「差別に加担しない」のであれば

2020年7月2日木曜日

差別問題

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「同性愛指向の人が異性愛指向に『回復』して、異性と結婚することができた。良かった」
 という話を読んだけれど、異性間の結婚の方が良い、そして結婚という形を選択する方が良い、という異性愛マジョリティの価値観がやはり根強いと感じた。同性婚を願う人の目には触れてほしくない、残念な話だった。

 異性愛/同性愛どちらも良く、結婚する/しないどちらも良い、という価値観にはならないのか。

 人間は異性愛者が一番幸せで、かつ結婚するのが一番の幸せなのだろうか。「一番良い」ことなのだろうか。しかし現実の話、世の異性と結婚した人たちはどれだけ幸せなのだろうか。正直疑問だとわたしは思う(幸せな異性愛結婚が皆無だと言っているのではない)。

 小学生の頃、PUMAとかadidasとかのメーカー品が流行って、それらのロゴ付きジャージを着たりシューズを履いたりするのが子どもたちの間で一種のステータスだった。「やっぱPUMAだよな!」などとクラスで大声で言われたものだ。それ自体は良くも悪くもない。けれど様々な事情でそういったメーカー品を持つことができない一部の子どもたちは、たいそう肩身の狭い思いをした(わたし自身もそうだった)。
 SNSで「異性愛で結婚するのが一番だ」と表明するのも、それと似た残酷さがある。

「教会は同性愛者を受け入れるが、同時に罪の悔い改めを求めなければならない」というのは最近よく見る文言だけれど、それはつまり、同性愛指向の人が異性愛指向に「転向」するまで、永遠に悔い改めを求め続ける、ということだ。誰がそんな教会に行きたがるのだろう。

 というか、そうやって他人の「目に見える」部分だけ悔い改めを求めて、あなたがたの「目に見えない」部分は放置なのですか? と言いたくなる。それはやはり強者の理論、マジョリティの理論でしかない。

 マジョリティであることは、それだけでマイノリティに対する加害性を持っている。ここで「自分は何もしていない」とか「差別に加担していない」とかマジョリティが主張しても意味がない。既に加害性を有した存在なのだ、と自覚するかどうかの選択だけが突きつけられているのだから。

 たとえば「教会で同性愛者を受け入れましょう」という文言。マジョリティにとってそれは「愛」であり「寛容」であるのかもしれない。しかし初めから上目線であり、「受け入れてあげる」という権力者側の発言であることが、マイノリティには透けて見えている。

「差別している/していない」をマジョリティが正しく認識するのは難しい。

 そしてそのギャップを認識し反省するのは本来マジョリティの責任だ。マイノリティが「丁寧に説明してマジョリティの皆さんに理解していただく」ものではない。

「差別に加担しない」のであれば、まずはそのあたりから理解すべきだろう。

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