「牧者と羊」でなく「主人と奴隷」になっていませんか

2022年4月26日火曜日

「弟子訓練」の問題

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「弟子訓練」の衰退

 プロテスタントの福音派で一時期「弟子訓練」が流行りました。取り入れた教会も少なくなかったと思います。


 多くの場合、牧師やベテラン信徒が「師匠」になり、一般信徒(の特に若い世代)が「弟子」になります。やり方は様々ですが、基本的に師匠が弟子を「訓練」します。教えたり導いたり、時にきつく叱ったり。一対一の関係で、効率良くクリスチャンを成長させられる、とか。「牧者と羊」の関係によくなぞらえました。


 しかしそれから月日が流れ、「弟子訓練」という言葉はほとんど聞かなくなりました(今も実践している教会はあるかもしれません)。しかし言葉は消えても、「先輩が後輩を訓練する」という精神は今なお残っているようです。教会で牧師や先輩信徒から厳しく叱責された、という類の話をまだまだ耳にするからです。


 この「弟子訓練」はうまく機能すれば良いのかもしれません(残念ながら聞いたことはありませんが)。しかし師匠がほとんど全権を握り、弟子に拒否権がない(事実上ない)という状態は、容易にハラスメントや虐待に繋がって危険です。そうならないように監督したり制限したりする仕組みもありません。全て師匠のモラル頼みです。そして何かトラブルがあっても、弟子の側から申し立てるのは困難です。


 そのような危うさが、「弟子訓練」の衰退に繋がったのかもしれません。

 衰退してくれて良かったと私は思っています。しかし問題は、今なお残っている「先輩は後輩を訓練すべき」「訓練とは時に厳しいものであるべき」といった考え方です。


嫌なものは嫌


 訓練を受ける側(この文脈で言えば「弟子」)は、訓練の内容に疑問や不満があっても、なかなか申し立てられません。それは立場が弱いことに加え、次のような事情があるからです。

 

 「聖なる神の教会」で不当なことが起こるはずない、と経験の浅い人は考えがちです。なので自分が「嫌だ」と感じるのは、自分が「未熟」なせいだからだ、と考えます。自分のせいにしてしまうのです。相手(この文脈で言えば「師匠」)の方に問題があるとは考えません。なので疑問や不満があっても、自分自身の中でなんとか処理しようとしてしまうのです(それが被害を見えなくする構造です)。


 しかし、たとえ未熟だろうと、罪があろうと、自分が「嫌だ」と感じることは、無理にしなくて良いのです。


 「これは神様のオーダーだから従いなさい」と指導者が事実上強いることは、冷静に考えれば神様のオーダーなどでなく、リーダー個人のオーダーだったりします。それに仮に神様のオーダーだったとしても、神様は無理強いする方でしょうか。あなたが「嫌だ」と思うことを、無理やりさせる方でしょうか。そんなことは絶対ないと私は理解しています。



主人と奴隷


 「牧者と羊」の良い関係は様々でしょう。すぐそばで伴走することもあれば、少し距離を置いて見守ることもあるかもしれません。適宜助言することもあれば、あえて助言しないこともあるかもしれません。しかし私が教会で実際に見てきた「弟子訓練」の多くは、実は「牧者と羊」の関係でなく、「主人と奴隷」の関係でした。主人の判断、指示が絶対なのです。奴隷に拒否権はありません。


 それは「訓練」でなく、「支配」です。


 ですからどんな経緯や事情であれ、「何でも分かっているリーダー」と「何も分かっていない(自分で決められない)信徒」という関係性に持って行かれているとしたら、それはキリスト教的な「牧者と羊」の関係を騙った「主従関係」です。「主人と奴隷」であり、「支配と被支配」です。


 嫌なことは「嫌だ」と言ってみましょう。それで厳しく叱られるようでしたら、あなたは主従関係に追い込まれているのです。目の前にいるのは支配者です。本当の牧者なら、「あなたは嫌だと思うんですね」と理解を示し、話を聞いてくれるはずです。


 あなた自身が望むのでない限り、決して誰にも支配されないで下さい。

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