になってきた。
 ここでもし誰かが来たらどうなるだろう、とキマジメくんは不意に心配になった。しかしこれは主の戦いである。主が守って下さるに違いない。それにこういう心配こそが「敵の策略」かもしれない。不安に陥らせることで、士気を挫こうということか。その手には乗らないぞ、とキマジメくんは気を強く持つことにした。
 その時である。どこか遠くの方から、何やら聞こえてきた。ワーワー叫ぶ声と、ドスン、ドスン、という鈍い音である。一同驚いて互いに顔を見合わせた。そのせいで賛美の声が小さくなった。皆耳を澄まして、よく聞こうとしている。
 それは止むことなく聞こえてくる。よく聞くとウォーッとか、セイヤッとか、格闘しているような低い声だった。それに伴ってドスン、ドスン、と響いてくる。山の地形のせいだろうか、何重にも反響して、幻想的な響きだ。賛美が盛り上がったところで始まったから、何か関係あるに違いない。
 その時、溝田牧師が叫んだ。
「ハレルーヤ! 主の軍勢が天から降りてきて、この地を縛る敵の軍勢に、総攻撃を始めたのだ! 今我々は、天の軍勢の戦いに参与している! ガッズアーミーよ! 力の限り歌いなさい! 踊りなさい! 歓喜の声を上げなさい! 角笛よ、高らかに吹き鳴らせ!」
 また賛美の声が大きくなり、楽器もフルボリュームになる。皆手を挙げ、ワーワー叫ぶ。何人かが激しく踊る。角笛が長く長く吹き鳴らされる。
「主の勝利を宣言します!」
 溝田牧師が右の拳を振り上げて怒鳴った。山の向こうから、変わらず格闘の声が響いてくる。
 それからしばらく祈りと賛美が続いた。何人かの信徒が、スマホを山の方に向けている。レコーダーアプリで、「格闘」の音を録音しているらしかった。
 と、いうのが日光東照宮での「霊の戦い」の顛末である。
 その後、格闘の音が止んだので、一同は喜び勇んで帰路に着いた。霊的な戦いの音が、肉声で聞こえたのである。興奮しない者はいなかった。誰もが口々にハレルヤとか、主は素晴らしいとか言っていた。「最終決戦」にふさわしい展開に思われた。
 そんな彼らの車列が山道を抜け、一般道に入る手前で、とある武道館の前を通過した。何人かの信徒がそれに気づいた。明かりの漏れる入り口から、柔道着を着た屈強そうな青年たちが、汗を拭いたりスポーツドリンクを飲んだりしながら、出てくるところだった。中からウォーッという声に続いて、ドスンという音が聞こえてきた。
 もしかして、あの「格闘」の音は・・・。気づいた信徒たちがそれについて何を考えたのかは、残念ながらわからない。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年1月3日水曜日

判断に困ったときの対処法

トランプ米大統領の評価の変遷(あるいは逆転)

 2年半くらい前でしょうか。米大統領選挙の候補として、トランプ氏がメデイアに華々しく登場しました。歯に絹着せぬ発言、下品なジョーク、大胆な政策など、良くも悪くも話題になりました。

 こんな下品な、酷い人間が大統領に選ばれるはずがない、と多くの人が思ったでしょう。私も不快感を覚えました。ある原理主義的教会の牧師も、ブログ上で「彼には要注意だ」みたいなことを言っていました。いかにも事情通といった口調で。

 そんなトランプ氏ですが、ご存知の通り、大方の予想に反して大統領になりました。衝撃が走りました。アメリカは、世界はどうなってしまうのだろう、と(一方で、彼に期待した人も多かったと思います)。でも結果的には、いろいろ問題はあるものの、とんでもなく常軌を逸した事態にはなっていません。彼一人では世界はどうにもならなかった、ということでしょうか。

 そして昨年末、トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都に認定するとの声明を出しました(それに関する記事はこちら)。この声明そのものは、歴代の大統領が先延ばしにしてきた事案を、ただ実行に移しただけです。トランプさんの勝手な思いつきや気まぐれではありませんでした(もちろん政治的な思惑があってのことだと思います)。

 でもこの声明をみて、「トランプ米大統領は立派だ」「イスラエルを祝福する者だ」みたいなことを言い出す人がいました。ユダヤ主義を自認する人たちです。ついにエルサレムがイスラエルのものになった、これは神の御心だ、と喜んだわけです。でも、あれ、「彼には要注意だ」って言ってませんでしたっけ?

 なんか言うことがコロコロ変わるなあと、半ば呆れながら私は思ったのでした。

白か黒かでなく、保留という選択肢

 世界情勢、とりわけ中東情勢に動きがあるとすぐ、「これは◯◯の預言の成就だ」などと言い出す人たちがいますが、結論を急ぎすぎです。過去に同じような失敗をした人たちが少なからずいるのですから、そういう事例から学んだらどうかと思います。
 でないと「軽率」と言われれても仕方ありません。

  世の中の物事は、生きていれば分かるはずですけれど、ハッキリ白黒つけられるものばかりではありません。むしろ明確に分けられないものの方が多いはずです。あるいは初めは白っぽく見えていたものが、気づくと黒くなっていた、なんてこともあります。その反対もあります。

 聖書にも「先に訴え出るものは正しいように見える」(箴言18章17節)と書かれています。要は、皆の話を聞いて、必要な情報を揃えないと、公平に判断できない、ということです。
 判断を急ぎすぎると、大抵ロクなことになりません。そういう経験、誰にもあるのではないでしょうか。 

 だから私がお勧めするのは、何でもかんでもすぐに白黒決めるのでなく、「とりあえず保留」という選択です。と言っても、判断を避けて先延ばしにするという意味ではありません。より公平に、より思慮深く判断するため、少し様子を見る、という意味です。
 これこそ知恵のある行為だと、私は思います。

  もっとも、それだけ待つ余裕があるならば、という話ですが。

『スターウォーズ:最後のジェダイ』の裏切り

 余談ですが、現在公開中の映画『スターウォーズ:最後のジェダイ』をご覧になりましたか。
 この映画は「今までのスターウォーズを裏切る作品だ」みたいに言われていますが(諸説あります)、私はその通りだと思いました。ネタバレしませんが、「光か、闇か」という勧善懲悪っぽいコピーをも裏切って、光と闇では分けられない、人間心理の複雑さを描いているからです。


 今までの『スターウォーズ』は(私はさほど詳しいわけではありませんが)、善と悪がわかりやすく切り分けられていました。ほとんど完全なる勧善懲悪モノだったと思います。でも今作は、「悪人」だと思っていた人物が、実は「自分なりの正義」に従って行動しているだけ、という意外な展開を見せます。また「善人」だと思われていた人物が、過去にとんでもない悪事をやらかしています。つまり、誰が善で誰が悪なのかよくわからない、という感じです。
それが、今までの『スターウォーズ』との決定的な違い(あるいは裏切り)だと私は思いました。

 あ、もちろん映画の感想は人それぞれでいいと思いますが。

「とりあえず保留」の勧め

 この「とりあえず保留」は世界情勢や政治情勢だけでなく、日常のいろいろな場面で活用できます。 
 私たちは毎日のように何かの判断をしています。小さい判断も大きい判断もあります。その判断の時、怒っていたり焦っていたり、忙しかったり鬱っぽかったり、疲れていたりストレスフルだったりすると、咄嗟におかしな方を選んでしまうことがあります。それで失敗することも少なくありません。

 だからそういう自分自身のコンディションに注意しつつ、「あー今は冷静な判断ができないな」とか、「まだ判断するには情報が足りないな」とか、できるだけ判断を保留にするのをお勧めします。

 もちろん、遅かれ早かれ判断すべき時がきます。
 でも「とりあえず保留」してきたなら、「できるだけ熟慮した」「できるだけ情報を集めた」と自信を持つことができます。そして少なくとも「その時における最善の選択」ができます。
 最善を尽くしたなら、後悔も少ないでしょう。
 早急に物事を決めつけて「軽率」と言われるより、その方がずっと良いと私は思います。

 というわけで、「とりあえず保留」の勧めでした。

2018年1月1日月曜日

【お知らせ】メールマガジンの試験運用について

新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い致します。
 2018年も、キリスト教会のカルト化と健全性について、有益な記事を発信していけたらと思っています。また今年は、メンタルケアについても書いていきたいですね。
 またもう一つ、


 突然ですが、今月からメールマガジンの試験運用をはじめます。

メールマガジンの試験運用をはじめます

 今月、2018年1月から、当ブログのメールマガジンを発行します。
 と言っても初めての試みですので、とりあえず「試験運用」とさせていただきます。
 内容は手探りしながら固めていこうと考えています。ブログで書けないようなことや、個人的なこと、その他諸々、いろいろな可能性を探りながら書いていくつもりです。

 試験運用なので、当然ながら無料です。
 発行は週1回で、曜日を決めようと思います。
 内容は、初めのうちは毎回ランダムになるかもしれませんが、そのうち固まっていけばいいな、と思っています。少し長い目で見ていただけると嬉しいです。
 試験運用につき、いわゆるメルマガサービスは使いません。だいぶ原始的な感じですが、私が手動でメールをお送りします。
 この試験運用は2018年の3月くらいまでを目安にしています(延長するかもしれません)。その頃、本サービスを始めるか、そのまま終了するか、考えたいと思います。

 この試験運用メルマガに申し込んで下さる方は、いわゆるモニターみたいな存在です。こんな内容が読みたい、こういうことを書いてほしい、こういうコーナーがあったらいいのではないか、などのご意見、ご提案があれば、どんどん出していただければと思います。

 実はここ半年くらい、メールマガジンついて考えていました。どんなものが書けるのか、価値があるのか、とグルグルしていました。でもラチが開かないので、これはもう「やってみるしかない」と思いました。それで「試験運用」という結論に至った次第です。
 皆さんの意見を聴きながら、いや皆さんに協力してもらいながら、良いものを作っていけたらなあと願っています。

 というわけで、いつ辞めてもらっても構いませんので、お気軽にお申し込み下さい。
 申し込みを希望される方は、下記のコメント蘭に、配信を希望されるメールアドレスをご記入下さい(当然ながら非公開とします)。くれぐれも他の記事のコメント欄に投稿されないようご注意下さい。またご不明な点、ご質問等あれば、何でもコメント蘭からお問い合わせ下さい。
 なお登録していただいたメールアドレスは、メルマガの配信以外の用途で使用することはありません。また、外部に漏らすことは決してありません。