実は観たかった訳でなく、たまたま劇場に行き、その場で選んだ。
だからあまり期待していなかったけれど、とても良かった。「玻璃の浦」(実際には伊豆)の海中の美しさを大画面で堪能できたし、湯川学と少年・恭平のひと夏の友情みたいなものが眩しかった。推理モノとしてはイマイチかもしれないが、元々そういう友情とか家族愛とかに重点が置かれているようだった。
若干ネタバレになるが、真犯人をかばい続ける人が複数いて、結局のところ真相は明るみにならない。湯川があえてそれを追及しなかったというのもある。
この映画のテーマは、そこにあるような気がする。つまり「司法で裁ききれない罪はどうなるのか」ということだ。ドフトエフスキーの「罪と罰」に似ている。
裁ききれないという点で、キリスト教社会の諸問題を想起した。
クリスチャンならではの「許し」の概念は、一般社会では理解し難いものかもしれない。
イエス・キリストが十字架で、全人類(私)の罪の罰を、代わりに受けて下さった。だからそのイエス・キリストを信じる人は、すでに罪を許されている、というのが福音だ。クリスチャンどうしであれば、その共通理解があるゆえ、互いに許し合うのはある意味自然なことだ。逆に人を許さないことは罪と指摘されかねない。
それはそれで間違っていないだろうし、「許される」ことはあらゆる人にとって必要であろう。許されることで、癒される人もいる。
が、問題は「何でもかんでも許さなければならない」という誤解が蔓延することと、教会内の諸問題が法的に裁かれにくい種類のものだということだ。
例えばMにある奉仕を課せられ、それがうまくできないと罵声を浴びせられ、何時間でも何日でも働かせられる。が、そこには労務契約などないし、本人も「神からの使命・試練」と信じているところがあるから、疑問はあっても我慢してしまう。外部の人間がそこに介入しようにも、Mに言わせると「これも訓練」「本人のため」「神のため」「本人の意志であって無理強いなどしていない」ということになり、どうにもならない。
それは教会というベールで覆われた虐待だ。法の手が入らないという巧妙さを持っている。
これは司法では裁ききれない罪だと私は思う。一歩進んで暴力沙汰とかになれば別だが、その一歩手前の状態だから司法は入れない。それに被害者も完全な被害とは思っていない。
指導者たちはそれを知っていて、同じことを繰り返す。
「真夏の方程式」の真犯人は、家族のために人を殺した。そしてその家族は真犯人をかばい、罪を被り、秘密を守り続けた。殺人も偽証も隠蔽も決して褒められたものではないが、その動機となった家族愛は理解できる。
が、教会内で確信犯的に虐待を続けるリーダーたちの動機は、そんな崇高な愛ではない。彼らの動機が何なのか……考えたくもない。