「教会を出た人」って何

2017年3月9日木曜日

教会生活あれこれ

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 驚くべきツィートを見てしまったので貼っておきましょう。

https://twitter.com/Santou/status/838769129167343616

「教会を出た人の話を聞いても意味がない」ということでしょうか。「(それに)どれだけ振り回されてきたことか」というのがその理由のようです。「教会を出た人」にたくさん振り回されたから、「もうそんな連中の話は聞かなくていい」ということらしいです。
 皆さんはこれを読まれてどう感じたでしょうか。

 私はかつてものすごい原理主義者で、教会運営にも関わっていました。だから、この人の言わんとすることはわかります。「教会を出た人」の中には「変な人」もいて、あることないこと、教会の文句を言いふらす場合があるわけです。それが的を射た指摘であるなら別ですが、なんの根拠もない、あるいは真実でないことが語られることがあり、教会としては正直言って「迷惑」なのです。だからそういう話「だけ」を聞いて教会についてあれこれ推測されても、まあ困るわけですね。

 それはわかります。

 でも、「教会を出た人」(なんかこの表現自体が差別的な気もしますが)について語るとき、絶対に外してはいけないのが次の点です。

①「教会を出た人」を一括りにしてはいけない

  もちろん、教会について全く真実を語らない「変な人」たちの話をマトモに聞いても、仕方がないでしょう。彼らは悪意をもって教会を貶めようとするので、 どちらかと言うと、教会が戦わなければならない相手です。
 ただし、一個人があれこれ言いふらすのは限度があるし、そういう人は見るからに「変な人」だとわかるので、そもそもの話、さほど相手にする必要がないのもまた事実です。要は「ほっとけばいい」わけです。そういう人の話「だけ」を聞いて「じゃあその教会は悪い教会なのかも」と早急に判断する人がいるとしたら、それはその人自身の問題でしょう。一方の意見だけ聞いて何かを判断するのは、あまり良いことではないからです。

 しかし「教会を出た人」は、そういう人たちばかりではありません。いたって「常識的な人」たちも含まれています。だから「教会を出た人の話を聞いても意味がない」というのは、明らかに言い過ぎだと私は思いますね。ちなみに「教会を出た人」という、どこか差別的な、落伍者的な表現を使うのもどうかと思います。あくまで「内側からの視点」しか持ち合わせていない証拠ではないでしょうか。

 で、「教会を出た人」の中には、常識人もいます。
 いくつかパターンが考えられますが、たとえば就職は転勤や入学(卒業)等で、「その地域を離れることになった人」たちがいます。彼らは当然ながら、べつに教会を出ようと思って出たわけではありません。彼らは通常、教会について良いことを言うので、問題になることはありません。
 もう一つは、その教会の方針や考え方、運営などが「合わない」と感じた人たちです。ある程度リテラシーの高い人たちです。なんでも鵜呑みにしない、考える力がある方々というか。彼らは「教会を出る」にしても、ちゃんと挨拶するなど、筋を通したうえで「出た」はずです。あるいは筋を通そうとしたはずです。でもそういう人たちは、仮にその教会に問題があると思っていても、言いふらすことはしません。下手に批判もしません。
 教会が「合わない」と思った人のもう一つのパターンに、精神的に何かの障害を抱えている人たちがいます。重度の精神障害というより、パニック障害や不安障害、各種の神経症、各種の依存症、軽度うつ病などを持つ人たちです。障害の程度にもよりますが、教会として彼らを受け入れるには、ある程度専門的な知識が必要です。対応も慎重にしなければなりません。でもそういうのを知らない教会(牧師)だと、まあいろいろトラブルが起こり得るわけです。教会としては「できるだけの対応はした」かもしれません。しかし個々の精神障害に対する配慮が十分だったかと言えば、「受けた側」からすれば、十分ではなかったと言わざるを得ないことがあります。大いに不満が残った、という場合もあるでしょう。
 教会が「合わない」と思った人の3つ目のパターンに、本当に教会で酷い目に遭った、という場合が考えられます。被害の種類や程度は様々でしょうが、たとえば理不尽な献金を要求されたとか、差別的な扱いを受けたとか、酷くなると暴力を振るわれたとか(刑事告訴が必要なレベル)、いずれにせよ「ここはとんでもない教会だ」と言わざるを得ない人たちです。
 また4つ目の可能性として、これはきっと潜在的に多いのではないかと思いますが、「その教会で何かしらイヤな思いをした」という人もいると思います。これは明らかな被害と言うほどでなく、感情的にちょっとこじれたとか、牧師とどうも相性が悪くて疲れてしまったとか、信徒どうしで揉めて行きづらくなったとか、そういう感じ。教会批判をしたいわけではないけれど、何かスッキリしないものがある、という人たち。

 というわけで「教会を出た人」について整理すると、次にようになります。
・変な人(悪意がある人)
・その地域を離れることになった人
・リテラシーの高い人
・精神障害のある人
・本当に教会で被害に遭った人
・被害じゃないけどイヤな思いをした人

「教会を出た人」と一口に言っても、これだけ種類があるのです。他にもあるかもしれません。なのに全部一括りにして、「教会を出た人の話を聞いても意味がない」なんて、よく言えたもんだと思います。そういう意味で、冒頭で「驚くべきツィート」と表現したわけです。このツィート主のことは全然知りませんし、興味もありませんが、もし教会で指導的立場にあるなら、嘆かわしいことだなあと私は思います。

 それはともかく、これらの種類の中で、いわゆる「教会批判」をする可能性が高いのは、「変な人」と「精神障害のある人」と「本当に教会で被害に遭った人」でしょう。あと「リテラシーの高い人」と「被害じゃないけどイヤな思いをした人」も、おおっぴらに批判することはなさそうですが、やはり思うところがあるので、機会があれば口を開くと考えられます。
 それらの批判の中から「変な人」のは除外していいと思いますが、あとの批判は、無視してはいけません。なぜなら、

②「教会を出た人」の話は、教会の糧となるはず

 だからです。
 当然ながら教会は「完璧」ではないです。何かしら問題というか、課題があるでしょう。そこで「うちは完璧じゃないから」と開き直るなら別ですが、何かしら改善する余地が、どの教会にもあると思います。でも改善する余地は、中にいるとわからないものです。むしろ何が問題なのかすらわからなくなっていることが多いです。
 でも新しく来た人とか、何らかの助けを必要とする人(精神障害がある人や、深刻な悩みがある人など)とかには、その教会の「良さ」とともに、「欠け」がよく見えるものです。また長年信徒をやってきた人の中にも、ずっと何かを我慢してきた人がいると思います。
 そういう人たちの批判というか意見には、的を射たものが少なくありません。むしろかなり鋭い、本質を突いた指摘もあると思います。

 そういう指摘は、教会にとって非常に良い糧になると私は思います。改善するチャンスを得るわけですから。それを無視するのは、かなりモッタイナイのではないでしょうか。

 でも現実には、いっさいの指摘を「教会批判だ」と断罪する教会指導者が多いです。冒頭のツィートも本質的にはそうだと思います。 彼らは「教会批判は罪だ」と声高に言います。ですが、聖書のどこにそんなことが書いてありますか? あるいは聖書を都合よく解釈してませんか? いっさいの批判を受け付けないとは、教会ってそんなにエライんですか?

 そういう指導者らは、自教会でのバイブルスタディ―とか祈祷会とかの場では、「教会にも問題はあります。どうぞ祈って下さい」みたいなことを謙遜ぶって言います。でもいざ実際に問題点を指摘されると、「それは教会批判だ!」「さがれ、サタン!」などとまくし立てます。なんか、ダブルスタンダードな気がするんですが。

③「教会を出た人」という表現の背後にあるもの

 私は「教会を出た人」という表現に違和感を覚えます。
 もちろん字面の意味するところはわかります。様々な事情があって、多くの場合何らかの不満を抱えて、その教会に「行かなくなった人たち」のことでしょう。それを「出た人」と表現するのは、どこか排外的な、落伍者的な意味合いがあるように思えてなりません。

 私の知っている牧師にも、これと同じような言い方をする人がいました。彼は「教会を出た人」を、徹底的に排除しようとしました。たとえば信徒のAさんが何かのトラブルで教会に来なくなると、教会中からAさんの痕跡を消しました。Aさんが映っている写真を外し、Aさんが書いたものを破棄し、信徒どうしでAさんの話をするのを禁じました。まるで初めからAさんなんて「いなかった」みたいに。教会にいた頃は、Aさんと牧師はあれほど親しくしていたのに。

 親しい信徒、いろいろ世話した信徒、ともに苦労した信徒・・・であっても、一度揉めて教会に来なくなると、牧師にとって一気に「教会を出た人」になってしまう。
 そういう態度が何を意味するか、わかるでしょうか。
 その教会には、その牧師の「目にかなった人」しか居られないのです。あるいは誰もが、その牧師の「目にかなった人」になろうとするのです。 そうできない人は居づらくなって、教会に行かなくなり(行けなくなり)、存在を削除されるのです。それが「教会を出た人」という表現の背後にひそむ、いわば教会(牧師)の闇だと私は考えています。

④私が体験した「安心感」

 悪い話ばかりだったので、最後にちょっと良い話。
 私が一時期お世話になった某教会があります。そこの牧師を仮にB先生としましょう。B先生はまったく気取らない、いつも自然体な方でした。私はある期間、B先生の教会に通わせてもらいました。その間、個人的な話はほとんどしませんでした。何度かメールのやり取りをしたくらいです。そしてほとんど何の相談もせず、その教会には行かなくなりました。要するに私自身、「教会を出た人」になったわけです。

 それから数年後、ふとB先生の教会にお邪魔してみました。何を言われるかな、無視されるのかな、などと内心ドキドキしていたのが正直なところです。でも再会するとB先生は何事もなかったように「あーお久しぶりですー」と明るく言ってくれました。まるで昨日まで会っていたような距離感で。
 私がすごく安心したのは、言うまでもありません。B先生にとって私は「教会を出た人」ではなかったのでした。

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