本物とニセモノの混在

2013年6月12日水曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 教会問題、特にMの暴走についてずっと書いている。
 書きながら時々、なぜ放置していたんだろう、なぜ声を出さなかったんだろうと、自問することがある。そういうようなことを言ってくる人もいる。

 確かに今にしてみれば、Mのこれもおかしい、あれもおかしい、ということばかりが思い浮かぶ。だがその当時の自分が、Mの暴走を暴走として正しく認識していたかというと、そうではなかったように思う。
 それを認識できた人はMによって早々に追放されていたから、結果的に、私のように認識できなかった人ばかりが、Mの周りにいたことになる。だから、あのような事件にまで発展してしまったのではないだろうか。

 問題は、本物とニセモノの混在にあったと思う。

 2010年以前、礼拝など公の場でのMの発言には、特段の問題はなかったように思う。というより、真っ当なことを言っていたと思う。個人的にも良くしてもらったことばかりが思い出される。

 が、ミーティングや集会の準備や何かの時に、Mはビックリするほど激怒したり、強引だったりすることがあった。その姿だけをずっと見ていたら、なんてひどいヤツだと思っただろう。が、それはいつも一時的で、普段はそんな素振りはなかった。逆に親切で思慮深く、よくそこまで人のことを考えられるなと感心する程、人を大切に扱っていた。驚かれるかもしれないが、これは事実だ。

 だから、Mが時折見せる鬼の形相にも、何か訳があるのではと私には思えた。素直に是認することはできなかったけれど、怒るのも愛情なのかもしれない、ここまでする必要があるのかもしれない、その人の為なのかもしれない、と肯定するのが、正しいように思えた。どこかに、拭えない疑問は残ったけれど。

 9割は、正しく思える。
 残り1割は、肯定すべきか否定すべきか判別しかねる。
 しかし9割の正しさを思うと、その1割を否定する自分の方に問題があるように思える

 感覚的には、そんなことだったと思う。

 生きたカエルを煮るという例え話がある。
 水を張った鍋に、カエルを入れる。鍋に火をかけても、カエルはすいすい泳いでいる。徐々に水温が上がっていくが、カエルは気づかない。最終的にどうなるかと言うと、沸騰した湯の中でカエルは煮物になってしまう。
「なぜ逃げなかったんだ」とある人は言うかもしれない。が、もし煮物になったカエルがしゃべれるとしたら、「いつの間にか熱くなっていた。まったくわからなかった」と言うかもしれない。
 この例えが本当かどうかわからないが、私には真実だ。私自身がそのカエルだからだ。

 本物とニセモノが混在していて、だんだんニセモノが増えていく

 もちろん完璧な教会も組織もコミュニティもない。みなどこかに問題を抱えている。この混在はどこにでもある。
 が、そのニセモノを見逃して拡大させるか、発見して対処するかは、そのコミュニティの真価が問われるところだと思う。

 私はニセモノを発見できなかった。
 徐々に熱くなっていく鍋の中、その変化を見抜くにはどうしたら良いか、まだ私には答えがない。

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