すべき忍耐、すべきでない忍耐

2013年7月10日水曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 いろんな教会を渡り歩くクリスチャンがいる。
 一所にとどまらず、転勤等のやむを得ない事情があってのことでもなく、何ヶ月とか何年とかで通う教会を変える。その間もいろいろな教会の特別集会などに顔を出している。

 その目的はいろいろだろう。たくさんのクリスチャンと交流したいとか、自分に合った教会を見つけたいとか。中には「自分でもよくわからないけれど導かれた」と言う人もいる。

 私は基本的に、そうやって教会を転々とすることに否定的だ。
 一つの教会の教会員になって、落ち着いた教会生活を一生涯貫くのが理想的だと思っている。Mの問題が発覚して教会が解散する前まで、私自身そのようにしていた。Mに対する葛藤はたくさんあったけれど、教会を変えようなどとは少しも考えていなかった。逆に一生を過ごす教会だと思っていた。

 べつに聖書に書いてある訳ではないけれど、何事も「継続」が大切だと私は思っている。
 短期間経験しただけで何かを「知った」と言うべきでないし、良し悪しを判断すべきでもない。部活も習い事も職場も、簡単に諦めたり見限ったりしてしまうのはもったいないと私は思う。最近流行りのブラック企業とかブラック研究室とかなら別かもしれないが、何でも短期間では見えないものがたくさんあるし、それらをしっかり見極めてからでも判断するのは遅くない気がする。それに、継続することで経験する葛藤とか苦労とか忍耐とかは、案外人間にとって必要なものだ

 教会にも、基本的に同じことが言えると思う。
 が、ブラック企業ならぬ「ブラック教会」だと、話はまったく違う。

 
 ブラック企業が健全化できるかどうかわからないが、もしできるとしても、相当な困難があるだろう。たくさんの変革を通る必要があると思う。
 教会もそれと同じだと思うが、ブラック教会が健全化するのはほとんど不可能に近いのではないかと私は思ってしまう。教会関係の疑問符だらけのリーダーたちの頑なさといったら、筆舌に尽くし難いからだ。イエス・キリストが「金持ちが救われるよりはラクダが針の穴を通る方が易しい」と言っているが、そういうリーダーたちが改心するよりはクジラが針の穴を通る方がずっと易しいと私は思う。

「継続」が大切だと書いたばかりだが、そういうリーダーが支配する教会であるなら、一刻も早く脱会した方がいいと私は思う。我慢などする必要はない。時として我慢というか忍耐は必要なことだとも書いたが、信徒を騙して搾取するだけのリーダーの支配を我慢する必要などまったくない
 そこでいくら継続しても、得るものなどない。ただひとつ、教訓だけは得るかもしれない。

 しかしその「教訓」を得るために払わらければならない代償は、決して小さなものではない。

補足)
 信徒を騙して搾取するリーダーなんてそういないだろう、私の牧師は違うだろう、あの人は違うだろう、と安心する前に、あらゆる可能性を考えてみることをお勧めする。なぜなら人を騙す人間は、そう簡単に正体を明かすことなどしないからだ。

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