真の宗教行為とは

2020年6月29日月曜日

キリスト教問題

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 神への祈りを否定する気はないけれど、祈っただけではどうにもならないことも沢山ある。それらにどう対面していくか、そこにキリスト教徒の本分があるとわたしは思う。

 たとえば「悪より救い出し給え」は「主の祈り」のフレーズだけれど、これを祈るだけで救い出されるなら、もう2000年も祈られ続けているのだから、キリスト教徒みんな幸せになっていていいはず。しかしそうはなっていない。
 大切なのは、「それの為にわたし(あなた)は何をするのか」だ。大それた事である必要はないけれど、自分なりに行動を起こさないと、何も変わらない。

 もちろん信仰は「行い」によって成立するものではない。けれど、信仰を持った結果として、人それぞれ何かの「行い」に必然的に繋がっていくものでもあると思う。だから「行いのない信仰はむなしい」と書かれているのではないだろうか。
 ただし当然ながら、「行い」を他人に強制するのはダメ。

 何かの状況に「心を動かされて」「切に祈ります」と言う人を見ると、意地悪だけれど、「この人は結果的にどういう行動を起こすのだろう。何をするのだろう」と気になる。なぜなら「心を動かされて」「切に祈る」くらいなのだから、居ても立ってもいられなくて、何か行動を起こしたくなるはずだ、と思うから。 

 311のとき、「被災者の慰められることを祈ります」というような文言をあちこちで見たけれど、被災者が慰められるのは、安心して横になれる場所や飲食物や生活必需品が備わっている事だし、不安と恐怖に押し潰されそうな時に誰かが隣にいてくれる事だし、罹災証明書が早く発行されて生活再建の見通しがつく事だ。そしてそれは「祈り」でなく、誰かが「行動」しないと実現しない。
 そういう場合、言い方は悪いけれど、「祈ります」という言葉は何の役にも立たない。少なくともわたしが被災者の立場なら「だから何」としか思わない。腹を立てさえするかもしれない。

 もちろん全ての人が現地に行く事はできないし、沢山の寄付ができるわけでもない。行政の手続きを代行できるわけでもない。ただ「切に祈ります」とSNSで不特定多数に宣言するくらい「心が動かされて」いるのなら、たとえば少額の寄付とか、現地の教会に何か送るとか、できる事はある。なのに指一本動かさないとしたら、そんな「切なる祈り」は要らないと思う。

 これは何度でも書くけれど、真の「宗教行為」とは教会の中でなく、キリスト教徒たちの中でなく、外の世界の、信者でない人たちの中で具体的に行われるものだ。

 かつて井戸水の汚染により病気が蔓延した地域では、教会は祈るだけでなく、井戸水を使わないよう住民にふれ回り、水の調達に奔走した。それこそが彼らの「宗教行為」だったからだ。

 教会の中で祈るだけでも、字義的にはキリスト教徒だろう。けれど「何の行動にも繋がらない祈り」「祈るだけで満足する信仰」が世界にとってどんな価値があるのか、わたしには甚だ疑問だ。

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