「実」として現れるもの

2013年7月1日月曜日

キリスト教問題

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 その人の本性とか正体とかいうものは、遅かれ早かれ、表面化するものだ。
 それは聖書が「実で判断しなさい」と教えている通り、良い木は良い実を、悪い木は悪い実を最終的に結ぶということだと思う。

 ある牧師を見ると、それが真理だと実感する。彼の牧会を十数年見てきたが、その問題点が顕在化したのは最後の数年間の話だからだ。

 最近書いている「按手の祈りで人が倒れる」のを例にすると、その牧師は最後の数年間、按手の時に人を「押す」ようになっていた。明らかに倒そうとしていて、以前と違うなと感じたのを覚えている。

 他に顕著だったのは、異性の信徒の扱い方だ。牧師は私が出会った頃は「異性とは適切な距離を取るように」と皆に注意していて、時々自分自身のことも反省しているようだった。女性信徒のカウンセリングをする時はドアを開けておくとか、夫人を同席させるとか、配慮していたのを覚えている。

 が、それも大きく変わっていった。

 東日本大震災の復興支援活動が忙しくなると、牧師は「秘書が必要だ」と言い出した。てっきり夫人を秘書にするのかと思っていたが、選んだのは女性の信徒だった。「彼女の適性を伸ばすべきだ」というような理由だったと思う。
 若い女性を秘書にすること自体は問題ではないだろう。けれど牧師が、夫人でない若い女性を連れて方々へ出張に回るというのは、どうにも不自然に思えた。

 私がその件で特に疑問を持ったのは、牧師とその秘書が2人きりで、出張に出た夜だった。何日間かの出張だったから、当然2人で寝泊まりすることになる。それは普通の会社なら許されるかもしれないが、キリスト教会の牧師にはふさわしいとは言えないと思った。

 それを数年前の牧師自身が見たなら、「誘惑になるからやめるように」とか言ったはずだ。

 結果的に牧師は問題を起こしてしまったのだが、その兆候は、そういう「実」として現れていたのだと思う。
 が、それも今だからわかることで、「何故止めなかった」と責められても、謝るしかない。

 その牧師が何故そうなってしまったのかわからない。自分だけは大丈夫だと油断していたのかもしれない。あるいは確信犯だったかもしれない。

 かつて彼が正しいことをしようと努めていたことを、私は知っている。だからこんなことになってしまって、本当に残念だ。彼が今どこで何をしているのか知らないが、「どんな状況からでももう一度やり直せる」と伝えることができればと思う。
 それはかつて牧師自身が言った言葉だ。

「実を見て判断する」というのは大切な真理だと思う。その人が何を言うか、何をするかを短期間で判断するのでなく、その結果どうなったかを見極めるべきだと思う。

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