2017年3月31日金曜日

『モアナと伝説の海』を観たら「選ばれた者」について考えさせられた

・『モアナと伝説の海』を観たら「選ばれた者」について考えさせられた

 前回に続いて映画ネタになりますが、ディズニー映画『モアナと伝説の海』を劇場鑑賞しました。
 お子さん向けの映画を観に行くのは久しぶりでしたが、いやお子さんが多いと劇場も活気がありますね、いろんな意味で。
 でも本編は笑えたしグッときたし、歌も映像もキレイだし、で時間を忘れて没頭することができました。さすがディズニー。手堅い感じです。

 予告編はこちら。

 ざっくり書くと、南太平洋を舞台に、少女モアナが失われた「女神の心」を見つけ、それを女神に返しに行く、という冒険モノ。なんかいろんな映画の要素を混ぜ合わせたような感じもして笑えました。気付いただけでも『マッドマックス 怒りのデスロード』、『センター・オブ・ジ・アース』、『モーセの十戒』、『マトリックス』、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』の要素が隠れています。いや、隠れていません。

 で、なんで私がそこに『マトリックス』を感じたかと言うと、モアナが「海に選ばれた者」である、という点です。

 ちょっと『マトリックス』のおさらいをしましょう。主人公ネオはマトリックス世界の「救世主」として、登場を予言された人物でした。でも本人はなかなか信じられず、迷っていました。 しかし戦いを通して、次第に「信じ始めていく」わけです。そして最後は救世主でなければできないような活躍をし、完全に立ち上がる、というストーリーでした。

 モアナも同じような経過を辿ります。彼女は「海に選ばれた者」だとおばあちゃんに言われ、旅立ちます。しかし途中で決定的な挫折を経験し、「私もうダメ。選ばれた者じゃない」となるわけです。しかしおばあちゃんの霊体(?)やらご先祖の皆様やらに励まされて再起し、最後はナウシカばりの活躍を見せることになります。

 この「選ばれた者」の葛藤が、興味深かったですね。自分は本当に選ばれた者なのか? 間違いではないのか? でも信じて行動してみるしかない、というあたりが。

・キリスト教的「選ばれた者」の危険性

 旧約聖書をみると、ユダヤ民族は「神に選ばれた種族」である、というようなことが書かれています。そして新約聖書をみると、いわゆるクリスチャンは「キリストによって選ばれた者」である、というようなことが書かれています(ヨハネの福音書15章16節)。
 つまり、私たちクリスチャンは、ネオやモアナと同じように「選ばれた者」である、ということになります。

 ただだからと言って、映画ばりに活躍しなければならないわけではありません。ネオやモアナは2時間枠だからこそ頑張れたのです。あんなのが生涯続くとしたらそれこそ大変です。精神を病んでしまうかもしれません。

 また「神の選びとは何なのか」というのは各教派によってイロイロだと思いますが、あんまり強調しない方がいいと私は思います。いわゆる「選民思想」ですが、排外的、独善的になりやすいからです。下手すると「未信者差別」に陥ります。

 余談ですが、「選民思想」の危険性は、自分自身のことが可愛くなってしまう点にあると思います。「選ばれたからには責任がある」となればいいのですが、「選ばれた自分ってスゲー」みたいな根拠のない自慢に繋がってしまうと、手が付けられません。それで他者を省みなくなるとしたら、もはやキリストの言う「愛」は実践できません。

 あるいは、これがカルトっぽい教会になると、「あなたには大いなる使命がある」みたいな話になって、とんでもない奉仕をさせられたり、キャパを越えた仕事をしようとしたりして危険です。そういうのは、注意しないといけません。

・「選ばれた者」の証明

 持論ですが、クリスチャンが「神に選ばれた者」であるとして、それ自体には何の意味もありません。
 たとえばですが、「俺、神に選ばれし者だぜ」と殊更に強調している人が、自室にずっと引きこもって無為に過ごしているとしたら、その「選び」に価値はないでしょう。何のために「選ばれた」のか、わからないからです。あるいは「引きこもりとなるべく選ばれた」のでしょうか。いずれにせよ、その人が選ばれていようがいまいが、外界には何の影響も関係もありません。

 これは、引きこもりが悪いという話ではありません。選びを強調するならば、という話です。

「神に選ばれた」と強調するならば、それにふさわしく行動すべきだと私は思います。当たり前の話ですが。何かの行動を起こすことが、「選ばれた者」の証明の第一歩なのですから。
 でも実際には、何か行動を起こすというのは、けっこう大変なことです。だから私は「神の選びを強調しない方がいい」と言っているのです。「選び」には責任が伴います。

 またもし「選ばれた者」として行動するとしたら、その「選び」を信じなければならないでしょう。ネオやモアナは、最終的には自分が「選ばれた者」だと信じました。だから行動できたのです。そのへんはクリスチャンも同じではないでしょうか。
 でも行動するにしても、「何をするのか」というのが次に大切になってきます。カルトっぽい教会で過剰な使命感を植え付けられて、行き過ぎた行動をしてしまい、結果的に他人に迷惑を掛けることになってしまった、という話はよく聞きます。それでは「選び」の意味がないでしょう。あるいはカルトっぽい教会でなくても、伝道に熱心すぎて煙たがられる人がいますが、そういうのも考えものだと私は思います。

 というような難しさがあるので、「選び」なんて強調しない方がいいなあと、『モアナと伝説の海』を観ながら考えた次第です。

1 件のコメント:

  1. >カルトっぽい教会でなくても、伝道に熱心すぎて煙たがられる人がいます
    創価学会がまさしくこれですね(苦笑)。あそこも選民思想はあると思いますよ。

    仏教でもキリスト教でも、新興宗教系の宗教団体には、大なり小なり「非常にいやらしい選民思想=エリート意識」がありますよね。だから昭和三十年代にかなり問題になった折伏大行進につながってくるわけです。自分たちが選ばれし者であるから何をやってもいいみたいな。(今はさすがに封印しましたが、折伏大行進をやっていた時代は、日蓮正宗を日本の国教にして、国立戒壇を作ることを本気で考えてやっていました)

    キリスト教でも新興宗教系プロテスタントは、創価学会や顕正会にみられる日蓮正宗系の教義がしっかりありまして、彼らの非常識な言動はまさに、昭和三十年代の学会員や、現代の顕正会の会員と同じものであります。
    やはり選民思想は深刻な問題を引き起こすといえましょう。

    ふと思うのですよ。私たちは日本人ではありませんか。日本はシンクレティズムの国なのですね。ならこの国に果たして「自分こそは神から(あるいは仏から)選ばれし特別な人間である」という概念が、はたして成り立つのでしょうか?と。
    だって神なら、別に近所の神社の神でもいいわけですし、その土地で一番大きな神社の神を選んでもかまわないでしょう?それこそ天理教のおやがみ様でも悪くないでしょうし、金光教の天地金乃神でもいいじゃないですか?もっといえばあえて既製品の神に頼らずに、神を自給自足したって全然OKですよね?
    日本の国がシンクレティズムに満ちている(偶像と悪霊と邪教に満ちていると新興宗教系プロテスタントの人たちは言いますが)状況である以上、こういう概念のほうが成り立つのではないかと思うのですよ・・・「いろいろな神や仏がいる中で、あえて自分がこの神(仏)を選んだ」

    しかしなぜか新興宗教系の宗教を信じている人たちは、こういった発想にはなりませんよね?どうしてなのでしょうか?

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