「御霊の流れに従う」ことは、誰に従うことなのか

2013年12月8日日曜日

キリスト教信仰

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礼拝奉仕者にとって、礼拝の流れとか段取りとかは一番気を遣うところではないかと思う。司会やら賛美奉仕やらアナウンスやら説教やら、それぞれいろいろ準備することはあるし、それぞれがスムースにつながって運ばれるべきだからだ。うまくつながらなくてグダグダしてしまうのは、あまり良いこととは言えないだろう。

それは一つには、日本人の気質もあるかと思う。テレビ放送にしても電車のダイヤにしても、日本のキッチリさは世界的にもトップクラスだと聞いたことがある。例えばテレビ画面に「しばらくお待ち下さい」が表示されるのは、海外ではけっこう普通のことらしいけれど、日本だと何かの緊急事態かと思われる。
だから礼拝においても、間が空いてしまうというのは、どちらかというと「失敗」に分類されるのではないかと思う。

またもう一つには、昨今の「メガチャーチ」らの影響があると思う。例えば Hillsong Australia の賛美集会など見ると、運営面も演出面も相当レベルが高いと思う。毎回工夫されたオープニングに始まり、賛美も証も流れるように進行していく。まったく無駄がなく、かなりの準備と練習があったのではないかと想像できる。
もっとも、それが礼拝として良いか悪いかはまた別問題ではあるが。

有名アーティストのライブとか有名劇団の舞台などでも、大変ハイクオリティな進行や演出を見ることができる。どれも最後には、大変な感動をもって幕を閉じる。見たことがある人にはわかるだろう(そういう一般のステージの感動と、賛美集会の感動とがどう違うのか、クリスチャンの方にはよく検証してほしいと私は常々思っている)。

ともあれ、そういう「流れるような進行」の礼拝の良し悪しには議論があるだろうけれど、そうでなければならないと思っている教会(あるいはクリスチャン)があるとしたら、それは若干問題があると私は思っている。

そういう演出面を気にする教会(あるいはリーダー)は、奉仕者の失敗を許すことができない。誰かのミスで礼拝が少しでも滞ってしまうと、「御霊の流れが止められた」とか言って、厳しく叱ったりする。
例えば照明のタイミングはこうとか、賛美の展開はこうとか、メッセンジャーの登場時にはこうするとか、この合図でこのBGMを流すとか、証をする信徒には何分以内に終わらせろとか、非常に細かい指示が出されていて、それらが全て完璧に為されなければならない、とされる。それが「御霊の流れに従う」ことであって、それに失敗することは礼拝そのものを壊すことだ、くらいに言われる。だから奉仕者は、何としても失敗を避けなければならない

そういう風にして捧げられた礼拝というのが、本当に神様への礼拝になるのかどうかは考えなければならないだろう。もし奉仕者が礼拝中、極度に緊張しながら自分の出番を待っていて、出番になったら練習の成果が十分に発揮できるように努力しつつ奉仕し、無事に終わったらやっと安心できて放心状態になる、としたら、それは神様と何の関係があるのだろうか。私にはよくわからない。

それが例えば劇団の舞台であるなら、当然の努力であろう。お金を払って見にきた観客に対する責任と言える。しかし無償の、しかも自ら喜んで捧げる礼拝においてそういう重圧を受けなければならないとしたら、いったい誰が礼拝などするだろうか。

そういうのは結局のところ「演出」であって、見る人に感動を与えたいだけのことだろう。その為に奉仕者をこき使い、叱責するとしたら、そういうリーダーはどれだけの祝福を受けるのだろうか。私には大いに疑問である。

「御霊の流れに従う」ことがリーダーの指示する「演出」に従うことなのかどうかは、各人でよくよく考えるべきだろうと私は思う。

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