2018年1月31日水曜日

クリスチャンって、「什一献金」を捧げるものなの?

什一献金を捧げ続け・・・これで良かったの?

 むかしむかし、ではありませんが、あるところに什一献金を捧げているクリスチャンがいました。
 彼は非常に真面目です。毎月収入のキッチリ十分の一を、教会に捧げていました。子供に何か買ってやる余裕はありませんが、「主が第一」なので仕方ありません。

 ところがある日、失業してしまいました。リストラに遭ったのです。やむなく失業手当をもらうことにしました。でも彼は真面目なので、そこからもキッチリ十分の一を教会に捧げます。そして就職活動をしました。が、これがなかなかうまく行きません。

 失業手当は平均給与の7割ほどですから、生活はカツカツです。というか、回りません。月末になると食費に事欠きました。でも礼拝で献金もしたいです(什一献金とは別に)。だから削れるところを削り、毎日節約です。子供の学校の給食費が払えなくなりましたが、これも「主のため」だから仕方ありません。

  何ヶ月かして再就職にこぎつけました。が、以前ほどの給与はもらえません。生活は苦しいままでした(それでも献金だけは律儀に続けるのでした)。

 そんなこんなで、子供が高校3年生になりました。大学に進学したいと言いだします。でも、そんなお金あるはずありません。そうだ、奨学金を借りればいいんだ! 書類を取り寄せてみましょう。なに? 連帯保証人が必要? しまった、頼む相手がいない。

 教会を優先するため、親とも親戚とも関係を断ってきたからです。友人もいません。再就職したばかりで、頼めるような上司もいません。

  というわけで、子供には大学進学を諦めさせ、就職させました。でも、すべてを神様に捧げてきたのだから、きっと報われるはずです。これで良かったんです。富に仕えず、主のみ仕えるとは、こういうことなんです。ハレルヤ!

  と、いうのは私の作り話なのですが、あながちフィクションでもありません。 似たようなケースを時々見るからです。
  さて、皆さんはこういうの、どう思われるでしょうか。
 信仰者としてあるべき姿でしょうか。それともやり過ぎでしょうか。

什一献金の扱われ方は

 教会に通っている皆さんに質問ですが、「什一献金」をされているでしょうか。

  こう書くと、私が什一献金に反対していると思われるかもしれませんが、別に反対はしていません。「どうしても収入の十分の一を捧げたい」と願う人は、そうしたらいいと思います。誰に迷惑を掛けるわけでもないでしょうから(無自覚的に家族に迷惑を掛けているかもしれませんが)。

  また、教会の運営の携わっておられる方は痛いほどわかると思いますが、什一献金は大切な収入源ですね。他に収益事業があるとか、大きな教団に属しているとか、すごいパトロンを抱えているとかでなければ、信徒の什一献金(+礼拝での献金)がほとんど唯一の収入源のはずだからです。
 まさか教会を潰すわけにも行かないでしょうから、「皆で什一献金しましょう」みたいな話になるのは、当然です。

  では次の質問ですが、その什一献金は「義務」でしょうか。
 あるいは「義務」という言葉でなくても、事実上のルールとなっているでしょうか。
 そしてもし義務になっているのでしたら、その「根拠」は何なのでしょうか。

  もし根拠が聖書からでなく、あくまで教会の独自ルールとして、「うちの会員になったら収入の十分の一を会費として払っていただきます」みたいな取り決めをしているのでしたら、それはそれで結構です。 教会に籍を置くための「会費」であると一律に決めているなら、信徒の皆さんは納得して払っているはずでしょう。それぞれが納得して会員になり、什一を払っているなら、何も問題ありません。

 ですが、もし聖書を根拠にしているとしたら、若干問題ではないかと私は思います。

 たぶん旧約聖書のマラキ書を根拠にしているのでしょう(他にもいくつかあります)。
 けれど、 什一献金はそもそも旧約聖書の概念ですね。イスラエル民族の、共同体としてのルールという側面もありました。
 というのは、12部族のうちレビ族だけは土地を持たず、専ら祭司の役割を担っていたので、他の部族と違って収入源がなかったからです。他の11部族が収入の十分の一をそれぞれ捧げ、それを集めてレビ族の生活費に充てていたわけです(11部族のそれぞれ十分の一だから、ちょど1部族分くらいになるのでしょうね)。

 その制度を現代社会にも適用すべきなのか? というのがここで疑問になります。「働き人を支える為だからいいのだ」という意見もあるでしょうが、じゃあ新約聖書の人たちはどうしていたのですか? ある程度は支えられていたでしょうけれど、それが「収入の十分の一だった」という記述はありませんが?
 むしろパウロが言っているのは、「収入に応じて」「可能なだけ」というニュアンスですよね。

「十分の一を捧げなさい」という命令は、新約聖書のどこにもないのです。
 だから「会費」でなく、「聖書に書いてあるから」という理由で信徒に什一献金を課すのは、微妙なところです。

 もちろん、それを「信仰」として解釈するのは、それぞれの教会の自由です。信徒が払ってくれるなら、課せばいいでしょう。でもその場合、「聖書に収入の十分の一を捧げるように書いてあるから」と言うのでなく、「うちの教会はそう解釈しているから」と言うべきです。でないと、フェアでありません。

信仰というより教会政治

 お金の扱い方は人それぞれ、考え方も人それぞれでしょうけれど、教会に捧げる前に、自分の生活を安定させるのが先だと私は思います。今は先の見えない時代ですから、特に、将来に対する備えが必要ではないでしょうか。

 でもこう言うと、「いや、神様を第一とすべきだ」と言ってマタイの福音書6章33節を持ち出す人がいると思います。
 そういう人に、私は逆に尋ねましょう。
「神様を第一にする」とは、お金を払うことなのですか?
 お金を払わないと、神様を第一にできないのですか?

 お金を必要とするのは神様でなく、教会です。
 前述の通り、什一献金が大事な収入源になっている教会があります。そういうところは今更什一献金を廃止するなんてできないでしょう。だからこれまで通り旧約聖書のマラキ書を開いて、什一の義務性・正当性を訴え続けると思います。でも、それは聖書をよく知らない人にとっては詐欺に近いことだと知っておいて下さい。

 というわけで、什一献金は「信仰」の話というより、実は「教会政治」の話なのですね。
 皆さんは、どう考えるでしょうか。

26 件のコメント:

  1. パウロの第1コリント書を読んでおりますと、献金についてのパウロのジレンマが分かりますね。俺は福音を述べ伝えているのだから、信者から金を貰う権利がある、しかしテント作り?などの副業をやっているから貰わないでおいてやる、ありがたく思え。ペテロは良いなあ、嫁様の分まで信者に生活費を出して貰って、羨ましい。でもおれはパウロみたいに金に汚くないぞ、というような心情がにじみ出ていますね。
    教会を維持していくためには金がいる、どの組織でもそうですが金がなくては成り立たない。私の近くの神社では、氏子は年千円の氏子料と格安ですが、氏子総代となると年10万円程度に加えて、私の友人が総代の時に鳥居を建て替えたので100万円の寄付をした、涙、といっておりました。また別の友人で近くのお寺の檀家総代がありますが、檀家は年額6千円程度で格安だが、檀家総代となると年額軽く10万円を超え、普請があると泣きの涙だと言っておりました。
    また、創価学会で地域のエライサンをしておる友人も、普通の会員なら年数万円ですむが、桁の違う金を出していると言っておりました。
    また、私の家にたまに来る、エホバのかたに十一献金をきくと、きっちり払っていると言っておりました。根拠はやはり、マラキ書でした。
    宗教には金がかかるのは当たり前で、言わば道楽なのです。道楽にどれだけの金を出せるかという問題ですね。

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    1. エホバの証人もマラキ書で什一献金を行っているのですね。知りませんでした。
      関係ありませんがエホバの証人の方々は本当に伝道熱心だと思います。しょっちゅう駅前に立ってますから。そのへんはキリスト教も見習った方がいいのではと思います。

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    2. パウロは、俺はペテロみたいに金に汚くないぞ・・という心情でした。(訂正)私の近くの神社の場合、氏子総代は12人で、毎週のように神社の清掃をはじめとして奉仕活動にでております。年末年始になると徹夜で準備、節分が近づいてきていますのでたいへんですね。お寺の総代も何人もいて、あれこれ雑用をしておりますね。
      いずれにしても、金はかかる、時間もとられる、旅行にも行けないと嘆いておりました。ただし、神社総代は伊勢詣等は義務なので、そういう旅行はできますが。
      エホバの方は女性2人組で訪問されますね。私のような男性が出てくると室内には入らないことになっているそうです。あれこれ教義上のお話をして質問をすると、答えられない事は、後日地区のエライサン(男性)が訪問すると言っておりましたので、電話番号を教え連絡するように言いましたが、いっこうに連絡がないのでほっておきました。
      だいぶして別の方が訪問されたので、同じようなやりとりを行い、連絡を待ちましたが連絡はきません。そんなことを何回か繰り返しました。
      まあ、訪問したという実績作りが大事で、面倒な奴がでてきたら、上部には報告もしない。エホバに入りそうな人なら、エライサンがやってくるというシステムのようですね。
      新世界訳聖書(エホバ用の聖書)を持ち出して質問したので、なぜあなたが市販されていない聖書を持っているのだと、訪問者はそのたびびっくりしておりましたが。(ヤフオクで簡単に手に入ります)
      熱心と言えば熱心ですが、対象者をシステムとして選別して、効率よく入会させる伝道方法を開発しているようですね。ただ、私の家にも訪問だけはしたという実績だけは平会員に課せられたノルマのようですね。
      エホバのエライサンと話をしたいという要望は叶えられそうにありませんね。
      私の所属する教会でも、毎年信徒総会で予算決算の会計報告がきっちりとされますが、献金に関しては論議になるところで、そのたび役員が任意です、強制ではありません、献金はするしないをふくめて一切自由ですというような説明を繰り返しやっておりますね。

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    3. 神社の奉仕活動も大変なのですね。たしかに神社とかお寺とか、いつも綺麗ですから、誰かが掃除しているのだろうとは思っていましたが。

      うちにもエホバの方々が時々やってきますね。おっしゃる通り、女性2人組です。でも話すのが面倒なのでお断りすると、素直に帰って行かれます。たぶん、一応訪問したという事実が大切なのでしょうね。

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  2. ハミリオン2018年1月31日 9:13

    私がかつて通ってた教会では、洗礼受けた人は什一献金マストで、個人に与えられる専用の封筒に入れて献金します。私は洗礼受けずに教会離れたので、そのような義務に巻き込まれずに済みました。
    何かをもらうより与える方が幸せだし、得るものも大きいと礼拝で言われたことがありますが、なんとなくわかるようなわからないような、という感じでした。
    もし生活苦になってる場合、10分の1に拘らずに自分が生活できる範囲を献金していいと思います。今思うのは、なぜ10分の1と定めたのでしょうか?(笑)

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    1. 専用の献金袋を渡される前に教会を離れられて良かったと思います。
      おっしゃる通り、無理に献金は無理してまで払うものではありません。できる範囲でいいと思いますね。
      もちろん、無理して払うのも個人の自由なのですが、それを「聖書のオーダーだから」という理由でするのは間違っていると思います。

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  3. 新約にはこうとも書かれてる。
    イエスに十一を捧げるべきでしょうか?イエスは言われた「あなたの心に決めたとおりに捧げなさい。」
    何度も言わすな十一捧げないとはいわなかったよ。。。。

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    1. 誤 何度も言わすな十一捧げないとはいわなかったよ。。。。
      正 何度も言わすな十一献金捧げなさい とはいわなかったよ。。。。の間違いでした。

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    2. 訂正していただいて良かったです。よく意味がわからなくて困っていましたので笑
      おっしゃる通り、キリストは十分の一とは言っていませんね。

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  4. 創世記14:2 アブラハムはメルキゼデクをとおして持っているものの十分の一を神に捧げ、創世記28:22 ヤコブはラバンに会う前に十分の一を捧げる請願を立てた。

    十分の一を神に捧げることは
    「私のすべてはあなたの物です」という神に対する信仰の表明であって、レビ族を支えるためでも、教会運営のためでもない。

    これが信仰の側面です。

    しかし、レビ族の生活と教会の運営はたしかにその集められたものによって賄われている。

    これが運営の側面です。

    fuminaru kさんの結論は運営の側面のみに焦点を当てていると思います。

    創世記だってモーセが書いたもので、レビ族の生活を支えるために「アブラハムもしていたよ」という話を意図的に挿入したのだと思われるなら、それはご自由ですが、そんな考え方をし始めると何を信じて良いかわからなくなります。

    ですから、運営の側面を出発点にして物事を考え過ぎると、すべてが信じられなくなると思います。

    どちらの側面もわかっていて、それでも教会を支援しようと思って捧げる人、これこそバランスのとれた姿勢だと思います。

    fuminaru kさんもきちんと説明した上で集めているなら、規約にあるなら、詐欺ではないと考えておられるようなので、それはわかっておられるのかもしれません。

    什一献金に反対しているわけでもなく、
    行き過ぎた、狂信的な、
    自分の生活が安定していない人にまで
    要求するなと仰りたいのですね。

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    1. メルキゼデク云々を引っ張ってくる人がいると思ってましたが、やっぱりいましたね笑

      匿名様が言う「信仰の側面」は、匿名様個人の「解釈」ですね。キリスト教全体を代表するかのように断言してはいけませんよ。

      また「バランスのとれた姿勢」云々をおっしゃってますが、匿名様の姿勢もバランスの取れたものではありませんよ。お気づきでないと思いますが。

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    2. キリスト教全体を代表するかのように断言してすみませんでした。

      気づかずにバランスが取れていないと言われてなんだかヒヤッとした気持ちになっております。

      私は十分の一献金をしなくて良いなら、楽で良いなとは思いますが、

      しなくても救われるということと、
      本当にしないのとはまた少し違う気がします。

      また
      捧げる者が「神さまに捧げる」という事と「集められた献金が組織や会堂のために使われる」事は必ずしも矛盾しないと思います。両方の側面を理解した上でするならそれは良い事だと思います。

      メルキゼデクを引っ張り出してきたことを笑って済まされましたが、
      モーセ律法以前からこういう宗教行為がある事は
      「律法からの解放」を言い訳に什一献金をしなくていい議論で、証拠として使うには無効なのでしょうか。

      マラキ書は流石に信者をそれで脅迫してはいけないと思いますけれど。


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    3. メルキゼデクを引用してもしなくても結論は変わりません。だから省いたまでです。
      でも省くと、その点を言ってくる人がいるだろうと思ったので、あーやっぱりいたなと、笑ってしまったわけです。

      匿名様は頑張って什一献金されたらいいと思いますよ。
      べつに匿名様の考え方を変えようなどと思っていません。だから匿名様も、ご自身の正当性を主張するのはその辺でご遠慮下さい。

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    4. すみませんでした。

      私はfuminaru kさんのブログ、いつも読んで参考にさせていただいております。

      私が一員となっている教会は直接関係ないのですが、
      ダビデの幕屋に違和感を持って、このブログにたどり着いて以来、何年か拝読しております。

      什一献金の問題は私自身、自信持って結論が出せないからこそコメントさせていただきました。

      真摯にご返信くださり、ありがとうございました。

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  5. 本題とは全然関係なくてすみません。

    ここまでして献金を払っていた人なのに、教会には連帯保証人をお願いできる人もいなければ、失業中に助けてくれる人もいなかったんですね。

    そちらの方がかわいそうに思いました。

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    1. これは私の作り話なので何とも言えませんが・・・。

      平信徒が生活に困っても、失業中でも、教会として積極的に助けようとはしないと思います。というか、そもそもそういう「仕組み」がないと思います。仮に一人を助けたら、他の人たちも助けなければならなくなりますから、たぶん教会としては難しいでしょうね。
      もちろん、個人が個人を助ける、というケースはあるとは思います。何だかんだ言って善意の人が多いですから、教会は。

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  6. 私は無教会主義です。教会には行きません。洗礼も受けていません。しかし、ささやかながら数人の仲間と聖書研究会をやっております。彼らは皆、福音派の教会で辛い思いをした人々です。

    社会人なので頻繁に集まれるわけではありませんが、時には喫茶店で、時には青空の下で、聖書やお互いの生活の問題について語りあう場になっております。とても充実しており、とても幸せな時間です。

    そんな中で、思うのです。箱ものとしての教会と牧師は本当に必要なものなのか、と。

    もちろん、会衆にとって本当に存続して欲しい教会や牧師ならば、誰が強いなくとも、会衆自身が支えるでしょう。しかし、教会や牧師の存在が会衆にとって多くの負担になるならば、いっそ無くしたほうがよいのではないでしょうか?

    「主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。」エゼキエル書34章

    羊が養わなければならない教会や牧師などありえない。パウロやぺテロは彼らの働きのゆえに、対価として支えられているのであって、羊たちの信任のない牧者を羊たちが支える理由などない。

    牧者は、「まことの羊飼い」であるキリストから羊を預かっている立場で、羊たちは牧者を選ぶ権利がある。牧者が羊を選ぶのではなく、羊が牧者を選ぶのです。羊たちは、羊を自分の所有物と勘違いしている偽物の羊飼いを離れて、「まことの羊飼い」の声に聞き従うでしょう。

    ところで、「神のもの」とは何でしょう?イエスは「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」と言いましたが、「神のもの」とは十分の一のことをを言うのでしょうか?(そう解釈する牧師もいます)

    もし、イエスのところに日本円の紙幣を持っていったらどうでしょう?イエスは何と言うでしょうか?おそらくイエスはこう言うでしょう、「これには日本国と書いてある。日本のものは日本に返せ」と。

    イエスが「神のもの」と言っているのは、お金のことではなく、神の意志を思う人の心でしょう。だからこそ、小銭を捧げた寡婦は誰よりも多くものを神に捧げたのでした。

    お金も含めて、この世のものは何ひとつ神のものにはならない。教会に捧げられた献金は教会や牧師の必要事に支払われて、また誰かの財布へと入ってゆく。それ自体は徹頭徹尾この世のものであって、神のものではない。この世の神殿にすら住みたまわない神は、お金になぞ、なおさら臨みたまわない。なぜ、教会への献金だけが神への恭順を表すことになるのでしょう。神の意志を思うならば、貧しい人(貧しい牧師も含む)たちのために用いるべきではないでしょうか?

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    1. 無教会主義の集会に顔を出すことがあります。式の司会者がいて賛美歌を歌い、説教者(講演者)がいて話を聞く、質問があれば答える、昼食会(持参の弁当)を行い、読書会なども引き続きおこなうというスタイルですね。
      葬式も、集会仲間が行う、墓地も共同購入しており、年一回墓参りを共同で行うというスタイルですね。集会で聖餐式を司会者が行えば、完全な教会スタイルとなりますね。
      ルターが万人祭司説を唱えましたが、実現しているといえますね。
      無教会主義の教会にも世話役が必要でして、維持管理にはそれなりのお金が必要ですね。会員はそれなりの会費負担が必要ですね。

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    2. 追伸・・無教会主義の教会では、洗礼式ができないかと言えばそうではありませんね。例えば、カトリック教会の教会法では、本人が望めば、未受洗者(つまりだれでもよい)が洗礼を施せる。とありますね。
      カトリック教会でもそうですから、だれでも無条件で洗礼が受けられるわけで、洗礼を受けたキリスト教徒になることができるというわけですね。

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    3. OSHIMAさんのその聖書研究会、素敵ですね。私もそういう会があれば参加してみたいです。

      それにしても「羊が牧師を支えるの出ない」という発想には目から鱗でした。たしかに現状、羊たちに支えてもらっている牧師が多いと思います。しかもろくに信任されていない牧師たちが。

      「あなたが植わわるべき教会はここだ」と運命論みたいなことを言って信徒を縛ろうとする牧師がいますが、信徒の方に教会(牧師)を選ぶ権利がある、という当たり前のことがもっと周知される必要があると思いました。

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  7. 私がモデルかな?笑と思える様な小説で、ドキッとしました笑
    ①真面目に笑十一していた
    ②リストラされた
    この2点の経験は合っています笑

    個人的にバプ連盟~OMF~TLCCC~ナザレン~元ブラザレン系福音主義的単立教会
    と言う流れで流された流れ者で笑、現在「断教会」中です。

    十一の事は、所属した教会の当時の情報ですが、所謂NCC系所属のバプ連盟とNFR系所属のナザレンでは、「月約献金(又は月定献金)」袋なる物があり(日本キリスト教団出版局製)、月々の神との約束で決めて金額を記入し、毎月捧げるとされていました。勿論記名しますから、誰が毎月幾らを捧げているのかは会計担当者は知っています。
    しかし何故十一するのか?については、組織運営上必要な経費として捉えている方が大勢で、名目上は神に捧げる、神のために等と言いますが、実際は牧師や家族の生活費、教会維持費、伝道等の費用・・・・・となり、必要経費だからみんなで分担し合う為には、日本のキリスト教信者数からみてそれ位無いとやっていけない、と言う現実もあるかと思います。
    教会員になると、信徒の手帳・信徒必携等の物が渡され、其処には明らかに「社会人として」教会に所属するのだから、十一は義務である事が(或いは努力してそうすべきと)書かれています。組織運営費として実際上どの位必要かを加味して、会員が負担すべき費用のために、その様に規定されている訳です。

    (しかしながら、教会の年次総会等で会計報告の詳細説明や内容を見ると、牧師に掛かる費用は我々一般のサラリーマンからすると、誠に至れり尽くせりの内容で、首を捻る事しきりでした。
    例えばサラリーマンであれば、勿論頂いている給与等の約3倍の経費を雇用主が支払っている現実があり頂く給与から社会保険の費用分担費・税金等が差し引かれて支給されますが、牧師であれば給与は給与。プラス住居費・社会保険費用・水道光熱費・車両費・伝道費・・・・等など別途支給です。税金は??)。

    これが福音主義的な教会やカリスマ系の教会になると、その献金に関する認識はガラリと変わります。

    それはまず「聖書が何といっているか?何処其処にどう書いてあるが?聖書の中で誰がこう言っているのだが・・・」と言う事になり、俄然律法的になって来ます。
    そうするのが当たり前だ、常識だ、当然だ、しないのは神の物を盗んでいるとまで言い出す始末。聖書に書いてあるだろう?!と。

    「教役者を養うのは信徒の責任」とまで!!(現所属の教会牧師曰く)

    けれども、そうした教会では献金袋がなく、誰が幾ら捧げたかは解らない方式の所が大半でした。しかし教会会計は充足されているという笑。

    勿論教団教派とは言え、教会によって違うお金に関する事柄。メンバーであれば相対的に計算をして、実際上の費用捻出が可能でしょう。

    ところで断教会している今だからかも知れませんが、言える事。

    はっきり言います。聖書で十一(献金)を命じている箇所はありません。
    何方がどの様な教説を引っ張り出して来ても、無駄です。
    旧約にあるでしょうと言う方も居られるかも知れませんが、あれは農産物の事で、お金ではありません。そして書かれたであろう当時の税金の事であり、それも「福祉目的税」の事です。
    それは、生活に困窮している人達のための物。

    言い方を換えれば、我々日本人であるならば、国家・地方公共団体に既に、何らかの税金を納めており、それ以上の物を何処かに収める必要や謂れは全くありません。

    新約の事は言わずもがな。

    昨今のカルト化したと言われる教会の詐欺性・異常性を正す為にも、その詐欺と言える聖書を使った呪縛から、監獄の中から早く脱出して欲しいと思う気持ちからも、宗教詐欺師を無くしてしまいたいと思う気持ちからも、是非冷静になって欲しいと思うのです。



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    1. 「教役者を養うのは信徒の責任」というのはとんでもない暴論ですね。
      養われるに値する仕事してるんですか? と聞きたくなってしまいました笑
      むしろ牧師が信徒に養われてますよね、何だかんだ言って。

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    2. マリックさん、どうも初めまして。
      コインチェックのトピックで2月2日19:19にコメントした者です。
      見たら、福音派ばかり回られたのですね。お疲れ様でした。
      今後の人生、ぜひともゆっくりやってください。

      ナザレンにも行かれたのなら、Manualのことはご存知でしたか?
      知らなくても仕方はないのですが、外国に本部があって日本語が共通語でないのも不便ですよね。

      さて、書類の山をひっくり返してたら、
      2012年10月の日本ナザレン第8回全国壮年大会を報じる、
      連合壮年会会報第109号が出てきました。
      3ページ掲載の「第8回全国壮年大会宣言」のなかで、
      「連合壮年会宣教プロジェクト11」の実行が宣言されてまして、

      その11項目に「十一献金を励行する」というのがあったのです。

      そして4年後の2016年10月に、第9回全国壮年大会が行われたようですが、
      成果をどう評価されたか、あるいはなにもなかったのか、
      ナザレン教団のサイトにはありませんでした。

      あまり気にすることでもないのですがね。
      教会員のマインド、特に壮年会員のそれがどうなったのか、

      考えるだけ野暮でしょうか。

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    3. fuminaru k様
      数年前の教会総会の場でしたが、とても穏やかな、優しさに溢れた様な牧師の口から出る言葉に、唖然としました。
      献金についての疑問を投げかけた訳ですが、例の如くマラキ書にメルキゼデクがなんちゃら、ヤコブがかんチャラと。
      では新約では何一つ・・・と言えば、それは献金の事と言うよりも募金の事で・・・等と取り付く島もないので、諦めました。
      流石にその時は声も大きくなり、若干感情的になられていた様ですが。

      匿名様
      こちらこそ、初めまして。

      ナザレンには2001年から2009年頃迄所属していました。

      壮年会長もさせて頂きましたが、もう数十年居られる牧師がワンマンで、子供みたいな所があり、当時グループホーム事業を始めた頃で、教団からも監査が入って、また丁度その頃ある信徒が奥さんを牧師に寝盗られた(しかしこれはその方の誤解と思われます)と言う騒ぎを起こして、教団はもとより市内の牧師会にも文章を送り付けて騒ぎ立て、相当なダメージがあって疑惑の商社の様に。
      元々関西出身の人なので商売っ気があり、何でもかんでも高価な買い物を、教会員な計る事なく駐車場の土地を買い付けたり等など。
      ですから監査が来られた時も同席しましたが、本当に子供みたいな感じでした。
      いちいち総会に掛けたり、教団の稟議を待ってたら何も進まない!と。
      これは駄目だな。
      そして十一ですよ。
      捧げない人は神の物を盗んでいると書いてある。
      まあ教団でも異色の人でした。今は長男が後継ぎとしてやってますよ。

      削除
    4. マリックさん

      早速のレス感謝いたします。
      その教会のサイトに伺いました。
      確かに、でかくて、いろいろやってますね。
      しかし、インターナショナルスクールなんて、
      地域の小学生とか入りたがったら、どうするのですかねぇ。
      それとも、日本人は入れないのかしらん。
      でも、それだけいろいろしてたら、確かに一割献金欲しくなるかもですね。

      削除
    5. 匿名様

      よくお分かりになりました。

      確かにその教会ですね。

      そのインターナショナルスクールは、この度韓国のオリンピックに出場もされる、ある競技の女性選手の出身校です。
      多分このヒントでお分かりになる筈です。

      ノンクリスチャンでもOK。
      スタート時点ではチャーチスクールでしたが。我が家も子供たちを入れた時期がありました。

      まあスクールや老人下宿、グループホームに限らず、本家の方でもアーサーホーランドさんや小坂忠さん(まあこの方は市内のライブハウスに来る事もありますから)、他都市のカリスマ系の教会とも交流しており往き来してますし、あっちのリバイバルこっちのリバイバルと、年中お祭り気分ですね。

      お金は掛かりますね。

      あ、あまりぺらぺらと喋りますと、素性がバレますので、この辺で失礼させて頂きます。
      関係者が見ないとも限りませんので(笑)

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