信仰という名の地獄

2025年2月21日金曜日

キリスト教信仰

t f B! P L

 牧師からある奉仕を頼まれたけれど、専門職から見て到底不可能だったので「これこれの理由で現実的でありません」と答えた。すると「やってもないのにできないと言うな!」と怒られ、「これが進まなくて神の働きが滞ったら責任とれるのか?」と脅された。このように聖書の言葉は脅迫に転用できるものが多く、カルト支配と相性が良い。

 しかし当時の私にそんな知識はなく、「神の働きを滞らせてしまう」という罪責感に追い詰められて、不可能だと分かっていたけれどその奉仕に着手した。結果、やはり不可能だった。牧師がどれだけ激昂するだろう? とビクビクしていたけれど、驚いたことに何の反応もない。まるでそんな奉仕など、最初から存在しなかったかように。「神の働き」はどこに行ったのか。

 牧師に異論を唱えると、聖書の言葉できつく反論されることが多かった。例えば「できない」と言うとピリピ4章13節が飛んでくる。「これ以上献金できない」と言うとコリント第二の8章で刺される。「これこれで困っています」と言うとマタイ7章7節と共に突き放される。万事がそんな具合。神様に逆らうことになってしまうので、真面目な信徒ほど反論できない(なんといっても聖書の言葉なのだから)。

 個人的には、「この奉仕が上手く行かなかったら神の働きを妨げることになってしまう」が最も強烈な脅迫だった。そんな重すぎる責任は負えない。だから奉仕を頑張るしかなかった。幾晩も寝ないで作業し、休日の業者に押しかけて納品を急がせ、ほとんど偽造レベルの書類を作って申請に出した。完全に善悪の判断が付かなくなっていた。

 そうやって罪悪感を抱かせ、言いなりにさせるのがカルトの手法だと今なら分かる。長いこと苦しめられたけれど、抜け出せたのがせめてもの「救い」だ。そう、私の教会に「救い」はなかった。信仰という名の地獄がそこにあった。

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