「天国を見てきた」を信じるべきか

2013年6月10日月曜日

キリスト教問題

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 時々、「臨死体験」をしたというクリスチャンの話を聞く。事故やら病気やらで死にかけたか死んだかした時に、何らかの体験をし、その後無事に生還した、というヤツだ。

 その臨死中に「天国」を見た、という人がいる。今までに2人ほど、そういう体験をしたというゲストが私の教会に来て、話をしていった。

 彼らは天国がどんなだったか、詳細に話した。そこにいる人々の着ている服には生前の良い行いが全て書かれているとか、木の実をとって食べ残したら消滅したとか。私たち教会員は皆、すごいすごいと興奮して聞いたものだ。

 が、今にして思うと、その真偽というのは確かめようがない。ウソかもしれない。本当かもしれない。

 人間が生きたまま天国を見るというのは、まったく荒唐無稽な話ではない。
 何故なら新約聖書でパウロ自身、「14年前に第三の天を見た」(第二コリント12:2-4)と言っているからだ。聖書を絶対的真理とする以上、その言葉も真実のはずだから、(臨死かどうかは別として)そういうことはあるのだと私は単純に考えている。

 ただし、その手の話題は、相当慎重に扱わなければならないと思っている。何故ならパウロ自身もそのことを14年間ずっと黙っていた訳だし、その詳細についても「言い表わせない言葉を聞いた」としか語っていないからだ。
 
 この「言い表せない言葉」からもわかる通り、天国とは、人間の想像力を総動員しても思い描けない、理解できない種類のものなのではないだろうか(黙示録21章に新天新地の記述があり、その寸法や外観など知ることができるが)。
 
 とすると、パウロでさえ言い表さなかったその天国の様子を詳細に語るということに、私はいささかの疑問を感じてしまう。
 
 もちろん、その体験は本当かもしれないし、神様がその人を励ますために見せて下さったのかもしれない。
 けれど少なくとも、以前の私たちのように、まったく無条件に信じて喜ぶべきことではないだろう

「見分けなさい」と聖書が言っているように、私たちは慎重にそういった話を吟味すべきだ。
 
 あやしいものは何でも否定、というのも良くないし、あの先生が言うことは何でも肯定、というのも良くない。
 それはどちらも盲目というものだ。

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