2017年3月15日水曜日

【書評】『キリスト教のリアル』・その2

・たまたま行った教会

 最近読んだ書籍『キリスト教のリアル』(著・松谷真司)から2回目。
 今回は本書の第1部から、気になった部分を抜き出して、考えてみたいと思います。
 ではさっそく。
(以下引用)ーーーーーー

「カトリックがバチカンのローマ教皇庁を頂点とする、世界的な組織と教理の一貫性を公に保持しているのに対し、プロテスタントの場合は、ネットワークや組織が教派ごとに細かく分かれています。(中略)
 他にも東方正教会、聖公会などの教派があり、また同じプロテスタントの中にも改革派、ルーテル、バプテスト、メソジスト、ホーリネス、ペンテコステ派、ブレザレン、救世軍、無教会などと細かく分かれています。(中略)
 日本の場合、これらの教派を選んで入信するのは稀で、たまたま生まれ育った家庭や地域、教会、学校の縁でその教派に属することが多いようです。」

(引用終わり)ーーーーーー
 これはその通りだと思います。普通に日本人をやっていたら、「教会」と聞くと、ステンドグラスとかトンガリ屋根とか、パイプオルガンとかガウンの神父さんとかを連想するだけで、実は百以上の教派に分かれているなんて、知りようがありません。だから教会に行ったことのある人の大多数は、その教会がどんな系統のどんな教会なのかをあらかじめ知ったうえで、選択的に行ったのではないでしょう。それより、たまたま近所にあったからとか、親が通っているからとか、友人に誘われたからとか、たまたまイベントをやっていて入りやすかったからとか、そういう「偶然性」に左右されたはずです。たぶん「選んだ」という感覚はないでしょう。

・ファーストコンタクトだけど「唯一の」コンタクトになるかも

 これは仕方のないことではありますが、なかなか難しい問題も孕んでいるなあと思います。なぜなら、たまたま行ってみた初めての教会が、その人にとってキリスト教とのファーストコンタクトとなるだけでなく、多くの場合、「唯一の」コンタクトとなり得るからです。
 なぜかと言うと、初めて行った教会にそのまま通い続けることになると、他の教会(他の教派)に行く機会も必要もなくなるからです。そして教会は信徒に、他の教派のことを積極的に知らせようとか教えようとかしません。普通は。だから他の教会のことなんて何も知らない、という信徒ができあがるわけです(もちろんそうならない場合もありますが)。
 そして他の教派のことは一切知らないとしたら、その人の教会観なり信仰観なり「神観」なりは、その教会から教えられたもの「だけ」になります。
 それの何が問題かと言うと、本来キリスト教が持っている多様性や、キリスト教会の歴史や変遷を、知らないままになってしまう、ということだと思います。それは非常に狭い視野で「キリスト教」を理解していることになるのではないかな、と私は思います。

・狭まる視野

 もっとも、入り口がどうであれ、後から勉強して知識を身につければいいじゃないか、という考え方もアリだとは思います。そういう人も現にいます。ですが、現実的には、それは一個人の興味関心に大きく依存する話だと思います。つまり他教派について知る機会がどこかに大きく開かれていて誰でも簡単にそれを習得できる、という状況ではなく、あくまで個人が頑張って調べないとわからない、ということです。
 実際、どれだけの(一教会に籍を置いている)クリスチャンの方が、他の教派について詳しく知っているでしょう。教会の歴史について熟知しているでしょう。本書にも書かれている通り、「よその教会のことはわからない」という方がほとんどではないかと思います。私の実感としてもそうですね。

 ちょっと話がズレますが、以前コメントをいただいた中に、「教会に5年くらい通っているけれど神学なんて全然知らない」という人もいました。でもさして驚くことではありません。教会生活が始まると、それはそれで、なかなか勉強する時間がないのもまた事実だからです。

 もちろん知らないこと自体が、必ずしも問題になるわけではありません。ひとつの教会に何十年も通い続け、ひたすら黙して仕え続けて、人生を全うする方もおられます。それはそれで尊敬に値する生き方だと私は思います。

 しかし、たとえば人前で「キリスト教って◯◯なんだよ」「神様は◯◯なお方だよ」みたいなことを語る機会が多い人がそうだとしたら、いささか問題になると思います。その人が語る「キリスト教」や「神様」が、かなり部分的だったり、偏っていたりするからです。他の教派の人からしたら、「勝手にキリスト教を代表してくれるな」って話になりかねません。

・いきなりハードモード

 あるいは、キリスト教とのファーストコンタクトが、いろいろと縛りの多い原理主義的教会だったとしたら、どうでしょう。話をわかりやすくするためにちょっと極端に書きますが、教会で、たとえばこんなふうに言われるとします。

「日曜は毎週必ず礼拝に出席しなさい。病気でも信仰をもって来なさい」
「什一献金は絶対に毎月捧げなければなりません。神から盗むことになりますから」
「毎日1人には福音を語りなさい。時が良くても悪くてもしっかり語りなさい」
「たえず祈りなさい。文字通り24時間を祈りに捧げなさい」
「進学先、就職先、転居先ではクリスチャンであると最初に明言しなさい。この世と調子を合わせてはいけません」
「未信者との交際は避けなさい。霊的悪影響を受けますから」
「仏式の結婚式や葬式は避けなさい。燃香もいけません。偶像崇拝になりますから」
(その他もろもろ)

 さて、ここまで言う教会はさほど多くはないと思いますが(でも存在はします)、かなり厳しい「縛り」だと言えるでしょう。
 でもその教会「しか」知らないとしたら、その信徒にとってキリスト教とは「そういうもの」になります。それで疲れてしまって、もう教会なんて二度とごめんだ! みたいな気持ちになってしまったとしたら、その責任は、いったいどこにあるのでしょうかね。

 なんと言うか、買ってきたゲームをいきなりハードモードでプレイするようなもの、って気がします。

 そういう可哀想な事態にならないために、本書みたいな書籍が一般に読まれ、少なくとも「プロテスタントは沢山の種類に分かれている」くらいの知識がスタンダードになってくれれば、また状況は変わるのではないかなあと思うのでありました。

 これについて何か良いアイディアがあれば、ぜひ教えて下さい。ということで今回はこのへんで。

1 件のコメント:

  1. 本当なら義務教育の場で学校の教師が、たとえば宗教改革を教えるときに、ちょっと補足説明してくれたらいいのになあと思うことしきりです。
    宗教改革を授業でやると、「カトリックが免罪符を作った。それに抗議してプロテスタントが誕生した」という説明だけをさらっと流すような感じですので、どうしても「カトリックはお金に汚くて、プロテスタントはお金にキレイ」という間違った印象を与えてしまいがちです。現実にはどうなのかといえば、カトリックはお金お金といわないのに、プロテスタントは献金トラブルで問題を起こしているというのに・・・

    学校ではやはり時間的制約でいえないのなら、本当は家庭でするしかないのかもしれませんが、親もまた仕事を抱えており、子供にそんな話を長々とする暇もないのが現状なのです。
    キリスト教にはまず東と西があって・・・と説明するときは、それなりに時間も必要で、一分でも惜しいなんて時にはそんな話をしていられません。
    大人同士でも休憩時間の雑談のおりに、相手方がリラックスしているときに、何気なくするような感じですか。
    話すきっかけはテレビでたとえばみこしをやっていたら、「キリスト教でもみこしがあるんですよ・・・」が糸口になります。

    ちなみにミッションスクールの宗教の時間で習ったことは、ほとんど役には立ちません。教えている牧師自身が、熱心なクリスチャンホームの二世三世で、キリスト教の説明をさせると、「まずですねー、カトリックが免罪符を作ってえー」というところから始まるので、キリスト教の歴史そのものをきちんと教えることがない、というよりも本人自身もその方面には暗かったりします。

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