教会と個人のキョリ感・その3

2017年3月24日金曜日

教会生活あれこれ

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「教会と個人のキョリ感」の3回目です。

 前回までは、教会に属するクリスチャンとして必要な「勉強」について、考えてみました。大雑把に言えば、「キリスト教」の概要を学んで客観性を持たないと、自分の教会をも客観的に見られなくなり、結果的に独善的な(あるいは狭量な)信仰になってしまう、というような話でした。

 今回は「勉強」から離れて、「感情」について考えてみたいと思います。教会と個人とを繋ぐ、いわゆる「心のキョリ感」についてです。

・「感情」がまず教会と個人とを繋ぐ

 はじめに復習になりますが、ある人が人生で初めて教会に行こうと思った時、ある教会の教派や種類をじっくり吟味して、「その教会に行こうと選択した」というのは稀なはずです。そうでなく、多くの場合、その教会がたまたま近所にあったからとか、知り合いがいたからとか、そういう「偶然性」に左右されて行ってみたはずです。明確な意図があったのでなく。

 だからその教会(教派)の教理や聖書解釈をじっくり精査し、他と比べてどうなのか、自分にシックリくるのか、納得感があるのか、などと考える過程もなかったはずです。そういうのはだいたい、後から少しずつ説明されて、わかってくるものだからです。

 実際に、多くの場合(例外もあるとは思いますが)、その教会と個人とを繋ぐのは、まず「感情」だと思います。

 たとえば牧師がすごく優しそうで好感が持てたとか、初めてなのにイロイロ話を聞いてくれたとか、教会の雰囲気がアットホームで良かったとか、隣に座った信徒がイロイロ教えてくれて助かったとか、そういう「良い人間関係」や「良かった体験」の積み重ねが、その人と教会とのキョリを縮めていくのだと思います。で、その積み重ねの結果、「この教会に通ってみよう」となるのです。

 つまり教理のような「理屈」から入るのでなく、「感情」から入るわけです。もちろん「福音を聞いて信じた」という理屈が大前提なのですが、「福音」に関してはどこの教会もさほど違わないと思います。
 そうでなく、ある一つの教会に、個人が根付いていく、そのプロセスには、やはり「感情」が大きく影響すると思います。人間とは、人間関係が満たされてはじめて、ある集団に根付いていけるものだからです。
 また人間関係のことばかりでなく、たとえば教会堂がすごくモダンで通い甲斐があるとか、プロ級のゴスペルが聴けていいとか、そういうのも「感情」の範疇でしょう。
 現在どこかの教会に属している皆さんは、これには概ね同意されるのではないかと思います。

・「感情」に影響される教理や聖書解釈

 そういうわけで、繰り返しになりますが、その教会の教理や聖書解釈については「後から」知っていくことになります。そしてそれ自体は、現在の日本では割と普通のことだと思います(諸外国の事情は知りません)。
 しかし残念ながら、これがしばしば問題を起こすことがあります。

 一例を挙げると、たとえばそこが「異言」を語る教会だった場合。

 多くの「異言」系の教会では、未信者の前でおおっぴらに「異言」を披露するということはありません。だから信徒になって間もない人は、そもそも「異言」なんて知らないよ、聞いてないよ、という状態であることが多いです。
 で、ある時(祈祷会などで)、いつもの牧師先生や先輩信徒の皆さんが、突然、ワケのわからない言葉で祈り出すわけです。ナンジャコリャ、となります。相当な衝撃です。ヤバイところにきてしまったのではないか、みたいに感じるかもしれません。

 後からそれが「異言」だと説明されるのですが、それを受け入れられるかどうかは、個人差が大きいしょう。でもそこで重要な役割を担うのが、「感情」です。どれだけ教会や牧師や信徒たちに対する信頼感ができているか、というのが決め手になり得ます。そして「この人たちが言うことだから」と、「異言」を受け入れていく人も大勢います。

 つまり「感情」が、「ちょっと受け入れがたい教理」をも、受け入れさせるわけです。

 そしてそうだとしたら、(表現が悪いかもしれませんが)それは「信仰」でなく、「付き合い」なのだと私は思います。抵抗感があるのに、人間関係を気にして、抵抗感を我慢してしまったからです。もしその人が、教会での人間関係(信頼関係)ができあがる前に「異言」を見せられたなら、必ずしも受け入れなかったはずでしょう。
 つまり人間関係が、本来あるべき反応を邪魔することがある、ということです。皆さんはどう考えるでしょうか。

・「感情」が聖書を解釈してしまう

 当然ながら、これは「異言」の話ばかりではありません。他のイロイロなケースでも同様です。

 もう一つ例を挙げますが、ある牧師が、牧師夫人に日常的にツラく当たっていました。夫人が何か粗相すれば、「なにやってんだよ!」と人前で罵倒します。夫人が電話にすぐに出ないと、「俺を待たせるな!」と怒鳴ります。でもその牧師は、信徒には、基本的に優しく接するのです。
 信徒は多少なりとも混乱します。自分には「親切な牧師先生」なのに、現実に妻にはツラく当たっている、そのギャップをどう埋めればいいのか、よくわかりません。

 聖書には「妻にツラく当たってはいけない」という箇所があるのに、牧師は目の前で妻にツラく当たっているのです。かと言って、「牧師が悪い」と言うこともできません。牧師は自分には親切だし、実際にイロイロお世話してくれているからです。
 では何が悪いのか。牧師が悪くないとしたら、怒られることをしてしまった夫人が悪いのか。これは夫人に対する「訓練」なのか。あるいは聖書のこの記述は、現代には当てはまらないのか。そういうことをイロイロ考えます。で、自分なりにどこかで納得するわけです。

 要は聖書の記述より、現実が優先されるのです。あるいは現実に合わせて、聖書が解釈されるのです。自分がすでに教会に属していて、イロイロな(信仰的な)既成事実ができていますから、今更牧師がどうとか、教理がどうとか、言えなくなっているのです。この場合で言えば、妻にツラく当たる牧師を、聖書解釈を変えることで肯定しようとするわけです。

 つまり「感情」が、聖書を解釈してしまう、ということです。

 これと同じようなことは、実際には少なからずあちこちで起きていると思います。でも教会と個人のキョリ感としては、問題があるなあと私は思うのです。
 さて、皆さんはどう考えるでしょうか。

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