2017年3月31日金曜日

『モアナと伝説の海』を観たら「選ばれた者」について考えさせられた

・『モアナと伝説の海』を観たら「選ばれた者」について考えさせられた

 前回に続いて映画ネタになりますが、ディズニー映画『モアナと伝説の海』を劇場鑑賞しました。
 お子さん向けの映画を観に行くのは久しぶりでしたが、いやお子さんが多いと劇場も活気がありますね、いろんな意味で。
 でも本編は笑えたしグッときたし、歌も映像もキレイだし、で時間を忘れて没頭することができました。さすがディズニー。手堅い感じです。

 予告編はこちら。

 ざっくり書くと、南太平洋を舞台に、少女モアナが失われた「女神の心」を見つけ、それを女神に返しに行く、という冒険モノ。なんかいろんな映画の要素を混ぜ合わせたような感じもして笑えました。気付いただけでも『マッドマックス 怒りのデスロード』、『センター・オブ・ジ・アース』、『モーセの十戒』、『マトリックス』、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』の要素が隠れています。いや、隠れていません。

 で、なんで私がそこに『マトリックス』を感じたかと言うと、モアナが「海に選ばれた者」である、という点です。

 ちょっと『マトリックス』のおさらいをしましょう。主人公ネオはマトリックス世界の「救世主」として、登場を予言された人物でした。でも本人はなかなか信じられず、迷っていました。 しかし戦いを通して、次第に「信じ始めていく」わけです。そして最後は救世主でなければできないような活躍をし、完全に立ち上がる、というストーリーでした。

 モアナも同じような経過を辿ります。彼女は「海に選ばれた者」だとおばあちゃんに言われ、旅立ちます。しかし途中で決定的な挫折を経験し、「私もうダメ。選ばれた者じゃない」となるわけです。しかしおばあちゃんの霊体(?)やらご先祖の皆様やらに励まされて再起し、最後はナウシカばりの活躍を見せることになります。

 この「選ばれた者」の葛藤が、興味深かったですね。自分は本当に選ばれた者なのか? 間違いではないのか? でも信じて行動してみるしかない、というあたりが。

・キリスト教的「選ばれた者」の危険性

 旧約聖書をみると、ユダヤ民族は「神に選ばれた種族」である、というようなことが書かれています。そして新約聖書をみると、いわゆるクリスチャンは「キリストによって選ばれた者」である、というようなことが書かれています(ヨハネの福音書15章16節)。
 つまり、私たちクリスチャンは、ネオやモアナと同じように「選ばれた者」である、ということになります。

 ただだからと言って、映画ばりに活躍しなければならないわけではありません。ネオやモアナは2時間枠だからこそ頑張れたのです。あんなのが生涯続くとしたらそれこそ大変です。精神を病んでしまうかもしれません。

 また「神の選びとは何なのか」というのは各教派によってイロイロだと思いますが、あんまり強調しない方がいいと私は思います。いわゆる「選民思想」ですが、排外的、独善的になりやすいからです。下手すると「未信者差別」に陥ります。

 余談ですが、「選民思想」の危険性は、自分自身のことが可愛くなってしまう点にあると思います。「選ばれたからには責任がある」となればいいのですが、「選ばれた自分ってスゲー」みたいな根拠のない自慢に繋がってしまうと、手が付けられません。それで他者を省みなくなるとしたら、もはやキリストの言う「愛」は実践できません。

 あるいは、これがカルトっぽい教会になると、「あなたには大いなる使命がある」みたいな話になって、とんでもない奉仕をさせられたり、キャパを越えた仕事をしようとしたりして危険です。そういうのは、注意しないといけません。

・「選ばれた者」の証明

 持論ですが、クリスチャンが「神に選ばれた者」であるとして、それ自体には何の意味もありません。
 たとえばですが、「俺、神に選ばれし者だぜ」と殊更に強調している人が、自室にずっと引きこもって無為に過ごしているとしたら、その「選び」に価値はないでしょう。何のために「選ばれた」のか、わからないからです。あるいは「引きこもりとなるべく選ばれた」のでしょうか。いずれにせよ、その人が選ばれていようがいまいが、外界には何の影響も関係もありません。

 これは、引きこもりが悪いという話ではありません。選びを強調するならば、という話です。

「神に選ばれた」と強調するならば、それにふさわしく行動すべきだと私は思います。当たり前の話ですが。何かの行動を起こすことが、「選ばれた者」の証明の第一歩なのですから。
 でも実際には、何か行動を起こすというのは、けっこう大変なことです。だから私は「神の選びを強調しない方がいい」と言っているのです。「選び」には責任が伴います。

 またもし「選ばれた者」として行動するとしたら、その「選び」を信じなければならないでしょう。ネオやモアナは、最終的には自分が「選ばれた者」だと信じました。だから行動できたのです。そのへんはクリスチャンも同じではないでしょうか。
 でも行動するにしても、「何をするのか」というのが次に大切になってきます。カルトっぽい教会で過剰な使命感を植え付けられて、行き過ぎた行動をしてしまい、結果的に他人に迷惑を掛けることになってしまった、という話はよく聞きます。それでは「選び」の意味がないでしょう。あるいはカルトっぽい教会でなくても、伝道に熱心すぎて煙たがられる人がいますが、そういうのも考えものだと私は思います。

 というような難しさがあるので、「選び」なんて強調しない方がいいなあと、『モアナと伝説の海』を観ながら考えた次第です。

2017年3月29日水曜日

映画で描かれるキリスト教のアレコレ

 以前から当ブログを読んで下さっている方はご存知だと思いますが、私は映画がとても好きです。
 どれくらい好きかと言うと、劇場に月2〜3回通っているくらいです。多いときはそれ以上になります。午前に1本、午後に1本とハシゴすることもあります。また劇場に行かなくても、レンタルDVDやAmazonプライムで日常的に映画を観ています。もちろん忙しい時は別ですけれど。

 観るジャンルにこれと言った決まりはありません。興味のあるものなら何でも観ます。アニメや子ども向けの映画も観ます。
 ただ一つ例外を挙げると、キリスト教系映画はあまり観ません。なぜでしょう。あんまり面白くないからです。先日レビューを書いた『沈黙ーサイレンスー』は別格でしたけれど。

 もちろんキリスト教系映画といってもピンキリですから、一括りにして「あんまり面白くない」と言うのもフェアではありませんね。すみません。訂正します。
 いわゆる福音派の人たちが喜びそうな映画、つまりクリスチャンを対象とした、「奇跡」やら「癒し」やら「回復」やら「勝利」やらが満載の昨今の「クリスチャン映画」は、あんまり好きではありません。そうでなく一般人(未信者)を対象とした、キリスト教をテーマにした映画なら、優れたものが沢山あると思います。今パッと思い出すだけでも、『薔薇の名前』とか『スパルタカス』とか『ベン・ハー』とかがありますね。

・「クリスチャン映画」の背景にある「繁栄の神学」

 では、なぜ昨今の「クリスチャン映画」が好きでないか。決してクオリティの問題ではありません。頑張って作っているものもあります。というか、一つの映画を作り上げたというだけで、既に賞賛に値すると私は思います。映画は決して簡単に作られるものではないと思いますから。
 そういう最低限のリスペクトを抱きつつ、それでも昨今の「クリスチャン映画」がダメだと思うのは、いわゆる「繁栄の神学」の影響を強く感じるからです。

 たとえば「クリスチャン映画」の登場人物たちは大概、冒頭ですでに不幸な状況に置かれています。仕事が行き詰まっていたり、夫婦関係が破綻しかけていたりします。そして彼らはクリスチャンでないか、あるいはクリスチャンだとしても、あんまり祈ったり聖書を読んだりしません。つまり「神から遠く離れた存在」なのです。
 そんな彼らが映画の途中で、クリスチャンになるか、あるいは熱心な信仰を取り戻すかします。いわゆる「熱心な信仰者」になるわけです。すると、あれよあれよと状況が好転していくのです。問題が次々と解決していき、クライマックスでちょっとハラハラして、でも最後は万々歳なエンディングを迎えます。

 観ればわかりますが、そこには明確な一つのメッセージがあります。すなわち「クリスチャンになって熱心に信仰すれば、幸せになれる」というものです。

 辛い境遇にある人が幸せになっていくのは、観ていて嬉しいものです。だからあんまり気にならないかもしれません。でもそこには明らかに、「熱心なクリスチャンであれば、ね」という条件が付いています。その条件をクリアしないといけないのです。あるいはその条件をクリアしさえすれば、あなたも幸せになれますよ、というメッセージです。

 これは逆に言えば、熱心なクリスチャンは不幸であってはならない、多少の紆余曲折があっても繁栄しなければならない、ということでもあります。そしてその考え方は「繁栄の神学」に他ならないわけです。

・「繁栄の神学」の弊害

 もっとも映画自体はフィクションなので、さほど目くじらを立てることではありません。単純に感動できるなら、それでいいと思います。
 しかしその考え方がスクリーンを越えて「こちら側」にやってきて、「クリスチャンかくあるべし」みたいなリアルな話になってしまうとしたら、問題アリではないでしょうか。現実の生活において、クリスチャンは「いつも」勝利しなければならない、豊かでなければならない、繁栄して幸福でなければならない、という話になってしまいますから。

「繁栄の神学」は耳障りはいいかもしれませんが、いざ実践するとなると、かなりの無理ゲーなのです。

 一例を挙げると、『Facing the Giants』というスポ根クリスチャン映画があります。ある高校の弱小アメフト部が、信仰に目覚めたとたん連戦連勝状態になり、最後はまさかの大会優勝を果たす、という内容です。その経過で主人公のコーチは昇給し、新車を与えられ、不妊だった奥さんは妊娠します。もうこれでもかってくらいの繁栄を享受するわけです。「神に祈った」ことをキッカケにして。
 そこにあるメッセージは、やはり「信仰を持てば繁栄できる」なのですね。

 でも現実に考えてみれば、いつか試合に負ける日がきます。調子の良い日もあれば悪い日もあります。永遠に連戦連勝なんてかえって気味が悪いです。また試合に負けたからって、信仰を失ったわけではありません。信仰が「低下」したわけでもありません。そもそも信仰熱心だから試合に勝つ、というのも根拠のない話です。
 でも「繁栄の神学」に則るならば、そして突き詰めて考えるならば、「試合に負けたのは信仰に問題があるからだ」という話になってしまいます。「信仰に燃えていて、神に導かれているならば、祝福される以外にないはず」だからです。何でもかんでも祝福され、成功していなければならないのです。
 だから試合だけではありません。およそ生活のあらゆる分野で、信仰者は勝利し、獲得し、優位に立ち、所有し、繁栄し・・・というのが求められていくのです。そしてそうできなければ、「信仰が足りない」「祈りが足りない」「献金が足りない」「何か罪がある」という話になってしまうのです。

 それが、「繁栄の神学」の根本的な考え方なのですね。皆さんはこういう信仰生活を送りたいでしょうか。

 と、いうようなことを考えてしまうので、私はいつの頃からか、この手の「クリスチャン映画」を単純に楽しめなくなってしまいました。それが損なのか得なのかよくわかりませんが。
 でも、だからこそ(確認のために)観てみる、ということもありますけれど。

・宗教映画に含まれるプロパカンダ

 もちろん、そこまであからさまに「繁栄の神学」を打ち出した映画ばかりではありません。
 たとえばですが、数年前に上映された『神は死んだのか』はコテコテの「クリスチャン映画」ではありますが、「繁栄」を意図したものではありませんでした。「神の存在の立証」をかけてクリスチャン大学生と無神論教授とが論戦を繰り広げるのですが、必ずしもクリスチャン側がハッピーになるという作りではありませんでした。そのへんは好感が持てました(同映画のレビュー記事1)(同じくレビュー記事2)。

 ただし、やはり「クリスチャン映画」であり、宗教的プロパカンダ映画でもありますので、「神を信じないと大変なことになる」というメッセージはかなり明確でした。ネタバレですが、無神論教授は最後は車にはねられて死んでしまいます。キリスト教に懐疑的なブロガーは癌を告知されて泣き崩れます。「神を信じないと地獄行き」みたいな、容赦ない感じでしたね。こわいこわい。

 そのように、宗教映画にはえてしてプロパカンダが多分に含まれていると言えます。
 宗教映画といえば、幸福の科学はかなり力を入れているようです。かつてはオウム真理教もそうでした。ちゃんと観ていないので何とも言えませんが、麻原教祖が(修行の末に)空を飛んじゃったりしてましたね。新興系プロテスタント界隈の作る映画も、なんとなくそのへんと同列に並べられている印象がありますが、どうなんでしょう。

・クリスチャンはどう見られているか

 世間一般がクリスチャンをどう見ているか、を示唆する映画もあります。当然ながら一般の映画です。実例を挙げると、ロバート・ゼメキス監督作の『フライト』があります。以前にも当ブログで言及したことがありますが(記事はこちら)、この作品ではクリスチャンが明らかに「変人」として描かれています。浮世離れした人、話の通じない人、よくわからない人、みたいな感じです。

 それを批判と取るかどうかは微妙なところですが、ただ事実として、「クリスチャンはそういうふうに見られている」のだと思います。それは否定のしようがありません。そして福音宣教とか伝道とかを考えるなら、そのへんは無視できないと思いますね。「変人」と思われているところから、どう歩み寄っていくか、みたいな。

 最近の邦画で言えば、『渇き』や『黄金を抱いて跳べ』でも部分的にクリスチャンが描かれていました(たぶん他にも沢山あると思いますが)。でもどれを観ても、やはりクリスチャンが「異質な存在」として描かれているのは間違いありません。

 ここでクリスチャンの側が「私たちは異質ではありません」とか反論しても、あまり意味がないですね。本当に異質かどうかはさておき、「そう見られている」という事実は変わらないわけですから。まずはそこを受け止めるところから始めないと、見当違いなことになってしまうでしょう。

 というわけで、映画で描かれるキリスト教について、つらつらと考えてみました。

2017年3月24日金曜日

教会と個人のキョリ感・その3

「教会と個人のキョリ感」の3回目です。

 前回までは、教会に属するクリスチャンとして必要な「勉強」について、考えてみました。大雑把に言えば、「キリスト教」の概要を学んで客観性を持たないと、自分の教会をも客観的に見られなくなり、結果的に独善的な(あるいは狭量な)信仰になってしまう、というような話でした。

 今回は「勉強」から離れて、「感情」について考えてみたいと思います。教会と個人とを繋ぐ、いわゆる「心のキョリ感」についてです。

・「感情」がまず教会と個人とを繋ぐ

 はじめに復習になりますが、ある人が人生で初めて教会に行こうと思った時、ある教会の教派や種類をじっくり吟味して、「その教会に行こうと選択した」というのは稀なはずです。そうでなく、多くの場合、その教会がたまたま近所にあったからとか、知り合いがいたからとか、そういう「偶然性」に左右されて行ってみたはずです。明確な意図があったのでなく。

 だからその教会(教派)の教理や聖書解釈をじっくり精査し、他と比べてどうなのか、自分にシックリくるのか、納得感があるのか、などと考える過程もなかったはずです。そういうのはだいたい、後から少しずつ説明されて、わかってくるものだからです。

 実際に、多くの場合(例外もあるとは思いますが)、その教会と個人とを繋ぐのは、まず「感情」だと思います。

 たとえば牧師がすごく優しそうで好感が持てたとか、初めてなのにイロイロ話を聞いてくれたとか、教会の雰囲気がアットホームで良かったとか、隣に座った信徒がイロイロ教えてくれて助かったとか、そういう「良い人間関係」や「良かった体験」の積み重ねが、その人と教会とのキョリを縮めていくのだと思います。で、その積み重ねの結果、「この教会に通ってみよう」となるのです。

 つまり教理のような「理屈」から入るのでなく、「感情」から入るわけです。もちろん「福音を聞いて信じた」という理屈が大前提なのですが、「福音」に関してはどこの教会もさほど違わないと思います。
 そうでなく、ある一つの教会に、個人が根付いていく、そのプロセスには、やはり「感情」が大きく影響すると思います。人間とは、人間関係が満たされてはじめて、ある集団に根付いていけるものだからです。
 また人間関係のことばかりでなく、たとえば教会堂がすごくモダンで通い甲斐があるとか、プロ級のゴスペルが聴けていいとか、そういうのも「感情」の範疇でしょう。
 現在どこかの教会に属している皆さんは、これには概ね同意されるのではないかと思います。

・「感情」に影響される教理や聖書解釈

 そういうわけで、繰り返しになりますが、その教会の教理や聖書解釈については「後から」知っていくことになります。そしてそれ自体は、現在の日本では割と普通のことだと思います(諸外国の事情は知りません)。
 しかし残念ながら、これがしばしば問題を起こすことがあります。

 一例を挙げると、たとえばそこが「異言」を語る教会だった場合。

 多くの「異言」系の教会では、未信者の前でおおっぴらに「異言」を披露するということはありません。だから信徒になって間もない人は、そもそも「異言」なんて知らないよ、聞いてないよ、という状態であることが多いです。
 で、ある時(祈祷会などで)、いつもの牧師先生や先輩信徒の皆さんが、突然、ワケのわからない言葉で祈り出すわけです。ナンジャコリャ、となります。相当な衝撃です。ヤバイところにきてしまったのではないか、みたいに感じるかもしれません。

 後からそれが「異言」だと説明されるのですが、それを受け入れられるかどうかは、個人差が大きいしょう。でもそこで重要な役割を担うのが、「感情」です。どれだけ教会や牧師や信徒たちに対する信頼感ができているか、というのが決め手になり得ます。そして「この人たちが言うことだから」と、「異言」を受け入れていく人も大勢います。

 つまり「感情」が、「ちょっと受け入れがたい教理」をも、受け入れさせるわけです。

 そしてそうだとしたら、(表現が悪いかもしれませんが)それは「信仰」でなく、「付き合い」なのだと私は思います。抵抗感があるのに、人間関係を気にして、抵抗感を我慢してしまったからです。もしその人が、教会での人間関係(信頼関係)ができあがる前に「異言」を見せられたなら、必ずしも受け入れなかったはずでしょう。
 つまり人間関係が、本来あるべき反応を邪魔することがある、ということです。皆さんはどう考えるでしょうか。

・「感情」が聖書を解釈してしまう

 当然ながら、これは「異言」の話ばかりではありません。他のイロイロなケースでも同様です。

 もう一つ例を挙げますが、ある牧師が、牧師夫人に日常的にツラく当たっていました。夫人が何か粗相すれば、「なにやってんだよ!」と人前で罵倒します。夫人が電話にすぐに出ないと、「俺を待たせるな!」と怒鳴ります。でもその牧師は、信徒には、基本的に優しく接するのです。
 信徒は多少なりとも混乱します。自分には「親切な牧師先生」なのに、現実に妻にはツラく当たっている、そのギャップをどう埋めればいいのか、よくわかりません。

 聖書には「妻にツラく当たってはいけない」という箇所があるのに、牧師は目の前で妻にツラく当たっているのです。かと言って、「牧師が悪い」と言うこともできません。牧師は自分には親切だし、実際にイロイロお世話してくれているからです。
 では何が悪いのか。牧師が悪くないとしたら、怒られることをしてしまった夫人が悪いのか。これは夫人に対する「訓練」なのか。あるいは聖書のこの記述は、現代には当てはまらないのか。そういうことをイロイロ考えます。で、自分なりにどこかで納得するわけです。

 要は聖書の記述より、現実が優先されるのです。あるいは現実に合わせて、聖書が解釈されるのです。自分がすでに教会に属していて、イロイロな(信仰的な)既成事実ができていますから、今更牧師がどうとか、教理がどうとか、言えなくなっているのです。この場合で言えば、妻にツラく当たる牧師を、聖書解釈を変えることで肯定しようとするわけです。

 つまり「感情」が、聖書を解釈してしまう、ということです。

 これと同じようなことは、実際には少なからずあちこちで起きていると思います。でも教会と個人のキョリ感としては、問題があるなあと私は思うのです。
 さて、皆さんはどう考えるでしょうか。

2017年3月21日火曜日

教会と個人のキョリ感・その2

 教会と個人のキョリ感について、2回目です。
「よその教会のことはわからない」という人は、自分の教会とのキョリが近すぎるのではないでしょうか、というのが前回の趣旨です。教会が近すぎて、他が見えなくなっているような状態(あるいは見る必要性を感じない状態)なのだと思います。だからクリスチャンはそれなりの「勉強」をして、視野を広く持つべきだ、ということです。
 ただ「勉強」と言っても、教会内で開かれるバイブルスタディとか、個人的な聖書研究とかのことではありませんよ、という話でした(詳しくは前回の記事を参照して下さい)。

 あるいは「勉強する暇なんてないよ」と言う方もおられると思います。仕事や学業や家事や育児や介護など、たしかに私たちの毎日は忙しいです(ただあまりに忙しいなら、教会に行くこと自体を検討した方がいいような気がしますが。個人的には)。だから無理に勉強しろとは私は言いません。ただそれでも理解しておいていただきたいのは、キリスト教はただ一つの教会(教派)だけが絶対的に正しいということはない、ということです。逆に、それだけわかっていただければ、とりあえず文句はありません。

・どの教派が正しいのか? というナンセンス

 実はこれは、冷静に考えればわかることだと思います。
 聖書は、実に多角的に読める書物です。様々なことが書かれていますが、中には互いに相反する記述もあります。またある箇所の意味するところは、必ずしも一つに断定することができません。解釈の幅があるからです。もちろんシンプルかつ明確に書かれていて、読み間違えようのない箇所もあります。しかしそうでない箇所が多いです。たとえばパウロの書簡などは、現代に至るまで、様々な研究や議論がなされてきていますが、未だに着地したとは言えません。
 そして、そういう解釈の幅があるからこそ、様々な教派に分かれている、と言うこともできると思います(もちろん必ずしも解釈の違いだけで分派してきたわけではありません)。

 もし仮に、聖書の全編が、これ以上ないくらいシンプルに、明確に書かれていて、誰も読み間違えようのない内容だったとしたら、きっと一つのシンプルな解釈だけになるでしょう。すると現在のような多彩な教派に分かれる必要もなかったことになります。一つの教義、一つの教派、一つの教団、で済んだはずです。

 でも実際にはそうはなっていません。なぜか。それは各教派によって解釈が異なり、強調点が異なるからです。そしてそれが許されているからです。聖書自体にそのような幅があるからです。もちろん本筋においては一本なのですが。
 だから、「どの教派が正しいのか?」という疑問は、それ自体がナンセンスだと私は思うわけです。

・「正しさ」を主張する論理

 そういう状況であるにもかかわらず、「自分たちこそ正しい」と豪語して憚らないグループもあります。
 ここで「グループ」と書いたは、ある教派の全体(その末端に至るまで)が、必ずしも「自分たちこそ正しい」と言っているわけではないからです。ぶっちゃけると福音派や聖霊派なのですが、その系統のクリスチャンの全員が、自分たちの正当性を盲信しているわけではありません。中には冷静な人もいます(あまり多くはない印象がありますが)。

 だから「自分たちこそ正しい」を豪語するのは、教会単位の話になるかと思います。
 そしてそういう教会は大概、信徒が教会にベッタリ密着しています。熱心に奉仕し、毎日のように教会に通い、もう個人の生活の全てが教会と共にある感じです。教会とのキョリはゼロに等しいかもしれません。

 そういう教会は、信徒が他教派について学ぶことを推奨しません。いや、ほとんど禁止していると言っても過言ではありません。なぜかと言うと、「自分たちだけが正しい」からです。自分たちが唯一正しいのだから、他の間違っている教派について学ぶ必要はない、いやむしろ知らない方がいい、というような理屈です。

 そこではしばしば、「真理の回復」という言葉が使われます。

 どういうことかと言うと、これはペンテコステ派の一部で熱く語られていることですが、西暦313年、ミラノ勅令でキリスト教がローマ帝国の国教となって以来(つまり国を挙げての迫害が止んで以来)、教会は世俗化した。そして本来持っていた「真理」を失ってしまった。その後十数世紀に渡って、教会は暗黒時代を通った。しかし1517年にルターが宗教改革を起こして以来、「真理」は歴史の中で少しずつ回復していった。と、いうようなお話です。
 で、そこに各教派が絡んでくるわけです。まずカトリックは、宗教改革を起こされるくらい堕落してしまったのだから、ダメ。ルーテル派はルターの改革の流れを汲んでいるけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。バプテストは洗礼を強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。ホーリネスは清めを強調するけれど、そこで止まってしまったから、ダメ。つまりどれも「中途半端」で、「真理が回復していない」と言うのです(ちなみにその他の教派、長老派とか改革派とか会衆派とか、東方正教会とかには、まったく言及されないものもあります。もしかしたら存在自体を知らないのかもしれません)。
 で、そんな中で燦然と現れたのが、我々(ペンテコステ派の一部)なのです! 我々は「異言」の回復に預かり、「奇跡といやし」の回復に預かり、「預言」の回復に預かり、「炎のバプテスマ(なにそれ)」に預かり、「五役者(5人の俳優という意味ではありません)」の回復に預かり、これからも様々な真理の回復に預かって行く、選ばれた種族なのです!
 と、いうような話になるわけです。

 要は、自分たちは「選ばれて」いて、「真理の回復」を与えられている。でも他の教派にはそれは開かれていない。理解することもできない。というような主張。

 カルト化の一本手前、みたいな状況ですね。

・「聖書だけ」とは言うけれど

 そのような教会では、前述の通り、信徒が他教派について知るのを良しとしません。だから「教会史」など教えません。教えたとしても、それは「自教派の歴史」になります。
 それよりも、プロテスタントの出発点でもある「聖書だけ」を強調します。「聖書から学べばそれで十分だ。キリスト教関連の書籍だからと何でも読むべきではない。必要なことは聖霊様が教えて下さる」というような理屈です。だから信徒はそちらの「勉強」に熱中することになります。

 そういうわけで、何年たっても、教会史なんて知らない、他教派のことなんて知らない、という状況になってしまうのです。でも、彼らには危機感みたいなものはありません。なぜなら、繰り返しになりますが、「間違っている教派のことなんて知る必要ない」からです。

 だから、前回書いたような、「他教派のことを正しく理解していないのに間違っているとハナから決めつける」という状態になるのですね。

 でもそういう教会の言う「聖書だけ」は、実は聖書だけではありません。というかそもそも、純粋な意味での「聖書だけ」は、ほとんど不可能ではないかと私は考えます。なぜなら聖書を読むとき、そこには必ず「どう解釈するか」という問題が付きまとうからです。そして前述の通り、解釈には「幅」があり、何かを「選択」することになるからです。

 だから「聖書だけ」を強調する教会自体、「自前の聖書解釈」をもって聖書を読んでいるわけです。そこには同系統の牧師や教師、神学者など先人の皆さんの研究、解釈、主張などが含まれています。そしてそれらは、数ある解釈の中の一つなわけです。間違っているとは言えません。けれど、それが唯一絶対に正しいとも言えないのではないでしょうか。

 つまり、「聖書だけ」というのは、「自教派の読み方に従って聖書だけを読む」ということになります。

・教会と個人のキョリ感

 それは、信徒と教会のキョリを限りなく縮めていきます。そして他教派とのキョリを限りなく遠ざけていきます。

 一つの教会にずっと通い続ける、仕え続ける、というのは良いことだと思います。何も否定されることではありません。ただ、それが高じて、「この教会だけが正しい」「他は間違っている」と考えるとしたら、それは少なからず問題だろうと私は思うのです。エキュメニカルの観点からみても、そうでしょう。自分たちの正当性だけ主張していたら、当然ながら孤立していくことになりますから。

 一つの教会で教会生活を送ることと、キリスト教について学ぶこととは、本質的に違うと私は思います。毎週礼拝に出席して説教を聞いても、広義のキリスト教について学んだとは言えません。どちらかと言うと、教会生活はキリスト教の「実践」だと思います。「学習」はまた別に捉えるべきだと思いますね。
 その意味で、教会とのキョリ感が近すぎるというのは、「実践」だけで「学習」がない状態、とも言えます。もちろん当人は「勉強しているつもり」なのですが、そのへんの事情は、前述の通りです。

 キリスト教において「実践」が大切なのは言うまでもありません。しかし「実践だけ」だといろいろ弊害が出てきます。つまり自分の教会とのキョリが近すぎると、いろいろ害が生じてくるわけです。

 キリスト教の勉強と必ずしもイコールではありませんが、キリスト教関連の書籍を読むのはいいことだと思います。やはり知識が広がるし、視界が開ける感じがします。読む前と後では全然ちがう、ということも少なくありません。
 もちろん本と言ってもイロイロあるのですが、とりあえず興味関心のあるものから手に取っていいんじゃないかなと思います。これが良いとかあれがダメだとか、そういうのは自分で読んで経験してみるのが一番です。あんまり一つの教派に偏った本ばかり読むのもアレですですけれど。

 ただ、そもそもの入り口として、イロイロな本を気軽に読めるというのは、自分の教会と適切なキョリが取れていないと、なかなかできないと思います。教会とのキョリが近すぎると、他教派というか、キリスト教界全体に関心を持ちづらくなるからです。だから(一概には言えませんが)どれだけキリスト教書籍に関心を持てるかというのは、自分と教会とのキョリを測る一つのパロメータになるのではないかな、と私は思います。
 あ、単に読書嫌いだというお方はその限りではありませんが。

2017年3月18日土曜日

教会と個人のキョリ感

 前2回にわたって、『キリスト教のリアル』の書評を書きました。
 同書を読み終えてしばらく経ちますが、今でも考えさせらるのは、「よその教会のことはわからない」というクリスチャンの現状についてです。これについては、前回の記事に書きました。

 もちろん、よそのあらゆる教会について、詳しく知っている必要はありません。それはそれで大変なことになってしまいますから。しかし、教派間の「ちがい」とか、概要については、ある程度知っておいた方がいいと思うわけです。自分の教会のことしか知らなくても、教会生活なり信仰生活なりを送ることはできます。けれど(多少言い過ぎかもしれませんが)「キリスト教」を十分理解しているとは、言い難いのではないでしょうか。

 では、どうしたら良いのでしょう。一人一人が「よその教会(教派)」について知識を得て、一括りにできない「キリスト教」の多様性を知り、「自分の教会(教派)」をある程度客観的にみられるようになれれば、良いのではないかな、と私は思います。そのためには、個人個人の「勉強」が欠かせないのではないでしょうか。

・でも、勉強ならしてますけど・・・?

「勉強」の話になると、「聖書の勉強ならしてますけど」と言う人がいると思います。結構なことだと思います。
 たしかに、毎日聖書を読み、黙想し、礼拝で説教を聞き、教会のバイブルスタディに参加し、方々のカンファレンスに行くような、熱心な人が少なくないと思います。自身のブログやSNSアカウントで、聖書研究を展開している人もいます。

 しかし私がここで言う「勉強」とは、そういうものではありません。

 教会内のバイブルスタディや、教派単位で開かれるカンファレンスは、それはそれで知識を得る機会ではあるでしょう。しかしあくまで教会内(教派内)で統一されている教えなり聖書解釈なりに基づいた知識を得ることになります。自教会への帰属意識を高める効果はあるでしょうが、他教派について知る機会とはなりません。
 個人的な聖書研究にも同じことが言えます。なぜならその研究の仕方が、自教会で教えられている聖書理解に基づいているからです。研究自体が悪いと言っているのではありません。他教派について理解する機会にはならない、と言っているのです。

 このように、「バイブルスタディ」と「キリスト教学習」とは分けて考えられるべきだと思います。前者は(教派的な)主観性を強め、後者は客観性を強める、と言うことができるかもしれません。しかし、しばしば混同されることがあるようです。

・何をもって「間違っている」と言えるんでしょう・・・?

  原理主義的な教会(クリスチャン)に顕著な気がしますが、「自分の教会(教派)こそ正しい」という主張が時々見受けられます。つまり他の教派は全部(どこかで)間違っている、というわけです。あるいは公にそういうことを言わなくても、教会内では(牧師が)明確に言っている、ということがあります。

 個々人のクリスチャンの議論においても、前提として他教派を認めていないんだなあと思わせる発言が見受けられます。
 たとえばですが、福音派・聖霊派あたりには、カトリックを毛嫌いしている人が多いようです。理由は偶像崇拝しているからとか、マリアを拝んでいるからとか、聖人を拝んでいるからとかです。カトリック信徒を罪人だとか、悪魔だとか呼ぶこともあります。でもそれは、古い知識に基づく誤解だと言わざるをえません。カトリックについて少しでも学べばわかることですが、彼らは「象」を記念や象徴として、あるいは視覚的な信仰表現として、使用しているわけです。物体そのものを拝んでいるのではありません。マリアや諸聖人を「神」として拝んでいるのでもありません。そうでなく、言うなれば彼らを信仰の先輩として、尊敬の対象として、見ているわけです。カトリックも時代を経て刷新しているのです。

 そういうことを知らないで、カトリックを前時代的だと断ずるとしたら、その方がよほど前時代的な気がします。

 と、いうのはほんの一例です。ですがこのように、「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人たちには、そもそも他の教派に対する正しい理解がない、という場合があります。実はよく知らないのに、あるいはイメージとか伝え聞いた話だけで、ほとんど盲目的に「間違っている」と考えているのです。

 もし身近に、他教派を批判する人がいるなら、各教派のどこが間違っているのか、何がダメなのか、具体的に尋ねてみて下さい。果たしてどこまで答えられるでしょうか。いろいろ難しそうなことを言って誤魔化すかもしれません。そしてそれ以前に、そもそもの話、「他の教派」と言っても具体的にどういう教派があるのか、ちゃんと知らないかもしれません。

 余談ですが、「批判する人」は2種類に分かれると私は考えています。一つは「その分野に詳しい人」です。詳しく知っているがゆえ、何が問題なのか明確になっており、結果的に批判に至るのです。もう一つは「表面的にしか知らない人」です。ほとんど感覚的な動機で批判をしてしまいます。しかも聞く耳がないという、なんともはやな状態です。

・知ることのメリット

 他教派について知ることは、そのまま自分たちの教派を再発見することに繋がると思います。自分たちの教派が歴史的に、キリスト教界的にどこに位置しているのか、見えるようになってきます。また宗教的儀式、たとえば洗礼や聖餐についても、それらがどのように理解されているのか、どのような変遷をたどって現在に至っているのか、わかるようになります。それは信仰生活にとってプラスとなるでしょう。他教派の良さや、自教派の課題点も見えてくると思います。すると客観性が生まれ、むやみに批判することもなくなります。

「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人は、おそらく教会にベッタリなのだと思います。自分の教会を絶対視し、盲信しているわけです。教会とのキョリ感が、近すぎるような気がします。

 話はこの「教会とのキョリ感」に帰結すると思います。キリスト教についてもいろいろなことを広く知ることで、視野が広くなり、多角的に考えられるようになるでしょう。自分の教会だけ、とか、自分の牧師だけ、とか、そういう一極集中的な見方は、なんとも窮屈ではないでしょうか。

 というわけで次回に続きます。

・関連書籍

2017年3月15日水曜日

【書評】『キリスト教のリアル』・その2

・たまたま行った教会

 最近読んだ書籍『キリスト教のリアル』(著・松谷真司)から2回目。
 今回は本書の第1部から、気になった部分を抜き出して、考えてみたいと思います。
 ではさっそく。
(以下引用)ーーーーーー

「カトリックがバチカンのローマ教皇庁を頂点とする、世界的な組織と教理の一貫性を公に保持しているのに対し、プロテスタントの場合は、ネットワークや組織が教派ごとに細かく分かれています。(中略)
 他にも東方正教会、聖公会などの教派があり、また同じプロテスタントの中にも改革派、ルーテル、バプテスト、メソジスト、ホーリネス、ペンテコステ派、ブレザレン、救世軍、無教会などと細かく分かれています。(中略)
 日本の場合、これらの教派を選んで入信するのは稀で、たまたま生まれ育った家庭や地域、教会、学校の縁でその教派に属することが多いようです。」

(引用終わり)ーーーーーー
 これはその通りだと思います。普通に日本人をやっていたら、「教会」と聞くと、ステンドグラスとかトンガリ屋根とか、パイプオルガンとかガウンの神父さんとかを連想するだけで、実は百以上の教派に分かれているなんて、知りようがありません。だから教会に行ったことのある人の大多数は、その教会がどんな系統のどんな教会なのかをあらかじめ知ったうえで、選択的に行ったのではないでしょう。それより、たまたま近所にあったからとか、親が通っているからとか、友人に誘われたからとか、たまたまイベントをやっていて入りやすかったからとか、そういう「偶然性」に左右されたはずです。たぶん「選んだ」という感覚はないでしょう。

・ファーストコンタクトだけど「唯一の」コンタクトになるかも

 これは仕方のないことではありますが、なかなか難しい問題も孕んでいるなあと思います。なぜなら、たまたま行ってみた初めての教会が、その人にとってキリスト教とのファーストコンタクトとなるだけでなく、多くの場合、「唯一の」コンタクトとなり得るからです。
 なぜかと言うと、初めて行った教会にそのまま通い続けることになると、他の教会(他の教派)に行く機会も必要もなくなるからです。そして教会は信徒に、他の教派のことを積極的に知らせようとか教えようとかしません。普通は。だから他の教会のことなんて何も知らない、という信徒ができあがるわけです(もちろんそうならない場合もありますが)。
 そして他の教派のことは一切知らないとしたら、その人の教会観なり信仰観なり「神観」なりは、その教会から教えられたもの「だけ」になります。
 それの何が問題かと言うと、本来キリスト教が持っている多様性や、キリスト教会の歴史や変遷を、知らないままになってしまう、ということだと思います。それは非常に狭い視野で「キリスト教」を理解していることになるのではないかな、と私は思います。

・狭まる視野

 もっとも、入り口がどうであれ、後から勉強して知識を身につければいいじゃないか、という考え方もアリだとは思います。そういう人も現にいます。ですが、現実的には、それは一個人の興味関心に大きく依存する話だと思います。つまり他教派について知る機会がどこかに大きく開かれていて誰でも簡単にそれを習得できる、という状況ではなく、あくまで個人が頑張って調べないとわからない、ということです。
 実際、どれだけの(一教会に籍を置いている)クリスチャンの方が、他の教派について詳しく知っているでしょう。教会の歴史について熟知しているでしょう。本書にも書かれている通り、「よその教会のことはわからない」という方がほとんどではないかと思います。私の実感としてもそうですね。

 ちょっと話がズレますが、以前コメントをいただいた中に、「教会に5年くらい通っているけれど神学なんて全然知らない」という人もいました。でもさして驚くことではありません。教会生活が始まると、それはそれで、なかなか勉強する時間がないのもまた事実だからです。

 もちろん知らないこと自体が、必ずしも問題になるわけではありません。ひとつの教会に何十年も通い続け、ひたすら黙して仕え続けて、人生を全うする方もおられます。それはそれで尊敬に値する生き方だと私は思います。

 しかし、たとえば人前で「キリスト教って◯◯なんだよ」「神様は◯◯なお方だよ」みたいなことを語る機会が多い人がそうだとしたら、いささか問題になると思います。その人が語る「キリスト教」や「神様」が、かなり部分的だったり、偏っていたりするからです。他の教派の人からしたら、「勝手にキリスト教を代表してくれるな」って話になりかねません。

・いきなりハードモード

 あるいは、キリスト教とのファーストコンタクトが、いろいろと縛りの多い原理主義的教会だったとしたら、どうでしょう。話をわかりやすくするためにちょっと極端に書きますが、教会で、たとえばこんなふうに言われるとします。

「日曜は毎週必ず礼拝に出席しなさい。病気でも信仰をもって来なさい」
「什一献金は絶対に毎月捧げなければなりません。神から盗むことになりますから」
「毎日1人には福音を語りなさい。時が良くても悪くてもしっかり語りなさい」
「たえず祈りなさい。文字通り24時間を祈りに捧げなさい」
「進学先、就職先、転居先ではクリスチャンであると最初に明言しなさい。この世と調子を合わせてはいけません」
「未信者との交際は避けなさい。霊的悪影響を受けますから」
「仏式の結婚式や葬式は避けなさい。燃香もいけません。偶像崇拝になりますから」
(その他もろもろ)

 さて、ここまで言う教会はさほど多くはないと思いますが(でも存在はします)、かなり厳しい「縛り」だと言えるでしょう。
 でもその教会「しか」知らないとしたら、その信徒にとってキリスト教とは「そういうもの」になります。それで疲れてしまって、もう教会なんて二度とごめんだ! みたいな気持ちになってしまったとしたら、その責任は、いったいどこにあるのでしょうかね。

 なんと言うか、買ってきたゲームをいきなりハードモードでプレイするようなもの、って気がします。

 そういう可哀想な事態にならないために、本書みたいな書籍が一般に読まれ、少なくとも「プロテスタントは沢山の種類に分かれている」くらいの知識がスタンダードになってくれれば、また状況は変わるのではないかなあと思うのでありました。

 これについて何か良いアイディアがあれば、ぜひ教えて下さい。ということで今回はこのへんで。

2017年3月13日月曜日

【書評】『キリスト教のリアル』

 ぜんぜんタイムリーではありませんが、『キリスト教のリアル』(著・松谷真司)を読んでみました。出版されたのが1年くらい前で、ずっと興味がありましたが、諸事情あってスルーしていました。
 ではさっそく。

・書籍紹介(裏表紙から)
 日本人の0.8%しか知らない「キリスト教」
 近年、様々なメディアでキリスト教が取り上げられているが、その多くが「(日本における)現場・現実」と接点のない、「歴史や教養」のひとつとして語られることが多い。日本に約0.8%いると言われているクリスチャンや牧師・神父の現状を書いた、「キリスト教の今」を知るための一冊。

・クリスチャンの方が楽しめるかも
 内容はだいたい上記の通りです。「キリスト教の今」を知らない人向けに平易に書かれています。つまりノンクリスチャン向けかと。でも本文にもある通り、「よその教会のことは知らない」というクリスチャンの方も多いと思いますから、たぶんクリスチャンが読んでも面白いと思います。むしろ別の教派の実情を知って「へえ、そうなんだ」という発見があるのは、クリスチャンの方かもしれません。

 第2部の対談のメンバー(人選)がまたバランスとれてて面白かったです。
 カトリックから晴佐久昌英さん、福音派から森直樹さん、ルーテルから関野寛和さん、会衆派から川上咲野さん、という絶妙感。対談中、晴佐久さんと森さんがケンカになるんじゃないかと読んでてヒヤヒヤする部分がありましたが、そんなことは全くありませんでした。森さんがすごく冷静で、「福音派は◯◯って言ってますよ」みたいに(自分の所属する教派なのに)距離を置いているのが良かったです。個人的には。

 ただ「キリスト教の今」と言うより、厳密には「牧師・神父の今」と言うべき内容かな、と思いました。対談のメンバーが牧師・神父なのでそれは仕方ないのですが、いわゆる「教会」や「クリスチャン(一般信徒)」のリアルが書かれているわけではありません。あくまで牧師・神父の目線で語られているわけですね。

 だから逆に言うと、牧師・神父の諸事情がわかって面白いです。普段のスケジュールとか休日とか、給料とか、結婚とか家族とか、世襲とか定年とか、普段(普通に教会生活を送っていると)なかなか聞けない話ばかりです。そういう意味では、やっぱりクリスチャン向けなのかな? とも思います。

・感心したセリフ
 個人的に傍線を引きたくなったセリフを一箇所紹介します。
 牧師・神父の数が減少傾向にあり、必然的に教会数も信徒数も減りつつある、という下りで晴佐久さんが言ったのがこれ。

「(日本の教会は)それこそ翻訳の福音のようなものを必死に学んで、形式的に語って、これが正しいって言い張って。誰も目の前で救いの喜びを感じていないのに、理解力のないお前が悪いみたいな感じの、一方通行の語りだけだから。果たしてそれをキリスト教と読んでいいかどうか疑問があります」

 この「一方通行の語り」というのが、けっこう多いんじゃないかなあと同意するところです。一方的に語っておいて、相手が同意しないと、「理解力がない」「霊的に開かれてない」「悟る力がない」みたいなことを平気で言う教会指導者がいるなあと。

・笑えたセリフ
 電車の中で読んでて思わずクスッと笑ってしまった(恥ずかしかった)箇所も紹介しましょう。
 牧師・神父の「趣味」という話題で、関野さんの趣味がキックボクシングだとわかった後の下り。

森「(自分の教派では)やっぱりまじめな牧師たちが多いので、キックボクシングが趣味なんてあり得ない(笑)」
関野「でも、牧師は人を殴れないじゃないですか」
松谷「牧師じゃなくても人は殴れないですよ」

 この空気感はぜひ本書を読んで味わってほしいのですが、松谷さんのツッコミがかなり鋭くて、時々笑えます。
 ちなみにこの後、すかさず川上さんがシレッと別の話題を始めているあたりがまた良いですね。

・シメがほのぼのしてて良い
 最後のセリフが私はけっこう好きです。またしても晴佐久さんの言葉なのですが、

 みんな一緒にいるなら、地獄も天国になっちゃうんじゃないですかね。

 これは教義的にどうこうという類の話でなく、文脈の中で冗談ぽく語られた言葉です(だから教義的なツッコミは勘弁して下さい)。でも、「信じたら天国、信じなければ地獄」というステレオタイプな(そしていささか窮屈な)宗教観を押し付けられるより、ずっとほのぼのしてて良いなあと思います。しかも司牧からこういう言葉が出るってところが新鮮ですね。

 いずれにしても、ここで紹介したのは本編のごく一部です。しかも対談のリズミカルな雰囲気はまったく紹介できていません。対談の文脈の中でこそ生きてくる言葉もあると思いますので、気になる方はぜひ、本書を手に取られたら良いかと思います。

2017年3月9日木曜日

「教会を出た人」って何

 驚くべきツィートを見てしまったので貼っておきましょう。

https://twitter.com/Santou/status/838769129167343616

「教会を出た人の話を聞いても意味がない」ということでしょうか。「(それに)どれだけ振り回されてきたことか」というのがその理由のようです。「教会を出た人」にたくさん振り回されたから、「もうそんな連中の話は聞かなくていい」ということらしいです。
 皆さんはこれを読まれてどう感じたでしょうか。

 私はかつてものすごい原理主義者で、教会運営にも関わっていました。だから、この人の言わんとすることはわかります。「教会を出た人」の中には「変な人」もいて、あることないこと、教会の文句を言いふらす場合があるわけです。それが的を射た指摘であるなら別ですが、なんの根拠もない、あるいは真実でないことが語られることがあり、教会としては正直言って「迷惑」なのです。だからそういう話「だけ」を聞いて教会についてあれこれ推測されても、まあ困るわけですね。

 それはわかります。

 でも、「教会を出た人」(なんかこの表現自体が差別的な気もしますが)について語るとき、絶対に外してはいけないのが次の点です。

①「教会を出た人」を一括りにしてはいけない

  もちろん、教会について全く真実を語らない「変な人」たちの話をマトモに聞いても、仕方がないでしょう。彼らは悪意をもって教会を貶めようとするので、 どちらかと言うと、教会が戦わなければならない相手です。
 ただし、一個人があれこれ言いふらすのは限度があるし、そういう人は見るからに「変な人」だとわかるので、そもそもの話、さほど相手にする必要がないのもまた事実です。要は「ほっとけばいい」わけです。そういう人の話「だけ」を聞いて「じゃあその教会は悪い教会なのかも」と早急に判断する人がいるとしたら、それはその人自身の問題でしょう。一方の意見だけ聞いて何かを判断するのは、あまり良いことではないからです。

 しかし「教会を出た人」は、そういう人たちばかりではありません。いたって「常識的な人」たちも含まれています。だから「教会を出た人の話を聞いても意味がない」というのは、明らかに言い過ぎだと私は思いますね。ちなみに「教会を出た人」という、どこか差別的な、落伍者的な表現を使うのもどうかと思います。あくまで「内側からの視点」しか持ち合わせていない証拠ではないでしょうか。

 で、「教会を出た人」の中には、常識人もいます。
 いくつかパターンが考えられますが、たとえば就職は転勤や入学(卒業)等で、「その地域を離れることになった人」たちがいます。彼らは当然ながら、べつに教会を出ようと思って出たわけではありません。彼らは通常、教会について良いことを言うので、問題になることはありません。
 もう一つは、その教会の方針や考え方、運営などが「合わない」と感じた人たちです。ある程度リテラシーの高い人たちです。なんでも鵜呑みにしない、考える力がある方々というか。彼らは「教会を出る」にしても、ちゃんと挨拶するなど、筋を通したうえで「出た」はずです。あるいは筋を通そうとしたはずです。でもそういう人たちは、仮にその教会に問題があると思っていても、言いふらすことはしません。下手に批判もしません。
 教会が「合わない」と思った人のもう一つのパターンに、精神的に何かの障害を抱えている人たちがいます。重度の精神障害というより、パニック障害や不安障害、各種の神経症、各種の依存症、軽度うつ病などを持つ人たちです。障害の程度にもよりますが、教会として彼らを受け入れるには、ある程度専門的な知識が必要です。対応も慎重にしなければなりません。でもそういうのを知らない教会(牧師)だと、まあいろいろトラブルが起こり得るわけです。教会としては「できるだけの対応はした」かもしれません。しかし個々の精神障害に対する配慮が十分だったかと言えば、「受けた側」からすれば、十分ではなかったと言わざるを得ないことがあります。大いに不満が残った、という場合もあるでしょう。
 教会が「合わない」と思った人の3つ目のパターンに、本当に教会で酷い目に遭った、という場合が考えられます。被害の種類や程度は様々でしょうが、たとえば理不尽な献金を要求されたとか、差別的な扱いを受けたとか、酷くなると暴力を振るわれたとか(刑事告訴が必要なレベル)、いずれにせよ「ここはとんでもない教会だ」と言わざるを得ない人たちです。
 また4つ目の可能性として、これはきっと潜在的に多いのではないかと思いますが、「その教会で何かしらイヤな思いをした」という人もいると思います。これは明らかな被害と言うほどでなく、感情的にちょっとこじれたとか、牧師とどうも相性が悪くて疲れてしまったとか、信徒どうしで揉めて行きづらくなったとか、そういう感じ。教会批判をしたいわけではないけれど、何かスッキリしないものがある、という人たち。

 というわけで「教会を出た人」について整理すると、次にようになります。
・変な人(悪意がある人)
・その地域を離れることになった人
・リテラシーの高い人
・精神障害のある人
・本当に教会で被害に遭った人
・被害じゃないけどイヤな思いをした人

「教会を出た人」と一口に言っても、これだけ種類があるのです。他にもあるかもしれません。なのに全部一括りにして、「教会を出た人の話を聞いても意味がない」なんて、よく言えたもんだと思います。そういう意味で、冒頭で「驚くべきツィート」と表現したわけです。このツィート主のことは全然知りませんし、興味もありませんが、もし教会で指導的立場にあるなら、嘆かわしいことだなあと私は思います。

 それはともかく、これらの種類の中で、いわゆる「教会批判」をする可能性が高いのは、「変な人」と「精神障害のある人」と「本当に教会で被害に遭った人」でしょう。あと「リテラシーの高い人」と「被害じゃないけどイヤな思いをした人」も、おおっぴらに批判することはなさそうですが、やはり思うところがあるので、機会があれば口を開くと考えられます。
 それらの批判の中から「変な人」のは除外していいと思いますが、あとの批判は、無視してはいけません。なぜなら、

②「教会を出た人」の話は、教会の糧となるはず

 だからです。
 当然ながら教会は「完璧」ではないです。何かしら問題というか、課題があるでしょう。そこで「うちは完璧じゃないから」と開き直るなら別ですが、何かしら改善する余地が、どの教会にもあると思います。でも改善する余地は、中にいるとわからないものです。むしろ何が問題なのかすらわからなくなっていることが多いです。
 でも新しく来た人とか、何らかの助けを必要とする人(精神障害がある人や、深刻な悩みがある人など)とかには、その教会の「良さ」とともに、「欠け」がよく見えるものです。また長年信徒をやってきた人の中にも、ずっと何かを我慢してきた人がいると思います。
 そういう人たちの批判というか意見には、的を射たものが少なくありません。むしろかなり鋭い、本質を突いた指摘もあると思います。

 そういう指摘は、教会にとって非常に良い糧になると私は思います。改善するチャンスを得るわけですから。それを無視するのは、かなりモッタイナイのではないでしょうか。

 でも現実には、いっさいの指摘を「教会批判だ」と断罪する教会指導者が多いです。冒頭のツィートも本質的にはそうだと思います。 彼らは「教会批判は罪だ」と声高に言います。ですが、聖書のどこにそんなことが書いてありますか? あるいは聖書を都合よく解釈してませんか? いっさいの批判を受け付けないとは、教会ってそんなにエライんですか?

 そういう指導者らは、自教会でのバイブルスタディ―とか祈祷会とかの場では、「教会にも問題はあります。どうぞ祈って下さい」みたいなことを謙遜ぶって言います。でもいざ実際に問題点を指摘されると、「それは教会批判だ!」「さがれ、サタン!」などとまくし立てます。なんか、ダブルスタンダードな気がするんですが。

③「教会を出た人」という表現の背後にあるもの

 私は「教会を出た人」という表現に違和感を覚えます。
 もちろん字面の意味するところはわかります。様々な事情があって、多くの場合何らかの不満を抱えて、その教会に「行かなくなった人たち」のことでしょう。それを「出た人」と表現するのは、どこか排外的な、落伍者的な意味合いがあるように思えてなりません。

 私の知っている牧師にも、これと同じような言い方をする人がいました。彼は「教会を出た人」を、徹底的に排除しようとしました。たとえば信徒のAさんが何かのトラブルで教会に来なくなると、教会中からAさんの痕跡を消しました。Aさんが映っている写真を外し、Aさんが書いたものを破棄し、信徒どうしでAさんの話をするのを禁じました。まるで初めからAさんなんて「いなかった」みたいに。教会にいた頃は、Aさんと牧師はあれほど親しくしていたのに。

 親しい信徒、いろいろ世話した信徒、ともに苦労した信徒・・・であっても、一度揉めて教会に来なくなると、牧師にとって一気に「教会を出た人」になってしまう。
 そういう態度が何を意味するか、わかるでしょうか。
 その教会には、その牧師の「目にかなった人」しか居られないのです。あるいは誰もが、その牧師の「目にかなった人」になろうとするのです。 そうできない人は居づらくなって、教会に行かなくなり(行けなくなり)、存在を削除されるのです。それが「教会を出た人」という表現の背後にひそむ、いわば教会(牧師)の闇だと私は考えています。

④私が体験した「安心感」

 悪い話ばかりだったので、最後にちょっと良い話。
 私が一時期お世話になった某教会があります。そこの牧師を仮にB先生としましょう。B先生はまったく気取らない、いつも自然体な方でした。私はある期間、B先生の教会に通わせてもらいました。その間、個人的な話はほとんどしませんでした。何度かメールのやり取りをしたくらいです。そしてほとんど何の相談もせず、その教会には行かなくなりました。要するに私自身、「教会を出た人」になったわけです。

 それから数年後、ふとB先生の教会にお邪魔してみました。何を言われるかな、無視されるのかな、などと内心ドキドキしていたのが正直なところです。でも再会するとB先生は何事もなかったように「あーお久しぶりですー」と明るく言ってくれました。まるで昨日まで会っていたような距離感で。
 私がすごく安心したのは、言うまでもありません。B先生にとって私は「教会を出た人」ではなかったのでした。

2017年3月5日日曜日

議論に影響する、論理以外のもの

 原理主義vsリベラルの神学的議論を時々みるけれど、残念ながら(そして相変わらず)不毛だなあと思うことが多い。

 もちろん双方とも、一生懸命というか、自らの信条に真剣なのはわかる。私自身、長らく原理主義をやってきたし、今はリベラルっぽい立場にいるから、両方の気持ちがわかる。どれだけ自分の考えを相手に訴えたいか、主張したいか、よくわかる。わかるだけに、それが不毛な結果に終わるのは見ていてつらい。

 全部が全部というわけではないけれど、原理主義vsリベラルの議論は、大抵はどこにも着地しない。双方の主張がすれ違い、あるいは平行線をたどり、あるいは論点が次第にズレていく。気づくと「あれこんな話だったっけ」みたいなことも少なくない。結論のないまま、あるいは終了の合図のないまま終わっていることもある。

 たとえばこんな感じ。
(あるトピックについて議論している最中に)
A「それはあなたが不勉強なだけでしょう」
B「ええ、不勉強ですけど何か?」
A「いやいや不勉強でいいわけないでしょう」
B「あなたみたいに頭でっかちになるよりマシです」
A「そんなふうに無知を自慢されても・・・」
B「そもそもあなたの発想が突飛なのです。異端ですか」
A「自分と違う意見だからって何でもかんでも異端にしないで下さい」
B「私がいつ何でもかんでも異端にしましたか?」
A「いや何でもかんでもは言葉の綾です」
B「おかしな言葉遊びはやめて下さい」
A「いやいや・・・(ため息)」
B「ほら、都合が悪くなるとこれだ(ため息)」

 これはちょっと冗談っぽく書いたんだけど、はじめのトピックはどこへ行ったんだろう、というくらい脱線している。でも似たようなことが現実に起こっているから、あまり笑えない。

 繰り返すけれど、全ての議論がそうだと言ってるのではない。けれどそういうのがたいへん多くて、不毛だなあと思うことが多いのである。

 当然ながら議論に必要なのは「論理」である。主張が筋道立っていて論理的でないと、そもそも議論は成立しない。
 しかし、じゃあ論理「だけ」あれば議論になるかと言うと、そうではないと思う。

 時に議論を大きく邪魔するものに、「感情」がある。「感情」は筋道が通っているか、論理的に正しいか、だけでは納得しないことがある。あるいは逆に、筋道が通っていなくても納得してしまうこともある。その意味で、「感情」は「論理」を超えているのかもしれない。

 たとえば自分が堅く信じている事柄を、相手が頭から全否定してくる。するとムキになって反論したくなるだろう。相手がこう言ったらこう返して、こう言ったらこう返して、という具合に、とにかく反論し続けなければ気が済まなくなる。話が脱線しようが何だろうが、相手をやり込めるまで止められなくなる。

 そういう状態になってしまったら、もはや論理でなく感情に支配された「言い争い」であろう。論理はどこかに行ってしまって、相手に反論すること自体が目的になってしまっている。もうどこにも着地できない。

 また「感情」が影響するのはネガティブな方面だけではない。
 たとえばAさんとBさんが議論していて、私がそれを聞いているとする。私はAさんの友達で、同じ教会のメンバーでもあり、気心の知れた間柄である。だからAさんとBさんが議論したら、私がAさんに肩入れし、Bさんに敵対的になるのはごく自然なことであろう。
 でもその場合、私はひどく客観性を欠いていて、双方の主張を論理的に評価できなくなっている。もし私がその議論に参加したら、単にBさんを個人攻撃するだけになってしまうだろう。

「感情」が「論理」を邪魔している状態。

 たぶん議論においてこれほどまでに「感情」が厄介な存在になるのは、我々日本人がディベートとか討論とかに慣れ親しんでいないからであろう。
 学校によって違うかもしれないけれど、おそらく多くの中学校や高校や大学は、ディベートをあまりやらない。私自身そうだった。だからあくまで論理的な、できるだけ感情を排した、個人攻撃に走らない、そして相手の意見をしっかり聞くことができる、機能的な(そして模範的な)議論というものを、知らないのだと思う。

 ではどうしたらいいのか、という話だけれど、やはり議論には建設的な関係が必要だと思う。
 自分と違う意見の人間は、「敵」ではない。むしろ自分に気づきを与えてくれる存在である。という共通理解が必要であろう。

 そして共通のゴールである。その議論の目的は何なのか。相手をやりこめ、貶め、自分を正当化したい、というのでは共通のゴールにならない。やはり議論を通して考えが深まったり、それまでなかった視点を持てたり、見識が広がったりすることが、双方にとって有益な議論なのではないだろうか。

 と、言うのは簡単なんだけどね、というお話。

2017年3月3日金曜日

【書評】『パウロ 十字架の使徒』

 前回の書いた通り、私はこの3年ほど勤労学生をしていて、この3月で卒業する。だから3年間、ほとんど学校関係のテキストしか読んでこなかった。ずっとキリスト教関連の書籍を読みたいと思っていたけれど、我慢していた(そんな余裕もなかった、というのが正直なところである)。
 それでようやく卒業に漕ぎつけ、重要な試験も終わったので、少し前から読みたかった書籍をさっそく購入した。今回紹介したい、『パウロ 十字架の使徒』(青野太潮著・岩波新書)である。

 本書の魅力は、著者が使徒パウロについて綿密に研究し、その結果としてパウロの神学を「十字架の逆説」であると定義している点にあると思う。どういう「逆説」かと言うと、たとえば「イエスの十字架による殺害」が「神の栄光」と結びつき、「キリストの弱さ」が「強さ」と結びついている、というもの。それはキリスト自身が山上の垂訓で述べている、「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」という「逆説的な」教えとも通じている。つまり、パウロはキリストの教えを正しく理解していた、というのである。

 なかなか目からウロコな本であった。

 ただちょっと難解な部分もあって、私は理解するまで何度か読み直した。それでも正しく理解できているかちょっと不安なのだけれど、その理解を確認するという意味もこめて、ここに内容を(かいつまんで)紹介したい。特に難解だった「贖罪論の危うさ」のくだりを解説してみたい。

 ■贖罪論の危うさ

 本書の第4章に「贖罪論の危うさ」という項目があり、大変興味深かった。しかしこの項目を理解するには、第3章あたりから読まなければならない。要約すると、「贖罪」という概念においては、「イエスの十字架」と「イエスの死」とは厳密に区別しなければならない、ということ。もちろんキリストは十字架にかかって死なれたので、それらは一連の出来事だったはずだ。しかし著者によると、「イエスの十字架」は「イエスの殺害」を意味し、「イエスの死」は「イエスによる贖罪」を意味する。この「十字架」と「死」は交換不能で、つまり「十字架」は「贖罪」とは結びつかない、という。

 どういうことかと言うと、もし「十字架刑」を「贖罪」のための手段と考えるなら、それは旧約聖書的・律法的な解釈である、ということ。つまり律法を守れないユダヤ人が、その罪の身代わりとして動物を「生贄」として捧げたのと同じように、キリストもまた「十字架刑」で「生贄」となった、という考え方になる。
 これのどこがおかしいの? と不思議に思われるかもしれない。私もはじめは不思議に思った。
 でも何度か読み直すうちに、著者の言わんとすることが徐々に見えてきた。
 以下、私の解釈。

 キリストは古い契約(律法)でなく、新しい契約(恵み)を立てられた。その新しい契約は、古い契約に従って立てられたのではなかった。しかし「十字架刑」を「生贄」と考えるとしたら、それは古い契約に従うことになる。この場合「十字架刑」は、「罪」に対する「罰」ということになってしまう。

 しかし「十字架刑」はあくまで「イエスの殺害」方法であった。その意味するところは、「木にかけられた者は呪われる」という律法にある。この段階では、まだ新しい契約になっていない。だから「十字架刑」は「恵み」でなく、「贖罪」でもない。
 十字架刑を受けるキリスト自身は、なぜ自分が殺されなければならないのかわからなかった、と著者は書いている。引用すると、「十字架上のイエスの最期の絶叫は、これから起ころうとしている自らの運命をすべて知り尽くしている者の言葉ではない」(P180)

 つまり、「この十字架刑によって人類が贖われ、自分も復活できる」とキリストがあらかじめ知っていて、そのうえで「自分はみんなのための生贄になるんだ」と達観していたのではなく、むしろ絶望に打ちひしがれていた、ということ。このへんは、ぜひ本書で確かめてほしい。

 そのように、「十字架刑」は「イエスの殺害」であった。キリストは十字架で、律法による「呪われた者」となった。ここまでは、旧約の律法の中の話。まだ「贖罪」はなされておらず、当然ながら「復活」もない。「生贄」は新約聖書的な「贖罪」にはならない、ということ。

 だから「十字架刑」をそのまま「贖罪」「復活」と考えてしまうと、新約時代であるにもかかわらず、旧約的思考をそのまま持ち込むことになる。たとえば「目には目を、歯には歯を」みたいな、「悪いことした奴には罰をくわえろ」という考え方になってしまう。そこに「許し」はなく、「恵み」もない。

 筆者はこれを「ユダヤ教以来の贖罪論」と言っていて、「危険だ」としている。

 どう危険かと言うと、たとえば「天けい論」に発展してしまうことがある。本書の例を紹介すると、「関東大震災は堕落した東京都民に対する適当な天罰であった」という内村鑑三の言葉。「人々が堕落したから、罰を与えられなければならなかった」というもの。それはやはり旧約的・律法的だと私は思う。

■まとめ

 上記は、本書の内容のごく一部である。
 本書は全4章から成っていて、前半2章はわりと容易に理解できる。パウロの生涯と彼の書簡について論理的に考察されていて、大変勉強になった。後半2章はいよいよ「十字架の神学」「パウロの思想と現代」という難解なパートに入っていく。ここはぜひ繰り返し読んでいただきたいと思う。そして私の解釈に誤りがあるなら教えていただきたい。私自身、まだまだ本書の内容をすべて把握できたとは思えていない。

 著者である青野太潮氏は、西南学院大学の名誉教授をされていて、平尾バプテスト教会の協力牧師もされているということ。こういう方がキリスト教界にいらっしゃるならば、キリスト教界の未来は決して暗くはないのではないかな、と私は思う。