クリスチャンになるということ
「人はクリスチャンになると新しく生まれ変わる」というのは象徴的な意味です。クリスチャンになった途端(洗礼を受けた途端? 教会員になった途端?)、いきなりそれまでと違う人間に変身する、なんてことはありません。あるいは長く教会生活を送れば、あるいは長く祈りの生活を送れば、あるいは長く隣人愛を実践していれば、ある程度「変わっていく」ことはあるでしょう。けれど「生まれ変わる」のではありません。クリスチャンになる前の自分と、クリスチャンになった後の自分は、あくまで地続きです。
「生まれ変わる」には、意図的な努力や行動、内的な変革が必要です。「聖霊様の力」で自動的になされるものではありません。むしろ自動的になされると信じたり主張したりするのは時に有害です。
人はみな、それまでの人生で無自覚に培ってきた価値観、内在化してきた偏見、差別意識を持っています。そして無自覚なので気付きません。
そういった偏見や差別意識の上に、キリスト教の教義を乗っけるのが、クリスチャンになるということです。ですから無自覚に差別してきた人は、無自覚に差別するクリスチャンになります(そしてそれを「信仰」と呼んで補強するので、一層タチの悪い差別者になります)。逆にもともと差別に敏感だった人は、差別に敏感なクリスチャンになります。あくまで地続きなのです。差別していた人がクリスチャンになったから自動的に差別しなくなる、なんてことはありません。
ですからクリスチャンになったら聖書の勉強だけすればいいのでなく、より(他者に関わっていくのだから)社会の動静や社会問題、人間の心理などについて少しずつでも学んでいかないと、独りよがりで迷惑な存在になってしまいます。
繰り返しますが「生まれ変わる」とはほとんどの場合、意図的、人為的、計画的なことです。『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのような瞬間的な転換、気付き、改心が全くないとは言いませんが、そういうのは稀です。
「生まれ変わる」きっかけ
「生まれ変わる」にはきっかけが必要です。たとえば誰かに自分の問題点を指摘してもらい、「そうか。このままでいけない」と気付く瞬間などです。
しかしそういうきっかけを活かせない人もいます。たとえば問題点を指摘されると、「神様との関係の中で示されていきたいです」などと一見信仰的なことを言うクリスチャン。しかし内在化した差別意識や偏見を、神様が懇切丁寧に指摘して、教えてくれるなんてことはありません。ですから結局「自分的には問題ない=神様は問題ないとしている」としてしまいます。それは「神の意向」を勝手に決めつけることではないでしょうか。
それに加えて、目の前の人間から問題点を指摘されたのに、「神様との関係の中で示されていきたいです」と返すのは、「お前の話は聞かない」と宣言するのと同じです。初めから話し合う余地がありません。その問題に取り組むつもりもありません。極めて不誠実な態度ではないでしょうか。それは「生まれ変わりたい」のでなく、「生まれ変わる必要なんてない」という宣言であり、自ら「聖霊による生まれ変わり」を否定しているのです。