それって教会に仕えてるって言えるの?

2013年7月14日日曜日

キリスト教問題

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ある教会で長く仕えている知り合いがいる。その人とは超教派の集会等で時々顔を合わせるが、変わらず教会で仕えているようだ。それはそれで立派なことだと思う。

その教会には数回行ったことがある。その知り合いは礼拝の前も最中も後も、いろいろ奉仕で忙しそうだった。非常に献身的と言える。

ゆっくり座って礼拝のメッセージを聞いたことがありますか、とその人に聞いたことがある。「ほとんどない」との答えだった。その人いわく、「黙って座っていると眠ってしまうから、何かしていた方がいい」そうだ。
その気持ちはよくわかる。が、何か腑に落ちないものを感じた。

礼拝とは何だろうか。
私が思うに礼拝とは「神様に栄光を帰すこと」だが、それだと抽象的過ぎる。わかりやすい行為としては、賛美を歌うこと、祈ることとかがあるだろう。その中で「メッセージを聞く」というのは受動的で、礼拝っぽくないような気もする。が、「神の御心を聞く」という意味で立派な礼拝だろうと私は思っている。

自分の願いを神に祈るというのは、コミュニケーションで言えば半分だろう。もう半分は、その答えを聞くことにある。それは礼拝でメッセージを聞くということでもあるだろう。

何もしないで話を聞くというのは、勤勉な日本人からしたら後ろめたく感じることかもしれない。が、そうやって自分のああしたいこうしたいを一旦止めて、神が言われることに耳を傾ける時間を持つというのは、むしろ受動的でなく能動的であると私は思う。

もちろんそれは、語る牧師が心を尽くして神の御心を求めている、ということが大前提になる。

その神の御心を聞く時間に居眠りするというのは、私もさんざん経験がある。今日は眠らないぞと決心したことが何度あったかわからない。
また、礼拝中に奉仕があれば居眠りしないで済む、というのもよく知っている。
だから何も偉そうに言えないのだが、やはりそれは本末転倒というものだ。奉仕優先というか、奉仕さえしていればいいとか、そうやって何かしている自分に満足しているだけだと思う。また、自分は他の人より仕えている、自分はこの教会に必要だ、という優越感や差別意識もそこにはあるだろう。

それは本当の意味で教会に仕えていることにはならない。ただ自分の満足感・安心感に仕えているだけだ

教会の奉仕で忙しい人は、ぜひその辺のことを一度考えてみたらどうかと思う。また奉仕で忙しくない人で、メッセージ中によく落ちてしまうという人も、同様に考えてみることをお勧めする。
私などに言われたくはないだろうが。

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