「シンプルな信仰」にご用心

2020年8月1日土曜日

キリスト教信仰

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「差別はいけない」という聞き慣れた人権教育の言葉が、皮肉なことにそれ以上の思考を阻んでしまい、差別について具体的に理解させないようにしている。つまり簡単な言葉にすることで、問題そのものを簡単なものに見せてしまう、という現象が起きている。


例)


差別はいけないよね

うん、そうだよね

みんな、差別しないようにしよう

うん!

以上


 みたいな。これは差別する側の属性が陥りやすい事態だ。「差別はいけない」という当たり前のことを連呼するだけで、それ以上話が進まなくなってしまう。本当はそこから一歩も二歩も踏み込んで行かなければ、問題か見えてこないのに。


☆ ☆ ☆


 キリスト教にも、教えをシンプルで分かりやすいものに圧縮し、3分動画などでインスタントに分かったつもりにさせてくれるサービスがある。教義を3分で簡単に把握できるよう、簡素化する試みだ。それを見ればあれこれ考えなくて済むし、そこまで深く知らなくて結構、という人には良いかもしれない。しかし結果、それ以上のことを突っ込んで考えなくなってしまう恐れもある。


 そういう信仰の簡素化・シンプル化が蔓延することによって「聖書にこう書いてあるからこう」という「分かりやすさ」こそ至上となり、現実生活の様々な事情、様々な境遇、先の差別問題なども、簡単に考えられるようになってしまう。

 結果、たとえば同性愛指向を「聖書に罪と書いてあるだろ」と簡単に断罪するようにもなる。聖書をシンプル化した結果、社会の様々な問題もシンプル化されてしまうのだ。


 というのが、反知性主義の問題点だと思う。

 では反知性主義の問題か、と言うとそうでもない。反知性主義の逆を行き、教えを超難解に見せることで分かりづらくし、「いくら考えても自分には分からない(=霊的な覚醒が必要だ」と諦めさせることも、一周まわって反知性主義と同じことになる。


 知性に傾きすぎるのも、反知性に傾きすぎるのも、どちらも良くない。極端なものには注意した方がいい。簡単なものもあれば難しいものもある。それが世界なのだから。


 宗教は基本、根本教義を無条件に(言葉は悪いけど盲目的に)信じることを求める。そこに疑問を挟んでしまうとそもそも成り立たない。

 しかしその盲目的姿勢を教義の全て、信仰生活の全てに適用してしまうと、現実の問題を軽視(無視)することにもなる。そして有害なものとなり得る。信仰者は、考えるべきところはしっかり考えないとすぐ落とし穴に嵌ってしまう。


 キリスト教会の一部では、「人権より神権が優先される」という考え方のもと、一部で深刻な人権侵害が行われている。けれど宗教とはそもそも人のため、人の救済のため、苦痛からの開放のために存在するはず。「神権」を盾に「人権」を奪われてしまっては、まったくの本末転倒ではないだろうか。


 教会で頑張ってるけどなぜか苦しい、聖書を読んで祈っているけれど辛い、奉仕して献金してるけど消耗するばかり、という人には、その点をぜひ考えてみてほしい。

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