以前、どこにでも「押し付け」は存在すると書いた。今回は、特にクリスチャンが遭遇する「押し付け」について書いてみたい。
ちなみにこの「押し付け」とは、本来なら個人の自由意思に任せられるべき事柄が、教理や教典を巧みに利用されて事実上強制されることを指している。
■感謝しているなら伝道(奉仕)しろ
未信者の方が教会の門を叩くキッカケというのは、キリスト教に関心があってというより、むしろ何か困りごとがあってという方が多いように思う。実際そういうケースを多く見たし、「キリスト教って何ですか」と能天気にやってくる人は見たことがない。
だから教会を訪れた未信者の方がクリスチャンになるケースのうち、「何らかの困りごとが、何らかの形で解決され、感謝して入信した」みたいな人は少なくないと思う。
実際そういう人がいて、教会の皆から「良かったですね」と励まされるのが普通なのだけれど、中にはそういう人に向かって「主がして下さったその御業を言い広めるべきでしょう」と、あからさまに伝道を強要する人がいる。その人が感謝しているのは事実だし、伝道することが主の命令として聖書に書かれているのも事実だけれど、伝道というのはそういう風に強制されてするものでもないと思う。
またこの理屈は伝道に限らず、あらゆる奉仕に当てはまる。「感謝しているなら○○くらいすべきだろう」という風に。
■慈善活動はクリスチャンの倫理として当然だ
例えば大地震の被災地とか、海外の貧困地域とか、そういうところに教会やキリスト教団体が出て行って慈善活動をすることがある。そういう活動こそがクリスチャンらしいと、一般的に思われるかもしれない。マザーテレサのそれは有名だろう。
実際、東日本大震災の時は、教会のみならず多くの団体や個人が何らかのボランティア活動をしたことと思う。直接現地に行けなくても、義援金とか支援物資とかを提供した人も多いはずだ。そういう活動は、(たとえ営利活動が含まれるにしても)その根底にあるのは自己犠牲的な善意だと思う。だからこそ、クリスチャンらしい活動なのだ。
しかしある教会のそういう慈善活動をみてみると、若干疑問を覚える。そこは教会を挙げて、大人も子どもも休みなくある慈善活動に従事していた。もちろん各人の動機として最も大きかったのは、「何かできることがあるならしたい」という純粋なボランティア精神だったのは間違いない。
けれどそこに同時に存在していたのは、「やらねば何を言われるかわからない」とか「クリスチャンなら当然やるべきだ」とかいう強迫的な責任感だったと思う。皆一生懸命だったから気づかなかったかもしれないが、そこには「やらない」という選択肢はなかったように思う。
実際、ある人が「この仕事は自分には向いていないと思う」みたいなことを言った時、「〇〇さんは不得手なことも一生懸命やっているのにお前は何言ってんだ」と一喝されていた。
■これが信仰だ、それは信仰じゃない
最大限の効果を引き出すのが信仰だ、というリーダーがいる。彼らからすると、例えば最大限の値引きをして購入できるのが信仰だ、最大限に納期を早められるのが信仰だ、最大限に良いものを作れるのが信仰だ、ということになる。目に見えない信仰のバロメータは、実際の仕事の成果として表れる、という訳だ。私も奉仕の結果について、「不信仰だ」とはっきり言われたことがある。
以上に挙げた伝道にしても慈善活動にしても仕事で成果を上げることにしても、それら自体は悪いものではない。むしろ良いものだ。そしてクリスチャン個人が、自らの自由意思においてある程度高いハードルを設定し、それに向けてひたむきに努力する分には何ら問題ない。問題はそれが強要され、しかも聖書や神を持ち出されて正当化されることにある。
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