宗教の存在理由は

2020年7月27日月曜日

キリスト教信仰

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「クリスチャンは(死後の)天国の希望があるのだから、生きているうちの悩み苦しみは試練と思って耐えなさい」というのは「救い」でも何でもないと思う。むしろ何にでもその理屈が適用されることで、本来声を上げるべきものまで、黙って耐えることになりかねない。


「いい子」になって喜んでいる振りをするより、苦しいものは苦しいんだと駄々をこねるくらいでいいと思う。痩せ我慢と敬虔は全然ちがう。どう見ても苦しんでる人が、「主にあって幸いです。ハレルヤ」と口先だけで言って笑うことが時々あるけれど、痛々しくて見ていられない。


 もちろんどうにもならない種類の苦しみ、一生付き合ってくしかない種類の苦しみもある。けれどそうでないものは極力解決して、自分の生きやすさを優先したらいいと思う。「神のため」とか「教会のため」とかよりまず「自分のため」でないと、他のことも上手く行かない。


 日本人の気質かもしれないけれど「ラクするのは悪いこと」みたいな傾向があって、それがクリスチャンになると「ラクするのは不信仰」「苦しんでこそ信仰」みたいな傾向になってしまうように思う。「清貧」という言葉がある通り。そのあたりから解放されて、自分のラクさを追求した方が、信仰も他のことも上手く行くのではないだろうか。


「教会で苦しんでるクリスチャン」より、「教会で(演技でなく)楽しんでるクリスチャン」の方が印象は良いはず。どっちの教会に行きたいか? 聞かれたら後者のはず。「深刻そうな顔の熱心なクリスチャン」と「信仰を持つことで生き生きしてるクリスチャン」のどちらの話を聞きたいかと聞かれたら、やっぱり後者だ。


「一生懸命伝道するけど上手く行かない」という場合、悪いのはその人自身でなく(その人は頑張っているのでむしろ褒められるべき)、福音そのものでもなく、悪霊の妨害でもなく、霊的なホニャララでもなく、単に興味を持たれていないだけ。そのあたりを起点に考えるべきでは、とは僭越ながら思う。


 初めのツイに戻って宗教(ここではキリスト教)は何のためにあるのか。それは「神のオーダーに従って神に満足してもらうため」よりも前に、「自分自身がそれによって少しでも生きやすくなるため」だと思う。

 後者が満たされないと、結局前者も満たされないから。

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