助けるに値する人、値しない人という区別の存在。教会の慈善活動について。

2013年12月10日火曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

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 教会で何度か、見知らぬ訪問者にお金を無心されたことがある。
 どこそこの駅まで行きたいから電車賃をくれとか、何日も食べてないから小銭でいいからくれとか、彼らにはそれぞれ事情があった。そしてそういう訪問者にだいたい共通するのは、身なりが不衛生であったり、アルコール臭がしたり、というようなことだった。

私はそういう場合はわずかでも(ポケットマネーからでも)お金を渡すことが、クリスチャンとしてあるべき姿だという気がしていた。困っている人に手を差し伸べるのもキリストの教えだと思う。

 しかしある牧師によると、そんなものは慈善活動ではないという。そういう輩はお金をもらうとすぐに酒やタバコやギャンブルにつぎ込んでしまうから、やっても無駄だ、やらない方が彼らの為だ、という理屈だった。
 なるほど、一理あると私は思った。

 もちろん、そういう人たちがお金を得たら必ず酒やタバコに走るという訳ではない。本当に純粋に困っていて、わずかなお金が彼らを救うことになるかもしれない。
 しかし同時に言えるのは、彼らの話がまったくの茶番で、教会の善意を利用しているに過ぎないかもしれないということだ。その真偽は、教会の玄関先で話しているだけではわからないだろう。
 そして彼らの不衛生な身なりや酒臭さは、その牧師の言い分を正当化するのに十分に思える。つまりお金を渡しても何もならない、ということだ。

 しかし、問題はそんなに単純ではないと思う。

 例えば話を大きくしてみて、マザーテレサがインドで開いた児童養護施設について考えてみる。そこではもちろん、多くの身寄りのない子どもたちが助けられ、将来と希望を与えられたことと思う。それが良い活動であるのは間違いない。
 けれど仮に、酷い例えではあるけれど、その施設で育った子が将来極悪な犯罪者になったとしたらどうだろうか。彼を助けるべきではなかった、無駄だった、ということになるだろうか。その為に児童養護施設そのものを閉鎖した方がいいということになるだろうか。あるいはそこまで極端でなくても、一定の基準を設けて助ける子、助けない子を判別すべきというようなことになるだろうか。

 これは、教会に小銭を無心にきた訪問者が、もらったお金で酒を買って酔っ払っただけだった、というのと基本的に変わらないと思う。クリスチャンの善意が報われなかった、という訳だ。
 では、だからクリスチャンは慈善活動などするべきでない、という話になるだろうか。これはなかなか難しい問題だろう。

 私自身に何かの答えがある訳ではないけれど、一つ気になることがある。
 そういう訪問者にお金をやらない牧師は、一方で大規模な慈善活動をしていた。震災後の被災地支援など、非常に積極的に、大規模に、そして多くの信徒を使って活動していた。彼に言わせれば、被災地の人々は本当に助けが必要で、教会に小銭をせびりに来た人たちとは格が違う、ということかもしれない(もちろん被災地の方々の必要が大きいのは間違いない)。つまり助けるに値する人と、値しない人がいるということだ。
 しかし大々的な活動の場では「魂の救いのために」と熱弁する一方で、誰も見ていない教会の玄関先では訪問者に「帰れ」と言い放つのは、何だか矛盾しているような気がしてならない。
 果たして、そのどちらが真の姿なのだろうか。

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