職場にも教会にもどこにも存在する「押し付け」について思うこと

2013年12月4日水曜日

生き方について思うこと

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 選べる選べないは別として、働き方はいろいろある。
 常勤か非常勤かという違いもあるし、そうでなく独立という道もある。そういう枠組みの中にもいろいろ違いがある。たとえば同じ常勤でも、勤め先に対するコミットの度合いは皆一律ではない。仕事人間もいれば、できるだけ働きたくないという人もいる。

 そういうのはいろいろあっていいと思う。価値観は皆違う。けれど実際のところ、個々の価値観ややり方が尊重される職場というのは少ないだろうと思う。むしろ多くの職場で、一方的な「押し付け」みたいなことがあると思う。

 たとえば職場に対するコミットが半端でない上司が、自分と同じだけのコミットを部下に要求するというのがある。休日でも出勤したとか、何日か泊まり込んで働き続けたとか、そういう無茶苦茶な働き方を武勇伝のように語り、「これくらい当然だよ」と言い切ってしまう。実際にそういう人が、そこまでコミットできない人に対して「おまえは常勤にふさわしくない。パートに転向しろ」と半ば脅しているのを見たことがある。

 そういう無茶な働き方を個人の好みとして選択するのは自由かもしれないが、それを当たり前のように他者に押し付けていいものだろうか。全ての人間を自分の尺度に合わせて考えるのは、幼い子供のすることだろう。
 それにそういう人間にしたってコミットの限界はあるはずで、たとえば半年間給料なしで我慢しろとか言われたら、さすがに異を唱えるのではないか。

 だから大きくコミットできる人間もそうでない人間も、単にその限界のラインが違っているだけのことだと思う。それでそのラインを越えて我慢しろと言う権利は、いったい誰にあるのだろうか。

 同じような「押し付け」はクリスチャンの世界にもある。
 たとえば教会のリーダーが、「神様の為なんだからこれくらいの奉仕の大変さは忍耐すべきだ」と言うこと。犯した罪が発覚したリーダーが、「聖書は許しを命じているのだから、あなたがたは私を許すべきだ」と言うこと。神学的議論の果てに、「あなたに必要なのは寛容さだ」と言うこと。
 これらはほんの一例だけれど、「忍耐」も「許し」も「寛容」も聖書が言っていることで、クリスチャンが備えるべき資質とされている。だからそうであるべきだろう。しかしそれは自分が得ようと努力するものであって、他人に要求するものではない。
 要求された方も、それが神様からのオーダーであるのはわかっているから、反論するのも憚られる。そういう心理をついて、「聖書はこう言っている」「あなたはこうすべきだ」と追及するのは御言葉攻めみたいなことで、私はそれは卑怯だと思う。

 職場のことに話を戻すけれど、やはり自分なりの働き方を貫くのは、特に若い人には大変だろうと思う。おそらく長い期間、様々な「押し付け」に耐えなければならない。でもそういうことで潰されていくのでなく、また後輩たちに八つ当たりするのでもなく、自分の信念を内に秘めて働き続けるというのは、一つのカッコいい形だろうと私は思う。

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