どれくらい好きかと言うと、劇場に月2〜3回通っているくらいです。多いときはそれ以上になります。午前に1本、午後に1本とハシゴすることもあります。また劇場に行かなくても、レンタルDVDやAmazonプライムで日常的に映画を観ています。もちろん忙しい時は別ですけれど。
観るジャンルにこれと言った決まりはありません。興味のあるものなら何でも観ます。アニメや子ども向けの映画も観ます。
ただ一つ例外を挙げると、キリスト教系映画はあまり観ません。なぜでしょう。あんまり面白くないからです。先日レビューを書いた『沈黙ーサイレンスー』は別格でしたけれど。
もちろんキリスト教系映画といってもピンキリですから、一括りにして「あんまり面白くない」と言うのもフェアではありませんね。すみません。訂正します。
いわゆる福音派の人たちが喜びそうな映画、つまりクリスチャンを対象とした、「奇跡」やら「癒し」やら「回復」やら「勝利」やらが満載の昨今の「クリスチャン映画」は、あんまり好きではありません。そうでなく一般人(未信者)を対象とした、キリスト教をテーマにした映画なら、優れたものが沢山あると思います。今パッと思い出すだけでも、『薔薇の名前』とか『スパルタカス』とか『ベン・ハー』とかがありますね。
・「クリスチャン映画」の背景にある「繁栄の神学」
では、なぜ昨今の「クリスチャン映画」が好きでないか。決してクオリティの問題ではありません。頑張って作っているものもあります。というか、一つの映画を作り上げたというだけで、既に賞賛に値すると私は思います。映画は決して簡単に作られるものではないと思いますから。
そういう最低限のリスペクトを抱きつつ、それでも昨今の「クリスチャン映画」がダメだと思うのは、いわゆる「繁栄の神学」の影響を強く感じるからです。
たとえば「クリスチャン映画」の登場人物たちは大概、冒頭ですでに不幸な状況に置かれています。仕事が行き詰まっていたり、夫婦関係が破綻しかけていたりします。そして彼らはクリスチャンでないか、あるいはクリスチャンだとしても、あんまり祈ったり聖書を読んだりしません。つまり「神から遠く離れた存在」なのです。
そんな彼らが映画の途中で、クリスチャンになるか、あるいは熱心な信仰を取り戻すかします。いわゆる「熱心な信仰者」になるわけです。すると、あれよあれよと状況が好転していくのです。問題が次々と解決していき、クライマックスでちょっとハラハラして、でも最後は万々歳なエンディングを迎えます。
観ればわかりますが、そこには明確な一つのメッセージがあります。すなわち「クリスチャンになって熱心に信仰すれば、幸せになれる」というものです。
辛い境遇にある人が幸せになっていくのは、観ていて嬉しいものです。だからあんまり気にならないかもしれません。でもそこには明らかに、「熱心なクリスチャンであれば、ね」という条件が付いています。その条件をクリアしないといけないのです。あるいはその条件をクリアしさえすれば、あなたも幸せになれますよ、というメッセージです。
これは逆に言えば、熱心なクリスチャンは不幸であってはならない、多少の紆余曲折があっても繁栄しなければならない、ということでもあります。そしてその考え方は「繁栄の神学」に他ならないわけです。
・「繁栄の神学」の弊害
もっとも映画自体はフィクションなので、さほど目くじらを立てることではありません。単純に感動できるなら、それでいいと思います。
しかしその考え方がスクリーンを越えて「こちら側」にやってきて、「クリスチャンかくあるべし」みたいなリアルな話になってしまうとしたら、問題アリではないでしょうか。現実の生活において、クリスチャンは「いつも」勝利しなければならない、豊かでなければならない、繁栄して幸福でなければならない、という話になってしまいますから。
「繁栄の神学」は耳障りはいいかもしれませんが、いざ実践するとなると、かなりの無理ゲーなのです。
一例を挙げると、『Facing the Giants』というスポ根クリスチャン映画があります。ある高校の弱小アメフト部が、信仰に目覚めたとたん連戦連勝状態になり、最後はまさかの大会優勝を果たす、という内容です。その経過で主人公のコーチは昇給し、新車を与えられ、不妊だった奥さんは妊娠します。もうこれでもかってくらいの繁栄を享受するわけです。「神に祈った」ことをキッカケにして。
そこにあるメッセージは、やはり「信仰を持てば繁栄できる」なのですね。
でも現実に考えてみれば、いつか試合に負ける日がきます。調子の良い日もあれば悪い日もあります。永遠に連戦連勝なんてかえって気味が悪いです。また試合に負けたからって、信仰を失ったわけではありません。信仰が「低下」したわけでもありません。そもそも信仰熱心だから試合に勝つ、というのも根拠のない話です。
でも「繁栄の神学」に則るならば、そして突き詰めて考えるならば、「試合に負けたのは信仰に問題があるからだ」という話になってしまいます。「信仰に燃えていて、神に導かれているならば、祝福される以外にないはず」だからです。何でもかんでも祝福され、成功していなければならないのです。
だから試合だけではありません。およそ生活のあらゆる分野で、信仰者は勝利し、獲得し、優位に立ち、所有し、繁栄し・・・というのが求められていくのです。そしてそうできなければ、「信仰が足りない」「祈りが足りない」「献金が足りない」「何か罪がある」という話になってしまうのです。
それが、「繁栄の神学」の根本的な考え方なのですね。皆さんはこういう信仰生活を送りたいでしょうか。
と、いうようなことを考えてしまうので、私はいつの頃からか、この手の「クリスチャン映画」を単純に楽しめなくなってしまいました。それが損なのか得なのかよくわかりませんが。
でも、だからこそ(確認のために)観てみる、ということもありますけれど。
・宗教映画に含まれるプロパカンダ
もちろん、そこまであからさまに「繁栄の神学」を打ち出した映画ばかりではありません。
たとえばですが、数年前に上映された『神は死んだのか』はコテコテの「クリスチャン映画」ではありますが、「繁栄」を意図したものではありませんでした。「神の存在の立証」をかけてクリスチャン大学生と無神論教授とが論戦を繰り広げるのですが、必ずしもクリスチャン側がハッピーになるという作りではありませんでした。そのへんは好感が持てました(同映画のレビュー記事1)(同じくレビュー記事2)。
ただし、やはり「クリスチャン映画」であり、宗教的プロパカンダ映画でもありますので、「神を信じないと大変なことになる」というメッセージはかなり明確でした。ネタバレですが、無神論教授は最後は車にはねられて死んでしまいます。キリスト教に懐疑的なブロガーは癌を告知されて泣き崩れます。「神を信じないと地獄行き」みたいな、容赦ない感じでしたね。こわいこわい。
そのように、宗教映画にはえてしてプロパカンダが多分に含まれていると言えます。
宗教映画といえば、幸福の科学はかなり力を入れているようです。かつてはオウム真理教もそうでした。ちゃんと観ていないので何とも言えませんが、麻原教祖が(修行の末に)空を飛んじゃったりしてましたね。新興系プロテスタント界隈の作る映画も、なんとなくそのへんと同列に並べられている印象がありますが、どうなんでしょう。
・クリスチャンはどう見られているか
世間一般がクリスチャンをどう見ているか、を示唆する映画もあります。当然ながら一般の映画です。実例を挙げると、ロバート・ゼメキス監督作の『フライト』があります。以前にも当ブログで言及したことがありますが(記事はこちら)、この作品ではクリスチャンが明らかに「変人」として描かれています。浮世離れした人、話の通じない人、よくわからない人、みたいな感じです。
それを批判と取るかどうかは微妙なところですが、ただ事実として、「クリスチャンはそういうふうに見られている」のだと思います。それは否定のしようがありません。そして福音宣教とか伝道とかを考えるなら、そのへんは無視できないと思いますね。「変人」と思われているところから、どう歩み寄っていくか、みたいな。
最近の邦画で言えば、『渇き』や『黄金を抱いて跳べ』でも部分的にクリスチャンが描かれていました(たぶん他にも沢山あると思いますが)。でもどれを観ても、やはりクリスチャンが「異質な存在」として描かれているのは間違いありません。
ここでクリスチャンの側が「私たちは異質ではありません」とか反論しても、あまり意味がないですね。本当に異質かどうかはさておき、「そう見られている」という事実は変わらないわけですから。まずはそこを受け止めるところから始めないと、見当違いなことになってしまうでしょう。
というわけで、映画で描かれるキリスト教について、つらつらと考えてみました。
クリスチャン映画といっても、本当にいろいろあると思います。私も見たことはありますが、ここに出ている映画は残念ながら見たことがありません。
返信削除私が見たのは、スペインの「汚れなき悪戯」(黒白なのでかなり古いものです)と、それを20世紀の終わりにイタリアでリメイクしたもの、そしてフランスで作られた「ルルドの泉で」と「サン・ジャックへの道」ですか。
内容は検索すればわかりますが、新興宗教系プロテスタント的なものの考え方で作られた映画と正反対なのは、やはり「ルルドの泉で」でしょうか。決してハッピーエンドにはなりませんので。
コメントありがとうございます。
削除『ルルドの泉で』は興味深いですね。「信仰深いから奇跡が起こる」という昨今の安易な考え方に、一石投じた内容だと思います。今後記事として取り上げさせていただくかもしれません。