ツイッターをやっているとクリスチャンって意外と多いんだな、人口の1%って嘘なんじゃないの、って錯覚する。エコーチェンバー効果だろうけれど、それなりに賑わっていて楽しい(もちろん嫌なこともある)。
自分が知ってる限り、ここ30年ずっと(ずっとね! ずっと!)「クリスチャンは人口の1%」と言われ続けていて、毎年受洗する人がいるのに増えていかないのは、亡くなる人だけでなく、何らかの事情で教会を離れる(or信仰を捨てる)人も多いからでは? と思っている。掬っても器がザルだったら、結果は+-0。
伝道方法云々より、離れていく人たちの事情や気持ちを探った方が効率的かもしれない。
入信するまでは懇切丁寧に接するけれど、入信後はあれしろこれしろ、あれはダメ、これはダメで信徒を利用したり縛り付けたりする傾向が、一部の教会にある気がする。釣った魚に餌はやらない、的な。あるいは既存のメンバーの居心地ばかりが優先されて、新しい人や若い人たちが蔑ろにされている気もする。それでは人は定着しない。最初は良くても、いずれ嫌になって去って行く。(その辺りが教派は教会によって違うのは承知しているけれど。)
伝道方法より、教会運営の見直しが必要かもしれない。
自分の知っている範囲の話だけど、教会に批判的な人は、もともと熱心な教会員だった人が多い。それが傷つけられたり失望したりで、結果的に今の批判的な立場に至っている。根拠のない誹謗中傷は別だけど、そういう人たちの真摯な批判には、積極的に耳を傾けるべきだと思う。そこに教会再生のヒントが沢山あるはずだから。
去って行った人たちのことを責めたり無視したりは簡単にできる。しかし自分たちの姿や態度を振り返って反省するのは難しい。教会にとって必要なのは、さてどちらだろう。
そこが本当の「クリスチャン人口1%の壁」だと、わたしは考えている。
若く、社会をよく知らないときに洗礼を受け、役員も経験しました。社会が見えてきた頃、組織運営面でプロテスタントの限界を知りました。各個教会主義って、牧師に限らず、声の大きい人が運営、経営を左右する世界なんです。原理主義であれ政治運動であれ、福音に何か別のものが乗っかって、それに賛同する人だけが居心地のいい場所になる。牧師が移動すれば、全然別の主義主張に変わったりもするのに、まことしやかに教会論が振り回される。
返信削除教会にはせ参じている多くの勤め人が、自分の思いとは別に組織の論理に忍従して稼ぎを得ているのに、教会で大手を振ってる側は組織ではなく、個人の主張を振り回している。その活動に使われる献金は、一般社会で忍従して働いた人々のお金です。
つまり、教会で権力をもっている側(牧師とは限らない)が社会音痴。少数集団でパワーを得て、自己実現を目的にしている。公共性がないのです。
プロテスタントの礼拝の献金って、カサカサって音がするんですよ、皆さん!カトリックはチャリン、です。強制されなくても、プロテスタントは毎週、お札を出さなきゃいけない雰囲気になります。プロテスタントは声の大きい人がイニシアティブを握りますが、カトリックはヒエラルキーも建前も強い分、個人がどうこう言っても都合よく動きません、よかれあしかれ。プロテスタントは牧師の家庭全体を支える献金が求められますが、カトリックは一人の司祭を支えます。
カトリックがいいと言っているわけではありません。組織全体とか、経営、運営について、組織が大きい分、現実的に考えざるを得ないのがカトリックです。プロテスタントは不透明で教会、教派ごとの差が大きい。知ってる人なら選べますが、知らない人は怖くて選べません。
キリスト教というより、宗教人口そのものが減っています。少ない母数で今までと同じ規模を支えろと言っているにも等しいことが、将来を見えなくさせています。一般社会だったら、M&Aとか経営効率を考えるところですよ。少ない母数で支えられるよう、変化を図っていくのが組織ではありませんか?
牧師が献金に依存せず、きちんと生活できるような制度を作ることも重要です。献金を日々の糧とあてにするのは、カルトへの近道です。信者増やして頭数を増やせばいいことになってしまう。事業収入とか並行して経済活動するとか、信徒も牧師に無茶振りしないとか、透明な組織経営やその標準を示していかなければならないのではないですか?
教会に足りないのは、社会勉強です。