前回までは、教会に属するクリスチャンとして必要な「勉強」について、考えてみました。大雑把に言えば、「キリスト教」の概要を学んで客観性を持たないと、自分の教会をも客観的に見られなくなり、結果的に独善的な(あるいは狭量な)信仰になってしまう、というような話でした。
今回は「勉強」から離れて、「感情」について考えてみたいと思います。教会と個人とを繋ぐ、いわゆる「心のキョリ感」についてです。
・「感情」がまず教会と個人とを繋ぐ
はじめに復習になりますが、ある人が人生で初めて教会に行こうと思った時、ある教会の教派や種類をじっくり吟味して、「その教会に行こうと選択した」というのは稀なはずです。そうでなく、多くの場合、その教会がたまたま近所にあったからとか、知り合いがいたからとか、そういう「偶然性」に左右されて行ってみたはずです。明確な意図があったのでなく。
だからその教会(教派)の教理や聖書解釈をじっくり精査し、他と比べてどうなのか、自分にシックリくるのか、納得感があるのか、などと考える過程もなかったはずです。そういうのはだいたい、後から少しずつ説明されて、わかってくるものだからです。
実際に、多くの場合(例外もあるとは思いますが)、その教会と個人とを繋ぐのは、まず「感情」だと思います。
たとえば牧師がすごく優しそうで好感が持てたとか、初めてなのにイロイロ話を聞いてくれたとか、教会の雰囲気がアットホームで良かったとか、隣に座った信徒がイロイロ教えてくれて助かったとか、そういう「良い人間関係」や「良かった体験」の積み重ねが、その人と教会とのキョリを縮めていくのだと思います。で、その積み重ねの結果、「この教会に通ってみよう」となるのです。
つまり教理のような「理屈」から入るのでなく、「感情」から入るわけです。もちろん「福音を聞いて信じた」という理屈が大前提なのですが、「福音」に関してはどこの教会もさほど違わないと思います。
そうでなく、ある一つの教会に、個人が根付いていく、そのプロセスには、やはり「感情」が大きく影響すると思います。人間とは、人間関係が満たされてはじめて、ある集団に根付いていけるものだからです。
また人間関係のことばかりでなく、たとえば教会堂がすごくモダンで通い甲斐があるとか、プロ級のゴスペルが聴けていいとか、そういうのも「感情」の範疇でしょう。
現在どこかの教会に属している皆さんは、これには概ね同意されるのではないかと思います。
・「感情」に影響される教理や聖書解釈
そういうわけで、繰り返しになりますが、その教会の教理や聖書解釈については「後から」知っていくことになります。そしてそれ自体は、現在の日本では割と普通のことだと思います(諸外国の事情は知りません)。
しかし残念ながら、これがしばしば問題を起こすことがあります。
一例を挙げると、たとえばそこが「異言」を語る教会だった場合。
多くの「異言」系の教会では、未信者の前でおおっぴらに「異言」を披露するということはありません。だから信徒になって間もない人は、そもそも「異言」なんて知らないよ、聞いてないよ、という状態であることが多いです。
で、ある時(祈祷会などで)、いつもの牧師先生や先輩信徒の皆さんが、突然、ワケのわからない言葉で祈り出すわけです。ナンジャコリャ、となります。相当な衝撃です。ヤバイところにきてしまったのではないか、みたいに感じるかもしれません。
後からそれが「異言」だと説明されるのですが、それを受け入れられるかどうかは、個人差が大きいしょう。でもそこで重要な役割を担うのが、「感情」です。どれだけ教会や牧師や信徒たちに対する信頼感ができているか、というのが決め手になり得ます。そして「この人たちが言うことだから」と、「異言」を受け入れていく人も大勢います。
つまり「感情」が、「ちょっと受け入れがたい教理」をも、受け入れさせるわけです。
そしてそうだとしたら、(表現が悪いかもしれませんが)それは「信仰」でなく、「付き合い」なのだと私は思います。抵抗感があるのに、人間関係を気にして、抵抗感を我慢してしまったからです。もしその人が、教会での人間関係(信頼関係)ができあがる前に「異言」を見せられたなら、必ずしも受け入れなかったはずでしょう。
つまり人間関係が、本来あるべき反応を邪魔することがある、ということです。皆さんはどう考えるでしょうか。
・「感情」が聖書を解釈してしまう
当然ながら、これは「異言」の話ばかりではありません。他のイロイロなケースでも同様です。
もう一つ例を挙げますが、ある牧師が、牧師夫人に日常的にツラく当たっていました。夫人が何か粗相すれば、「なにやってんだよ!」と人前で罵倒します。夫人が電話にすぐに出ないと、「俺を待たせるな!」と怒鳴ります。でもその牧師は、信徒には、基本的に優しく接するのです。
信徒は多少なりとも混乱します。自分には「親切な牧師先生」なのに、現実に妻にはツラく当たっている、そのギャップをどう埋めればいいのか、よくわかりません。
聖書には「妻にツラく当たってはいけない」という箇所があるのに、牧師は目の前で妻にツラく当たっているのです。かと言って、「牧師が悪い」と言うこともできません。牧師は自分には親切だし、実際にイロイロお世話してくれているからです。
では何が悪いのか。牧師が悪くないとしたら、怒られることをしてしまった夫人が悪いのか。これは夫人に対する「訓練」なのか。あるいは聖書のこの記述は、現代には当てはまらないのか。そういうことをイロイロ考えます。で、自分なりにどこかで納得するわけです。
要は聖書の記述より、現実が優先されるのです。あるいは現実に合わせて、聖書が解釈されるのです。自分がすでに教会に属していて、イロイロな(信仰的な)既成事実ができていますから、今更牧師がどうとか、教理がどうとか、言えなくなっているのです。この場合で言えば、妻にツラく当たる牧師を、聖書解釈を変えることで肯定しようとするわけです。
つまり「感情」が、聖書を解釈してしまう、ということです。
これと同じようなことは、実際には少なからずあちこちで起きていると思います。でも教会と個人のキョリ感としては、問題があるなあと私は思うのです。
さて、皆さんはどう考えるでしょうか。
>牧師が、牧師夫人に日常的にツラく当たっていました。・・・でもその牧師は、信徒には、基本的に優しく接するのです。
返信削除これってラーメン屋に行って、奥さんにはツラく当たっているのに、客には愛想よくふるまっているおやじを見ているのと同じだと思いますよ。
宗教だと
>これは夫人に対する「訓練」なのか。あるいは聖書のこの記述は、現代には当てはまらないのか。そういうことをイロイロ考えます。で、自分なりにどこかで納得するわけです。要は聖書の記述より、現実が優先されるのです。
でもラーメン屋だと
「あの店のおやじは客には愛想よく応対しているが、奥さんに対する態度をみると、結構暴君なんじゃない?客商売のストレスを弱い立場の奥さんに向けてるみたいな?」
ラーメン屋で同じ風景をみれば、「客商売のストレスで奥さんに当たり散らしている。あっちのほうが本性だよね」となるのに、宗教だとなぜ「聖書の記述は現代に当てはまらないんだなあ」となってしまうんでしょうね?
結論
「宗教を熱心に信じている人よりも、ラーメン屋のおやじの性格を、奥さんに対する態度で見抜く、宗教を全然信じていない人のほうが、頭が正常である。」