キリスト教の、特に礼拝の場でだと思われるが、不思議な現象を目撃したという話を時々聞く。例えば金粉が降ってきたとか、天使の声が聞こえたとか、電子楽器が性能的にあり得ない音を出したとか、天使の羽が降ってきたとかがある。私はそういう現象を否定する気はないし、本当かどうかと疑う気もない。それよりも問いたいのは、だから何なのですか、ということだけだ。
そういう現象は確かにすごいことだろうけれど、べつにそういう体験がしたくて礼拝する訳ではないし、礼拝の目的がそういう体験にあるのでもない。そういう体験をしたから「霊的」だとか、信仰が成熟しているとかいう訳でもない。
また、その体験が何かの保障になる訳でもない。極端な話、たとえば金粉が降った礼拝の後に、罪を犯すことがあるかもしれない。そういう体験をして一時的に喜んだとして、結局何ら変わらない日常に戻るとしたら、その体験はべつにあってもなくても良かったということになるのではないか。
それに、神様がそういう体験をさせて下さったとして、その目的は何なのだろうか。神様はもしかしたら信仰の弱い人を励まして助ける為に、そういう体験をさせて下さったのかもしれない。もしそうだとしたら、そういう体験をしたと喜んでいるのも何かおかしい気がする。
そういうのは「体験重視型の信仰」と言うべきかもしれない。べつにそれが悪いと言うつもりはない。けれど、体験がなければ不信仰だみたいな話になるとしたら、それは私は違うと思う。
しかしながら、体験はわかりやすいし、魅力的でもあると思う。例えば礼拝中にどこからともなく金粉が降ってきたら、確かに神様が働かれていると思うだろうし、何かすごいことが起こっていると思うだろう。特に未信者とか、クリスチャンになったばかりの人からすると明確な「しるし」みたいに思えるかもしれない。それで教会に集うようになったとしたら、それはそれで良かったと言うべきかもしれない。
けれど同時に言えるのは、体験から信仰に入った人は、やはり体験を求めてしまいやすいということだ。それはそれでバランスが悪いような気がする。
もうすぐクリスマスということで、どこの教会もいろいろ忙しいだろうと思う。未信者の方に沢山来てもらおうと、特別な集会を計画しているかもしれない。是非、無理しないでがんばってほしいと思う。けれど、そういう不思議体験とか感動話とかを前面に押し出してアピールするとしたら、それはいかがなものかと私は陰ながら思っている。
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