2017年1月27日金曜日

ある夕暮れ時に走っていたらふと気づいた、ある「視点」の話


 いつも小難しい話が多いので、今回はちょっと肩の力を抜いて書いてみたい。

■ランニング雑感

  私はランニングが好きで、時間があれば近所のコースに走りに行く。だいたい週2、3回くらい。
  ランニングのどこが好きかと問われたら、ただ無心になって走れるところ、と答える。ただ走るだけだから、球技や格闘技のような細かいテクニックは要らない。その日の調子で速く走ったり遅く走ったりするだけ。もちろん苦しくなるけれど、同時に爽快感もある。専用のグラウンドや器具が要らず、気軽にできるのも良い。

 私の好きな作家、村上春樹氏もランニングの習慣をお持ちのようだ。彼は1日何枚と書く量を決めていて、終わったらランニングをするようである。どういう表現だったか忘れてしまったけれど、走ることでいろいろリセットできる、みたいなことを彼は何かに書いている。

 その感覚は私も理解できる。リセットとはちょっと違うけれど、私は走りながら考えを整理したり、頭の中のモヤモヤをクリアにしたりしていると思う。
 たとえば当ブログの記事を書きあげたら、投稿する前にランニングに行く。で、走りながら記事について思いを巡らす。話の道筋はどうかな、論理的におかしくないかな、何か書き忘れてないかな、とか考える。するとだいたい、「あーこのことも書こう」とか「あの部分は要らないな」とか、いくつか改善点が見つかる。ランニングの後でそれらを修正し、ようやく投稿に至る。

 と言っても毎回ブログ記事のために走っている訳ではない。本当に何も考えないでボケッと走っている時もある。そっちの方が多いかも。

■ランニング中の気づき

 つい先日もコースを走っていた。午後4時半過ぎだった。ちょうど日没のタイミングで、大きな夕日が、ちょうど私の目線の先にあった。たいへん眩しかった。スポーツ用のサングラスをしていても眩しく、視界が悪かった(走っていて苦しかったのも影響しただろう)。向こうから来る人が、けっこう近くに来るまでわからなかった。

 で、そんなこんなで折り返し地点まできた。私はポールの周りを回って180°向きを変えた。ちょうど夕日に背を向ける形になった。
 すると一気に視界が開けた。夕日がすべてを照らし、クリアにしていた。私は道の先の先まで見通すことができた。さっきまでとはえらい違いである。敵だったはずの夕日が、急に味方になってくれたような感じ。何もかもがクリアだった。

 その時私はふと気づいた。視点が変わるとものの見え方も変わる、という当たり前の事実に。
 それは当たり前なのだけれど、案外重要なことだ。

 視点が変わると、世界は違って見える。

 カルトっぽい教会で頑張っていた頃の自分をふと思い出した。あの頃は「神様のために」と信じて、牧師に言われるまま働いていた。朝から晩まで働き、徹夜することも少なくなかった。突然呼び出されたり、理不尽な叱責を受けたり、皆の前で笑いものにされたり、今思い出すと腹立たしいことばかりだった。けれど当時は、純粋に「これが信仰だ」「これは神様からの訓練だ」と思っていた。

 たぶん当時の私がこのブログの記事を読んだなら、きっと「なんて不信仰な人だ」とか「何もわかってない」とか思うだろう。私がこのブログで批判的に書いている様々なトピック、たとえば「霊の戦い」とか「繁栄の神学」とか「預言的アクション」とか「ダビデの幕屋の礼拝」とか、そういうのを当時の私は大真面目に信じていたからだ。自分(と自分の教会)こそが「神の側」であり、真理に開かれており、他のすべての教会はイマイチわかってない、みたいな理解の仕方をしていた。非常に傲慢だったのである。でも自分では傲慢だなんてちっとも思っていなかった。

「当時の私」と「現在の私」とを隔てているのは、簡単に言えば「視点の違い」だと思う。向きを変えてみると、世界が違って見えるのだ。ちょうど太陽に向かっている時と、太陽を背にしている時とで、見え方が全然違うように。

 自分の教会の間違いや、それを引き起こしていた牧師の様々な嘘が、今ならわかる。すごくクリアに見えている。でも当時はまったく見えなかった。何となく疑問に感じる部分はあったと思うけれど、行動を起こすには至らなかった。

 と、そんなことを走りながら考えた訳である。

■群盲象を評す

 この話には、これといった結論はない。あえて続きを書くならば、ランニングを終えて家に帰ってシャワーを浴びた、みたいなどうでもいい話になる。そんなこと誰も読みたくないだろう。だから結論はない。

 ただ一つ書き加えるなら、たとえば原理主義的な人とリベラルな人との議論が結局どこにも到達しない、みたいなことがある。あれも突き詰めて考えてみれば、「視点の違い」が根底にあると思う。互いに向いている方向が違うから、見える景色も違うのだ。それぞれ違う風景を眺めているのに、あたかも同じものを見ていると錯覚したまま話しているとしたら、さてどうなるだろう。

 インド発祥の寓話に「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」というのがある。
 何人かの盲人が、それぞれ象の一部だけに触れ、感想を述べ合う。鼻を触った者は「蛇のようだ」と言い、脚を触った者は「太い柱のようだ」と言い、耳に触った者は「扇のようだ」と言う。そして争いになる、という話。皆それぞれ正しいことを言っているだけに、誰もゆずらない。これもやはり「視点の違い」に基づく話であろう。

 なんか中途半端だけど今回はここまで。

2017年1月25日水曜日

聖書の読み方に関する、身も蓋もない話

 聖書の読み方というテーマでしばらく書いている。「無誤無謬説」も交えてみた。

・参照記事

「聖書の読み方のススメ」
「聖書の『無誤無謬』について」
「聖書の『無誤無謬』について・その2」

 クリスチャン界隈で議論になりやすいトピック(「○○説」など)があるけれど、それらに対して私が抱くのは、ほとんど場合「それ話し合って何になるの?」「何の役に立つの?」みたいな身も蓋もない感想である。けれど、悪気はない。私は、キリスト教はつねに「理論」より「実践」だと考えていて、方法論とか理想論とか捏ね回してアーデモナイコーデモナイとやるより、行動してトライ・アンド・エラーを繰り返した方が有効だと考えているからに過ぎない。

 しかしだからと言って、いつでも行動すべき、という話ではない。当然ながら立ち止まって考えてみる時間も必要だし、休息も必要だ。そのへんのバランスは大切だと思う。だが「行動」と「思考」と「休息」とは互いに反しているものではなく、どれも一個人の生活の中に、適切に配置されるべきものだと私は考えている。
 
 また一つ誤解のないように書いておくと、私は聖書研究や、教派をまたがった議論などの「学術的な」活動を否定する気はまったくない。むしろ大いに研究が進み、じっくり話し合われ、今まで教会内で定説とされてきたものや、習慣的・伝統的に思い込まれてきたもの等のまちがいが指摘され、キリストの言わんとすることが混じり気なく教会に浸透するようになればいいなと願っている。

 だから私が問題にしているのは学術活動ではない。問題にしているのは、聖書を取り上げて「ほらここにこう書いてあるだろう」としたり顔で他人を引っぱたくような行為(英語でText beatingという)についてである。彼らは多くの場合、聖書の時代背景や歴史や、先人たちが残した聖書研究の記録などほとんど学んだことがなく、聖書の字面だけ追って、「ほらここにこう書いてあるだろう」と不毛な主張(あるいは浅はかな研究モドキ)を繰り返している。

■聖書は「字義通り」に行うべき?

 無誤無謬説と関連して、「聖書はすべて正しいのだから、字義通りに全て行うべきだ」という主張がある。
 けれどこの「字義通り」という話で私がいつも疑問に思うのが、「じゃあ書いていない事柄についてはどうするんですか」ということ。
 たとえば、殺人はいけない。聖書に書いてあるから。窃盗もいけない。聖書に書いてあるから。じゃあ大麻や覚せい剤は、書いてないからいいんですか? ということ。

 字義通りに行うとは、つまり「言われたからやる(やらない)」という態度だと思う。それは「従順」なのかもしれない。けれど、言われていないこと、明確でないことには対応できない。いつも「これはどうしたらいいですか」「この場合はどうしたらいいですか」といちいち聞かなければならなくなる。

 この前SNSで読んで興味深かったのが、「『沈黙』(映画)を観に行ってもいいですか? 信仰を失いませんか?」みたいなことを牧師に尋ねる信徒がいるとかいないとかいう話。子供ならまだしも、大の大人が映画一つ自分で判断できないのは大問題じゃないかと私は思った。

 また自分で判断できるとしても、聖書を字義通り行うというクリスチャンは、結局「書いてない事柄」については自己判断でイロイロやっているだろう。それが本当に「従順」かどうか、甚だ怪しい気がする。

 大切なのは、「言われたからやる(やらない)」という保育園・幼稚園レベルから卒園して、「聖書が言っているのはこういうことだから、この場合はこうするべきだ」と自律的に判断できるようになることだと思う。聖書が示しているのはあくまで基本姿勢なのだから、私たちは個々の生活の中で、それを応用していかなければならない。もちろん判断に迷うこともある。でもそういう葛藤もクリスチャンには必要ではないだろうか。

■聖書に関する疑問に超簡単に答えてみると

 さて趣向を変えて、ここからは聖書を読んでいて生じるであろう幾つかの代表的な疑問について、私なりに答えてみたいと思う。やはり身も蓋もない答えになるので、ガッカリされるかもしれないけれど。

・創世は本当に7日間だったのか?

 創世記1~2章に創世の経緯が書かれている。それによると、7日間で完全なる地球環境(宇宙環境含む)が創られ、あらゆる動植物が創られ、はじめの人間も創られた、とされている。ちなみに言うと7日目は休みだったので、実際には6日間だった。

 この記述は昔から議論されていると思う。どんな議論かと言うと、創世が文字通り7日間で終了したのか、あるいは7日間というのは比喩表現であり、実際には1日が何百年とか何千年とかいう単位だった、みたいな議論。だいたいが「創造論vs進化論」の文脈で語られるテーマである。

 それに対して私がどう考えるかと言うと、「現時点では判断できない」に尽きる(本当に身も蓋もないなあ)。創世のプロセスが実際に7日間だったのか、あるいは700年間だったのか、現代科学ではまだ解明されていない。これについては聖書をひっくり返しても何も出てこない。だから判断する根拠がないと思う。間違っているだろうか。

 ただ科学的に言ってみるならば、創世の「順番」は理にかなっていると思う。何もない空間にまず光と闇が創られ、次いで水と大気、海と陸、植物、太陽と月が創られた。そうして動物が生存可能な環境がお膳立てされてから、水生生物、陸上生物、最後に人間が創られた。破綻のない製造過程だと思う。

 この製造過程が本当に7日間だったかどうかは、前述の通り、判断する根拠がないと思う。ただ神の全能を考えるならば「可能だった」はずであろう。100年とか200年とか、期間が長ければいいという話でもないと思う。

 でもぶっちゃけた話、それが7日だろうが700日だろうが、私たちにさほど大きな影響はないと思う。もちろんその答えがわかるなら、単純に好奇心的に嬉しい。神による創世が科学的に証明され、それがわずか7日間だったとなれば、人類にとって大きなインパクトでもあるだろう。無神論者も神を否定できなくなるのではないか。
 でも少なくとも現時点では証明できない訳で、科学者でも何でもない私たちがそれについてアーダコーダ言ったところで、どうなるものでもない。

 それに私たち一般人には目下、毎日仕事とか学校とか生活とかがあり、今日の夕飯をどうるすか、クリーニング屋にいつ行くか、給料日までどうやってしのぐか、などイロイロ忙しいのである。あるいはクリスチャンらしく綺麗なことを言うとすれば、今日もどうやって隣人を愛そうか、教会にいくら献金できるだろうか、とかそういうことも考えなければならない。いちいち創世がどうだったとか構っていられない。またそんな議論は聖書の実践とは関係ない。
 と私は思う。

・黙示録はどういう姿勢で読むべき?

 これについても私は前述と同じスタンスを持っている。すなわち、そんなこと考えてどうするの? という感じ。
 黙示録はあくまで「黙示」であって、そのものズバリな表現はしていない。世の終わりにかかわる内容なのは間違いなさそうだし、イロイロ恐ろしいことが起こりそうな気がするけれど、実際にはわからないことだらけだ。解釈の幅もそうとう大きい。たとえば一つの事柄について解釈Aと解釈Bと解釈Cがあるとして、Aを採用し、BとCを棄てるとする。その根拠はどこにあるのだろう? なぜ自信をもって1つの解釈だけを支持することができるのだろう?

 だから黙示録(アポカリプス)は「黙示」として読む他ないと思う。「アポカリプス」には「開示されたもの」という意味があるようだけれど、私に言わせれば、何も開示されていない。比喩表現の宝庫のようでもある。それにわからないものを無理やり解釈しようとすると、キリスト教でなく「自分教」に陥る恐れがある。

 ただ終末に関して1つ言えるとしたら、それは福音書にあるキリストの言葉だ。
「惑わされないようにしなさい」
 これに尽きると思う。イロイロな解釈に振り回され、アーデモナイコーデモナイとやっていると、簡単に惑わされてしまう。惑わされるのは簡単である。そんな暇があるなら、キリストの教えを1つでも実行する方がよほど有意義だと私は思う。

2017年1月23日月曜日

聖書の「無誤無謬」について・その2

 聖書の「無誤無謬」について、2回目。
 前回のポイントをまとめると、聖書記述の物語性、時代性、地域性を考えるなら、単純に「絶対正しい」か「絶対誤っている」かという方向の話にはならないのではないか、ということ。

 今回は、そもそも「聖書無誤無謬説」にどう接していくべきか、という点について私見を述べてみたい。かなりブッタ切るつもりなので、保守的な方は読まない方がいいかも。
 ではさっそく。

■聖書の記述は歴史性においても正しいのか、という点

 聖書無誤無謬説について調べてみると、一つのトピックとして「歴史性」の問題が挙げられるようだ。
 すなわち聖書の歴史的記述、たとえば創世記に書かれた様々な事象が、本当に字義通りに起こったのかどうか、みたいな問題。天地創造の記述はもちろん、洪水前の人々の寿命がやけに長かったこととか、本当に地表を覆い尽くすほどの大洪水が起こったのかとかが、科学的にどうなのかと議論されているようだ。
 また、エデンの園に登場するヘビはサタンそのものなのか、あるいは別の何かの象徴なのか、という議論もある。あるいはちょっとズレるけれど、モーセ五書の著者が本当にモーセ本人だったのか、というのもある。

 でも私に言わせれば、それらの答えがわかったところで、何になるの? という話。
 その歴史性が正しかろうが誤っていようが、それが実在だろうが何かの象徴だろうが、「聖書に書かれている」という事実は変わらないし、そこにある神の意図を読み取ろうとする方が幾倍も重要だと思う。特にモーセ五書の著者が誰かなんて、言葉は悪いけれど、どうでもよくないですか? それとも著者がモーセじゃないと証明されたら、読み方が変わるんですか? なにも変わらないと思うけれど。

 という、身も蓋もない言い方で申し訳ない(気もする)。でも申し訳ないついでに書くと、そもそもの話、無誤無謬についての議論なんてあんまり意味がない気がする。もちろん、たとえば天地創造の原理が科学的に解明されでもすれば、それはそれですごいインパクトになるだろう。だからそういう研究自体の価値を否定するつもりはないのだけれど。

■聖書の各書簡の重要性のちがい、という点

 次に聖書無誤無謬説の周辺的な話題だけれど、聖書の各書簡の重要性のちがい、というのも議論になるようだ。
 簡単に書くと、たとえば新約の福音書はすごく大切だけれど、旧約のうしろの方の小預言書はさほど重要でない、みたいな立場がある。その一方で、いやいや聖書はどのページだって同じように重要だ、という真逆の立場もある。
 あなたはどちらだろうか。

 私個人は、聖書通読は必要だと思っている。
 簡単にできることではないけれど、聖書を頭から最後まで何度か通読して、全体に目を通すのは有益だと思う。その理由は一にも二にも、それがキリスト教の教典だからだ。信仰者であるなら教典全体に目を通すのは当然であろう。何が書いてあるのか把握しないまま、その対象(神)を信奉するというのは、私には違和感がある(もちろん聖書を入手できない時代や地域は事情が変わってくると思うけれど)。
 だからその意味において、書簡に区別を付けず、聖書全体を読むのは大切だと思う。

 しかし一方で、すごく実際的な話をすると、読むのがとっても苦痛な書簡があるのも事実だ。たとえばレビ記は、私はあまり読みたくない。同じようなことが延々と続く箇所があるからだ。これ割愛してもよくね? といつも思う。
 そして反対に、何度でも読みたい書簡もある。個人的には、キリストの山上の垂訓がとても好きだ。またヨハネの福音書全体も好きだ。ちょっと自慢させてもらうと、私は一時期、ヨハネの福音書を頭から全部暗唱したことがある。

 だから実際的な話、聖書の各書簡の重要性はそれぞれ「ちがう」と私は考える。単純に考えて、新約聖書か旧約聖書か、どちらかしか持って行けないという状況になったとしたら(どんな状況だよ)、誰もが新約聖書を選ぶのではないだろうか。
 理想として「聖書は全体が重要だ」と言えればいいだろうけれど、現場レベルでは、読みやすい書簡と、そうでない書簡との区別があると思う。その証拠に、たとえばナホム書とハバクク書とゼパニヤ書が旧約聖書の何番目の書簡か、パッと答えられる人がどれくらいいるだろうか。私は答えられないけれど。

■聖書の議論、聖書の実践

 というわけで、聖書無誤無謬説もそれに関する議論も、あまり意味がないように私は考えている。また無誤無謬説だけでなく、時々みるクリスチャン界隈でのイロイロな議論についても、結果的にどこに着地したいのかよくわからないことがある。
 もちろん聖書を探求しようとか、深く掘り下げたいとかいう動機そのものは良いものであろう。議論が必要な時もあると思う。でもたとえば、黙示録の一節一節を取り上げて「これにはこういう意味がありそうだ」「こんなことも考えられる」「こういうことかもしれない」と捏ね回したところで、それがいったい何になるのか私にはよくわからない。本人は満足かもしれないけれど。

  たとえばキリストの言う「隣人愛」について知りたかったら、もちろん聖書の記述を最低限知っておく必要があるけれど、聖書や注解書を捏ね回すより、実際に友人や知人に声を掛けてみる方が有益だと思う。

 昨年4月の熊本地震をまた引き合いに出すと、「この地震には〇〇という霊的意味がある」とかほざく暇があったら、支援金を千円でも二千円でも送った方がまだ役に立ったと思う。当時、「今は祈りましょう」とか「今現地に連絡しても迷惑になるから」とか言っていた人たちは、その後1回でも現地に連絡を入れたのだろうか。被災した方々に、一言でも声を掛けたのだろうか。
 そのへんに、「議論」と「実践」のちがいがある気がする。

 話が脱線したけれど、結論はそういうこと。聖書研究そのものを否定する気はない。議論も良いだろう。けれど聖書無誤無謬説とか〇〇説とか聖書を捏ね回す時間を少しでも割いて、困っていそうな友人知人に電話の一本でも入れたらいいのではないかな、と私は思う。

2017年1月21日土曜日

貫き通すべき「信仰」とは何か。映画『沈黙-サイレンス-』から。


 本日(1月21日)公開の映画『沈黙-サイレンス-』を鑑賞した。
 言わずと知れた遠藤周作の同名小説の映画化である。監督は大御所のマーティン・スコセッシ。
 一言で感想を言うなら、大変重厚なドラマであった。

 原作ははるか昔に流し読みした程度なので、今回の映画との差異はよくわからない。でも概ね忠実な作りだったと思う。
 ここでは原作はさておき、映画について、考えさせられたことを紹介したい。

■簡単にあらすじ(ネタバレあり)

 17世紀半ば。日本で布教活動中だったフェレイラ司祭が現地で棄教した、という知らせがポルトガルに届く。フェレイラを師と仰ぐ若き司祭、ロドリゴとガルペは真実を知るため日本に赴く。しかし長崎は激しい迫害下にあり、日本人信徒(キリシタン)たちは潜伏を余儀なくされていた。
 ロドリゴたちは初めこそ歓迎されたが、自分たちの存在がかえって彼らに危険をもたらしたとを知る。そして棄教を拒んだキリシタンたちが(自分たちのせいで)処刑されるのを目の当たりにし、苦悩する。なぜ彼らが苦しまねばならないのか、なぜ神は沈黙しているのか、と。
 やがてロドリゴも奉行所に捕えられ、殉教を覚悟する。しかし処刑はされず、かえって自分を慕うキリシタンたちが目の前で処刑されていくのを、延々と見せられるのだった。そして奉行にある条件を突きつけられる。ロドリゴが棄教すれば、彼らを助けてやる、と。
 自分の信仰を守るために彼らを見殺しにするか、信仰を捨てて彼らを助けるべきか、ロドリゴは究極の選択を迫られる。しかしそれこそが、かつてフェレイラが棄教した理由だった。そしてフェレイラと同じく「神の沈黙」の意味を知ったロドリゴは、踏み絵を踏むのだった。

■クリスチャンにこそおススメしたい映画

 本作を鑑賞するには、キリスト教の基本的知識、とりわけキリストの十字架について知っていることが前提になると思う。キリストが黙して十字架刑を受けたこと、十字架上で苦しんで死んだこと、そのとき天の父(神)が沈黙していたこと、なんかを知らないと意味がわからない部分が多いと思う。その意味では、クリスチャンの方々にはわかりやすいストーリーであろう。

 また本作は、キリスト教的「殉教」ついて疑問を投げかけている。
 映画の中で、殉教は素晴らしいことだ、栄誉あることだ、踏み絵など踏まずに信仰を貫き通して死ぬべきだ、みたいなセリフが登場する(ガルペ司祭が言う)。けれど後半、それに対して、では他者を苦しめて(死なせて)まで自分の信仰を守るべきなのか、ではキリストが言う隣人愛とは何なのか、というアンチテーゼが提示される。フェレイラは、そしてロドリゴは、神を愛するがゆえ、信仰を守りたい。しかし信徒らを愛するがゆえ、信仰を棄てざるを得なくなる。しかしもし棄てなかったら、それは隣人愛を棄てることになる。というパラドックスに陥る。

 つまり、信仰を守るためには信仰を捨てなければならない、でも捨てなければ信仰を守れない、という究極のジレンマ。これはクリスチャンの皆さんに是非考えていただきたい問いだ。

■押し付けられる「殉教」

 興味深かったシーンの1つに、奉行所への人質をどうするか、村人たちが話し合う場面がある。
 キリシタンが潜伏していると疑われた村人たちが、人質を出すよう、奉行所に命じられる。村人は実は皆キリシタンなのだけれど、人質にはなりたくない。だから「誰が人質になるか」という話になると、皆押し黙ってしまう。 そして他者に押し付けはじめる。「おまえ、本当のキリシタンだったら人質になって殉教しろ」みたいなことを言うのがいて、いやいやあなたもキリシタンだよね? と言いたくなった。
 このへんに、教理だからと信徒にあれこれ押し付ける、カルト系牧師のやり方が重なって見えた。

■棄教することで信仰を守る、という逆説

 もしかしたら本作は、「カトリック司祭が結局棄教してしまった物語」と誤解されてしまうかもしれない。
 表面的にはたしかにその通りである。フェレイラ司祭もロドリゴ司祭も、処刑されるキリシタンたちを救うため、自ら棄教した。そして日本人の名を名乗り、日本人の家族を持ち、日本人として生きていくことを選んだ。もはや司祭として活動せず、公には神を否定し続ける。そして死ぬまでそれを貫く。これは「棄教した」と言ってもいい。

 しかし終盤のいくつかのシーンからもわかる通り、彼らは神への信仰を捨ててはいない。むしろ残りの生涯をかけて、神への忠誠を体現し続けた。それは「棄教した」と公に宣言し続け、司祭であることを棄て続け、人から何と言われようと黙って耐え続けることだった。そしてそれこそが、キリストが黙って十字架刑を受けた「忍耐」、その様子を見ながら沈黙し続けた天の父なる神の「忍耐」から、ロドリゴたちが学んだことだったのだ。
 つまり、「完全に棄教した人生」を周囲に見せ続けることで、彼らは自分の信仰をギリギリの線で守り通したのである。
 と、私はそう解釈した。

■ちょっとトリビア

 終盤の、ロドリゴが踏み絵を踏むシーン。踏んだ後、ロドリゴは泣き崩れるのだけれど、そのときニワトリが鳴く。これはもちろん、ペテロがキリストを3度否定した後でニワトリが鳴いた、というあの話から来ているだろう。すごく細かいシーンだけど、これから鑑賞する人には良かったら確かめてみてほしい。

■疑問な部分

 本作で語られるいくつかの考え方に、若干疑問を持った。
 1つは、日本が「沼地」であってキリスト教は決して根付かない、というもの。まあたしかに日本のクリスチャン人口はメチャ少ないんだけど、「決して根付かない」まで言えるのかなぁ、という疑問。

 もう1つは、日本では「神」のイメージが歪んでしまった、彼ら日本人は「神」と言いながら「太陽」を拝んでいる、というもの。「神」に対する考え方が歪んでしまう、というのは実際にあると思うけれど、クリスチャンが太陽を拝むってあるのかなぁ、とそこは大いに疑問だった。

■最後に

 原作者である遠藤周作の意図はよくわからないけれど、私はこの作品に、キリスト教の欺瞞を提示する側面があるように思えた。
 それは「踏み絵を踏んで殉教すべきだ」という、一見すると信仰的な、敬虔な姿勢に対して現されている。すなわち「殉教」という、もちろん苦しいことだけれど、その反面で華々しく、いつまでも人々の記憶に残るという栄誉が付いて回る行為に、少なからず自己満足や見栄が含まれているのではないか、という問いかけである。そしてそれに対して、「棄教した」という不名誉を一生背負って沈黙を守ったまま生きていく、その姿勢にこそキリスト教の真髄があるのではないか、という答えが提示されているように私には思えた。

「殉教」してまで貫き通そうとしたのは、もしかしたら「信仰」でなく、自分自身の「見栄」なのかもしれない。そして不名誉に甘んじて沈黙を貫き通すことが、もしかしたら「信仰」なのかもしれない。そんな視点を持ちつつ、この作品を鑑賞してみたらいかがだろう。

2017年1月19日木曜日

聖書の「無誤無謬」について

 聖書の「無誤無謬」について、クリスチャン界隈で時々議論になっているのを見る。

 聖書の無誤無謬説(誤りがない、正しい、という意味)を主張するのは、だいたい原理主義的な立場の人たちである。それに反対するのが、リベラルな立場の人たちである。多少乱暴な括りかもしれないけれど、私はそんな印象を持っている。

 私は原理主義的な教会で酷い目にあった過去があるので、心情的にはリベラル側を応援したい。ここ数年で考え方もだいぶリベラル寄りになってきた。が、極端に振れるというより、できるだけニュートラルな姿勢で物事を見極めたい、というのが正直なところだ。だから原理主義だからと、何でも噛み付くようなことはしたくない。

 で、聖書の無誤無謬について。私が不勉強なだけかもしれないけれど、聖書を「正しいか誤っているか」で議論するのが、実はイマイチしっくりきていない。
 何故しっくりこないかと言うと、まず第一に、聖書の物語性(文学性)が、「無誤無謬」という概念と噛み合っていない気がするからだ。

■「誤っているかどうか」でないはずの、聖書の文学的表現

 前回の記事「聖書の読み方のススメ」の中の「聖書の物語性に留意する」でも書いたけれど、聖書の記述が必ずしも正しくないのは当然だと思う。たとえば聖書中の人物があるストーリー展開の中で発言したことは、あくまでその人の私見であって、神の啓示とは限らない。それは聖書に書かれた文言ではあるけれど、あくまで一個人の意見であって、普遍的な真理とは限らない。
 たとえばダビデは、詩篇で神に対する愚痴みたいなものを感情的にダラダラと書いている。神はわたしから遠いとか、神は聞いてくれないとか、いつまでも答えてくれないとか、いろいろ。でもそれは、「神様がそういうお方だ」という話ではない。ダビデが苦しい胸中をそのように(文字通り詩的に)表現しているにすぎない。

 だからそれが「正しいか誤っているか」という点で論じられるのも変な話だと思う。厳密に言えば、「神様がどんなお方か」という観点では「誤っている」と言うべきかもしれない。しかしそもそも物語性とはそういうものなので、そういう表現もあって当然である。
 つまり聖書は物語文学でもあるのだから、上記のようなケースが存在するのは至極当然であって、それをいちいち誤ってるだ何だと論じること自体がナンセンスだと思う、という話。

 そういうことをちゃんと理解したうえで聖書を読むならば、「あーこれはこの人物の言葉だ」「これは大切な教理だ」と区別することができる気がする(もちろん、わからないこともあると思うけれど)。

 と考える私は単純すぎるのだろうか。

■現代と合わない、時代背景による記述

 聖書の無誤無謬を考えるうえでもう一つポイントになるのが、「時代や地域に応じた適応」という側面だと思う。

 たとえばだけれど、新訳聖書のパウロの主張をそのまますべて受け入れるべきだとしたら、女性は帽子を被っていなければならないし、教会では沈黙を守らなければならなくなる。また男女とも独身でいることが推奨される。
 あるいは当時のローマは奴隷社会だったけれど、それを前提としたパウロの記述も複数ある。それらを見る限り、奴隷制は肯定されている。
 つまり聖書には、現代の生活様式や習慣と同じには考えられない部分がある。

「聖書がすべて正しい」と主張するならば、上記のような男尊女卑を取り入れ、クリスチャンの婚活などせず、奴隷制反対みたいな人権擁護運動もできなくなる。でもそこまで字義通りに実行している人がいるだろうか。

 一般的な読解力があるならば、これらの記述が当時の時代背景に影響されたものであり、現代には当てはめられない、とわかるだろう。
 でも、だからと言ってこれらの(たとえばパウロの)勧めを「誤り」だとするのも私は違和感がある。繰り返すけれどそれは当時の時代背景の中で書かれたものであり、単に現代とは「合わなくなった」だけであって、べつに誤りでも何でもないからだ。

 話をわかりやすくするために別の例を挙げてみる。
 地域性の問題として、申命記22章8節に、「家の屋上には手すりを付けなければならない」という命令がある。(そもそもの話、律法の細かい規定は新約時代においては履行しなくていいのだけれど)この命令は当時のユダヤの建築物を基準にしている。すなわち平らな屋上があって、人が上がっていける造りになっているのだ。だから手すりがないと、ものすごく危ない。でも、たとえば北欧の雪国だと屋根が尖がっていて、屋上などない。平らな屋根だと雪が積もって危険だからだ。だからこの命令は、屋根が平らな作りの文化にしか適用されない。もし律法が今でも有効だと仮定しても、この命令は、どの地域でも有効になる訳ではない(だからと言ってそれが誤りとはならない)。

■編纂の問題:教典としての聖書

  聖書の無誤無謬を考えるうえで次に挙げたいのは、聖書の編纂についてだ。

 ご存知の通り、聖書はいろいろな書簡の集合体だけれど、プロテスタントやらカトリックやら正教会やらコプト教会やらで、その編纂が異なっている。だからそれぞれ「違う」聖書を使っている。もちろん中心的な教義は同じはずだけれど、簡単に言うと、ある教会で聖書に含まれている書簡が、べつのある教会では存在していない、みたいなことになっている。
 では、どれが正しくて、どれが間違っているのか?

 そのへんを議論しだしたら、多分果てしないことになるだろう。でもどれかが「正しく」て、どれかが「誤っている」としたら、「誤っている」とされた教会なり教派なりは存続の危機に陥ってしまう。なぜならそもそもの教典が「誤っている」という話になってしまうからだ。

 しかし(もしそうだと仮定して)、その責めを現代の我々が負うのも理不尽な話であろう。我々は教典として伝えられてきたものを素直に読んできただけなのだから。信仰歴〇十年となったところで「あ、その聖書、まちがってました!」とか言われたら、あなたならどうするだろうか。

  この問題で私が単純に考えるのは、こうだ。現在聖書が、どの教派のものであれ、今のような形に編纂されて伝えられてきているのは、神の介入によるものだ、ということ。
 もちろん、大勢のエライ人たちが長い時間をかけて研究し、話し合って最終的に決めた編纂なのであろう。だから不完全な人間たちによる、不完全な決定であるのは間違いない。しかしそこにも神の知恵というか、配慮というか、計画というか、とにかく神による介入があったと私は考える。
 もしそう考えないとしたら、教典であるはずの聖書が、教典としての力を失ってしまう気がする。それが間違って編纂されたものだとしたら、私たちの教義理解も教会生活も信仰生活も、全てどこか(部分的であっても)間違っているということになってしまうからだ。であるなら聖書はキリスト教信仰の基礎でなく、単なる自己啓発本とかハウツー本とかになってしまうと思う。

■とりあえず、まとめ

 さて、聖書の無誤無謬説の「しっくりこない部分」について書いてみた。
 結局のところ、私が無誤無謬説に賛成するかしないかと言うと、現在言われているような形の「無誤無謬説」には賛成しない。ということになる。

 しかし私が注目したいのは、もうちょっと根本的なことについてだ。すなわち今まで書いてきたように、無誤無謬説について考えるならば、まず最初に聖書の「誤り」とは何なのか? というところから考えなければならないと思う。そして聖書の物語性、時代性、そして地域性について考えるならば、単純に「絶対正しい」とか「絶対誤りだ」とか、そういうベクトルの話にはならない気がする。

 現在入手できる聖書には神の意思が介入しており、そこに教典としての絶対性がある、ということを認めたいと私は思う。繰り返すけれど、それを認めないならば、そもそも私たちの信仰とは何なのですか、という話になるからだ。

 もう少し書きたいけれど、なんか複雑になってきたので今回はここまで。

2017年1月14日土曜日

聖書の読み方のススメ

 聖書を読むのは、クリスチャンであれば日常的な行為であろう。
 ただどう読むかは、けっこうマチマチではないかと思う。 

 そもそも聖書の読み方に厳密なルールがある訳ではない。もちろん聖書を「本」として考えるなら、初めから1ページずつめくっていくべきだろう。しかし聖書はちょっと勝手が違う。量が膨大なので、初めから読み進めたら、読み切るのに何ヶ月とか、ペースによっては何年とかかかってしまう。しかも初めから4分の3くらいは旧約聖書だから、キリスト教なのに肝心の「キリストの教え」を当分読めない、みたいな事態にもなる。
 だから聖書の読み方には、何らかの工夫が必要だと思う。

  また、当ブログにコメントをいただいたことがあるけれど、クリスチャンになって何年も経っているのに、いまだに聖書を通読したことがないとか、神学的なことは全然わからないとか、そういう人もいる。クリスチャンになったばかりの人が「全然わからない」と言うのはわかるけれど、すでに「先輩」と呼ばれる立場で、人前に立つ奉仕もしているような人が「全然わからない」と言うのはさすがに問題があると思う。そういう人に「導かれる」会衆は一体どうなってしまうのだろうか、と他人事ながら心配になる。
 そういう場合は、奉仕を頑張る前に、聖書をどう読むか、どう学ぶか、という点について立ち止まってよく考える必要があるのではないだろうか。

 という訳で今回は、聖書の読み方と注意点について、私見を述べてみたい。

■聖書はどこから読み始めるといいか

 膨大な情報量を持つ聖書を、まずどこから読み始めるべきか。前述の通り、初めから順番に読み進めていくと、結果的には通読になって良いかもしれない。けれど初めての方には、ものすごい遠回りになってしまう恐れがある。
 で、どんな読み始め方があるか、(クリスチャンになったばかりの人が対象になると思うけれど)私が実践したり見聞きしたりしたことを紹介してみる。

・四福音書、特に「ヨハネの福音書」から読む

 キリスト教は文字通り「キリストの教え」を知ることから始まると思うので、キリストの言行録とも言える福音書から読むとわかりやすいかもしれない。ただし「マタイの福音書」は第一章が人名と家系の羅列なので(それにも意味があるけれど)、初めての方には「なんじゃこりゃ」となりやすい。
 その点、「ヨハネの福音書」は四福音書の中では一番読みやすく、キリストの言葉が沢山出てくるので、初めての方にもわかりやすいと思う(私がそうだった)。また他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に出てこない話も沢山ある。まずヨハネの福音書を読み、それから他の福音書を読み比べてみる、という読み方はアリであろう。 たしか「ヨハネの福音書」だけを掲載した薄い小冊子もあると思う。

・新約聖書から読破する

 キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせたものだけれど、キリスト教の実践という観点から見ると、新約聖書の方が重要性が高いと思う。もちろん旧約聖書も大切だけれど、「何も知らない人にまずどちらを勧めるか」で考えると、新約聖書に軍配が上がるであろう。

 旧約と新約では、平たく言うと「神」の印象が全然ちがってくる。旧約からは「おっかない神」という印象を受けるけれど、新約からは「お父さんである神」という印象を受ける。まずは後者の神様に触れてから、適切なガイドを受けつつ、前者に触れていくのが良いかもしれない。

 信仰歴が長くなり、聖書に親しんでいくと、旧約聖書からばかり引用する人が出てくる。
 たとえば「聖所に向かって手を挙げよ」という旧約の記述を強調して、賛美中に手を挙げるよう(事実上の)強要をする人がいる。でも新約でキリストが強調しているのは形式でもなく、場所でもなく、「霊とまことによる礼拝」であって、賛美中に手を挙げろとか、飛び跳ねろとか、踊り叫べとか、そんなこと言ってない(それを否定している訳でもない)。
 だから「手を挙げて賛美しましょう」というのは、聖書を根拠にしているのでなく、ただ「礼拝の盛り上げたい」だけだと私は思う。

 ちょっと脱線したけれど、キリスト教の基本となるのは、やはり「キリストの教え」であろう。だから旧約、新約とも万遍なく読んで理解を深めるのも大切だけれど、いつも新約の基本に戻るべきだと私は思う。

・旧約聖書はわかりやすいところから

 旧約聖書は、それはそれで魅力的な書物だと思う。人類のはじまりから堕落、大洪水とその後、アブラハムにはじまるイスラエル民族の歴史を、長い長い大河ドラマ的に楽しむことができる。創世記、出エジプト記(の前半)と読み進め、レビ記と民数記と申命記は(読むのが大変なので)スルーして、ヨシュア記からまた順番に読んでいけば、歴史の流れはおおよそ掴むことができる。

 レビ記と民数記と申命記にも若干ストーリーがあるけれど、長い長い律法の言葉(しかも同じ内容が何度も繰り返されたりする)が延々と続くので、初めての人にはキツい。だから初回はスルーしていいと私は思う。
 また詩歌や預言書は、それが書かれた時代背景や人物の状況を把握してから読まないと、なんかよくわからないまま終わってしまう。
  結論として、旧約聖書は読みやすいところから読んでいき、小難しいところは思い切って飛ばしていいと思う。そして後々知識が付いてきたら、そのとき挑戦すればいい。

■聖書を読むうえでの注意点

 次に、聖書を読むうえで注意した方がいいことを書いてみる。

・文脈を無視しない

 これはよく言われることであろう。今さら書く必要ないかもしれない。
 すごく単純でわかりやすい例を挙げると、コリント第一の5章8節。「パン種の入らないパンで祭りをしよう」と書いてあるけれど、これはそういう祭りを実際にしよう、という勧めではない。6節からの「高慢」に関する文脈の一部分であって、「わずかな高慢がパン種みたいに全体に広がるから気を付けなさい。そういうパン種(高慢)は入れないようにしなさい」という勧めである。その文脈を無視してしまうと、「さあ聖書にある通り、私たちの教会はパン種を入れないパンの祭りを毎月第〇日曜日に行います」みたいな話になってしまう。文脈を無視して一節、一語だけ取り上げてはいけない。

・聖書の物語性に留意する

 これは依然SNSに投稿したことだけれど、聖書の「物語性」に注意しなければならない。特に旧約においてそうだ。たとえばヨブ記をみると、酷い試練に遭って苦しんでいるヨブを励ましに、3人の友人たちがやってくる。そして3人がそれぞれ自分の長い主張を語って聞かせる。この3人の主張は、読んでいる段階では、一理も二理もあるように思える。でも終盤になって神ご自身が現れ、その3人の主張にまさかの「ダメ出し」をするのである。つまり3人のそれらしい主張は、ことごとく間違っている、ということ。
 そういう話の筋を知らないまま、3人の主張にだけ注目してしまうと、「これも聖書の言葉だから」と鵜呑みにしてしまう恐れがある。

 登場人物たちがあーだこーだ主張し合うという話の展開においては、当然ながら、その全てが「正しい」とはならない。「聖書は全て正しい」と言う人がいるけれど、上記の通り、一語一句に至るまで全部正しい、というのは言い過ぎであろう。聖書の物語性を理解して読まないと、おかしなことになってしまう。

・独創的な解釈に注意する

 聖書にはハッキリ明示されていることと、明示されていないこととがある。たとえば「盗んではならない」という命令は非常に明確で、他の解釈のしようがない。けれどたとえば、(大雑把に書くと)「信仰は行いではない」と言いながら「行いのない信仰は死んでいる」とも言っていて、どっちやねん! という部分もある。他にも明確になっていないことが沢山ある。
 つまり、聖書には「わからない」ことが沢山ある。でもそれは悪いことではなくて、わからないものは「わからない」でいいと思う。そこに無理やり自己流の解釈をほどこすと、キリスト教でなく「自分教」になってしまう。

「自分教」に陥ってしまう人の特徴として、ヨハネの福音書14章26節の「聖霊がすべてのことを教える」という箇所を強調する傾向がある。「聖霊様が私に教えてくれた」として、聖書のいろいろな箇所を、独創的に解釈してしまうのである。

 たとえばアモス書9章11節の「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・」を取り挙げて、「これは終末の日にダビデの幕屋の礼拝が回復されるという意味だ」と主張して、24時間の礼拝に勤しむ教会がある。でもこの箇所は明らかに比喩表現であって、旧約時代のダビデの幕屋をそのままの形で現代に再現する、という意味にはならない。だから角笛(つのぶえ)とか竪琴とかをわざわざ輸入して礼拝に導入する必要なんてはない(べつに導入してもいいんだけど)。
 それでももし本当にダビデの幕屋を「回復」したいのなら、角笛や竪琴だけでなく、律法に規定されている幕屋を忠実に再現しなければならないし、聖所とか至聖所とか、燭台とか契約の箱とかも規定通りに揃えなければならないはずだ。でもそこまでしている教会はない。私はそこに矛盾があると思うのだけれど。

 以上、聖書の読み方と注意点を挙げてみた。

2017年1月11日水曜日

クリスチャンと「論理」

 前回は「微熱って『悪魔の攻撃』なんですか」という記事を書いた。
 微熱とか頭痛とか腹痛とかの体調不良、あるいはもっと重い病気などを短絡的に「悪魔の攻撃だ」と決めつけるのは根拠がないし、論理的でもない、というような内容だった。今回はそれに追加する形で、クリスチャンが持つべき「論理」について書いてみたい。

■論理の必要性

  前回の話を引用すると、たとえば微熱は、小児や高齢者や虚弱体質の人に出やすい症状である。若い人だってちょっとした変化で熱を出すことがある。あるいは反対に、微熱さえも出したことがない人だって中にはいる。また、微熱を出したことで成り行き的に良い結果になった、という場合だってある。
 だから、誰かの微熱はもしかしたら「悪魔の攻撃」なのかもしれないけれど、そうでない場合だって多々あるはずで、その判定を誰がどんな基準でどうやってするのか、という問題が出てくる。教会にくると約束してくれたAさんが、当日微熱で来れなくなり、「あーこれは悪魔の攻撃だな」とクリスチャンの側が決めつけても、実際には単にAさんが面倒臭くなって口実を付けただけなのかもしれない。あるいはそうでなく、純粋に熱が出て体がキツくなってしまったのだとしても、だからと言ってそれを「悪魔の攻撃だ」と判定する根拠がない(あると言うのなら、納得できるように説明してほしい)。

 この例からもわかる通り、クリスチャンにも筋道の通った「論理」が必要だと私は思う。「A=B、B=C、ゆえにA=Cである」みたいなシンプルな論理が。

 しかしこういう話をすると、こんな反論がやってくる。「いえ、信仰とは論理で割り切れるものではありません」
 信仰とは心で感じるものだ、内なる感覚に従うものだ、みたいな。でもそれは、私に言わせれば「主観」でしかなくて、根本的に矛盾している。

 なぜなら、「信仰は論理で割り切れない」と言う割には、聖書の記述が科学的に立証されるのを彼らが喜んでいるからだ。たとえばノアの方舟のサイズが船舶建造の黄金比に合致していたとか、大洪水以前の人々の寿命が長かったのは地球を水蒸気層が覆っていたからだとか、そういう論理的発見(それが正しいかどうかは別として)により聖書の「正しさ」が証明されたと言って、彼らは大いに喜んでいるのだ。

 つまり、信仰に「論理」が持ち込まれるのは喜ぶけれど、自分の感覚に「論理」を持ち込もうとはしない。
 自分の「感じたこと」は絶対「正しい」けれど、それが論理的かどうかという検証はしない。

 私がこのブログでイロイロ問題提起をしていると、時々反発する人が現れる。でも残念なことに、一人として、論理的に納得できる反論をしてくれた人はいない。酷いものになると「うるせーとしか思わない」「こんなの書くのは小物」みたいなお子様レベルの中傷がやってくる。

 私は自分が正しいとは思っていない。おかしいと思うことを、「おかしいと思う」と言っているに過ぎない。誰かがちゃんと説明してくれて、それでスッキリ納得できるなら、いくらでも自分の考えを訂正したいと思う。

■福音は非論理的なのか

 時々こんな意見も目にする。
「キリストの福音は理屈(論理)で割り切れるものではない」
  すなわち、それを信じるのは論理を越えた部分である、という意味であろう。

 しかしこの意見は、論理と論理でないものとを混同していると思う。
 つまり、キリストの十字架の死と復活は、キリスト自身にとって合理的なものではなかったかもしれない。わかりやすく言うと、感情的には嫌だったかもしれない。しかし彼自身の教えである「隣人愛」を究極的に体現したものであって、その意味でちゃんと筋道が通っている。すごく論理的な行為だと思う。

 だいいち、もしキリストの福音に論理的矛盾があるとしたら、私たちは果たして信じただろうか?
「A=B、B=C、でもA=Cではない」みたいな論理的破綻があるとしたら、誰だって不安になると思う。たとえば、「神は愛である。神は1人として滅びることを望まない。ゆえに神はあなたの罪を許さない」みたいなおかしな話だったら、みんな相当困ってしまう。少なくとも教理として受け入れはしないだろう。私たちだって誰かに福音を伝える時、ちゃんと筋道を立てて説明しようとすると思う。話が支離滅裂だったら、誰も信じてくれないからだ。
 その意味で、やはり論理は必要なのだ。

 そういう論理の上に福音を成り立たせ、誰かに説明したとして、それを相手が信じるかどうかは、たしかに「論理を越えた部分」の話になるかもしれない。しかし論理がなければそこまで到達できないのであって、論理はいらないとか、自分の感覚が全てだとか、そういう話にはならない。

 という訳で、信仰には論理が必要だという話。
「微熱が出て教会に行けない」→「あー悪魔の攻撃だね」
 そこにどんな論理があるのか、あるいはないのか、よくよく考えてみていただきたいと思う。

2017年1月6日金曜日

微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

■微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

 あるクリスチャンの方々の、こんな会話がある。

A「知り合いを教会に誘ったら、次の日曜に来てくれることになりました」
B「ハレルヤだね。Aさんの祈りが通じたね」
A「はい、ありがとうございます」
(次の日曜日)
A「知り合いが朝から微熱で、来れなくなりました」
B 「あー悪魔の常套手段だね。続けて祈ろう」

 これを見て、皆さんはどう思われるだろうか。
 ちなみに私は溜息をついてみた。

 これはつまり、「微熱=悪魔の攻撃の常套手段」という話なのであろう。でもどうしてそういう話になってしまうのか、根拠が知りたい。

 またその根拠が何であれ、微熱が悪魔の「攻撃」だとしたら、ずいぶん可愛いらしいと思う。それにそんなこと言ったら、新生児や乳児は四六時中「攻撃」されていることになるし、体温調節機能が低下した高齢の皆さんは布団を厚めにかけただけで悪魔に「攻撃」されてしまうことになる。
 そういうチョコマカした「攻撃」で人に嫌がらせするのが、現代の悪魔のやり方なのだろうか? だとしたら悪魔など恐れるに足りないのではないか。解熱剤や冷えピタで、簡単に撃退できるのだから。

 あるいは、「教会に来ようとした人を微熱で邪魔してやった」のがその悪魔の功績なのかもしれない。人を教会から遠ざけるのが悪魔の目的で、微熱はあくまでその手段の1つ、という話なのかもしれない。だとしたら「悪魔の策略」など見え見えで、やはり恐れるに足りないと思う。
 なぜ人類は、こんな見え透いた手しか使わない悪魔にやられてしまったのだろうか。よくそういう教会では「悪魔の策略は巧妙だ」みたいな話が出るけれど、これのいったいどこが巧妙なのだろうか。
 と、私はイロイロ疑問に思う。

■本当に「悪魔の攻撃」だとしたら

 聖書に「悪魔の攻撃」を求めるならば、たとえばヨブ記が挙げられるだろう。サタンは神の許しを得て、ヨブの全身を腫物で覆うという身体的「攻撃」をした。あるいは新約を開くならば、人に憑依(?)して凶暴化させた悪魔とか、豚の群れに入った悪魔とかも出てくる。なるほど、悪魔は人間を物理的にも「攻撃」する、と読むことができる。

 しかしかと言って、悪魔の「攻撃」が必ずしも病気だとか、必ずしも微熱だとかいうことにはならない。もし病気が全て悪魔の「攻撃」ならば、今いる病人たちは皆「攻撃」された(あるいは攻撃され続けている)ことになる。そして今まで大病とか大きな怪我とかしなかった人たちは、未信者か信者かに関係なく、一度も「攻撃」されなかったことになる。その差はいったい何なのだろう。悪魔は健常で病気にかかりにくい人たちを「攻撃」できないのだろうか。免疫力の弱い人たちしか「攻撃」できないのだろうか。

 また病人と一口に言っても、そこには年齢別・階層別の明らかな「差」があるはずだ。簡単に言うと、若い人の病気率は低く、小児と高齢者の病気率は高い。とすると、悪魔は小児や高齢者を重点的に攻撃している、ということになる。でもどうして? 気力・体力ともに充実している若者は狙いづらいのだろうか。

 ヨブ記に限定して言えば、悪魔の攻撃は「神の許可」を得て行われたはずだ。とすると、(病気=悪魔の攻撃ならば)神が全人類を病気で攻撃する許可を悪魔に与えた、ということになる。であるなら、微熱なんて可愛い攻撃で済むのだろうか。もっと壮絶なことにならないだろうか。悪魔が人間に対してそんなに手加減するのだろうか。

 それに、病気になってかえって良かった、というケースだってある。
 実際にあった話だけれど、ある人が遠方の「聖会」に参加しようとして、新幹線のチケットまで用意していた。しかし前日になって体調を崩してしまい、泣く泣く参加を断念した。けれど当日たまたま大雪が降って、もし予定の新幹線に乗っていたら途中で立ち往生してしまうところだった。それを知った関係者は「これも主の守りでしたね」とか言っていたけれど、あれ、病気って悪魔の攻撃なんじゃなかったっけ? なんか都合よくないですかね。という話。

 結局のところ、「悪魔が病気をもって人間を攻撃する」のは否定できないけれど、肯定もできない。起こった事象を主観的にどうとでも解釈できてしまうのだから。ちょうど教会に来ようとした朝に微熱が出たのを「悪魔による妨害だ」と思いたい心情はわかる。けれどそれは心情に過ぎない。そこに明確な根拠は見つけられない。

■悪魔について論じる前に考えるべきこと

「教会に行こうと思ったけれど、微熱が出たので行けなかった」
 それを「悪魔の攻撃」と短絡的に考えるより前に、少し人間心理について考えてみることをお勧めする。

 ぶっちゃけた話、「微熱があるから休む」としたら、それは(その人にとって)さほど大切な用事じゃなかった、ということだ。はじめから。
 もちろん虚弱体質とか病弱とかで、ちょっとの熱でも大変つらくなってしまう、という身体状況の人は別だ。けれどそうでない人、特に健常で若い人などは、微熱くらいだったらかまわず出掛けるだろう。大事な用事があるなら尚更である。

 自分の場合で考えてみればわかると思う。あなたにとって重要な日、なんでもいいけど、以前から心待ちにしていたイベントの日とか、仕事上重要な会議がある日とか、結果によって進路が左右されてしまう大事な試験の日とか、そういう日の朝に多少熱があってもお腹が痛くても、休むという選択肢はなかなか思い浮かばないのではないか。まして微熱くらいなら、滅多なことでは休まないと思う。

 逆に簡単に「休もう」と思える状況は、どんなものだろう。当然ながら、さして重要でない用事の時であろう。誰かとの義理で(半ば迷いながら)約束したこととか、ちょっと行ってみようかなと軽い興味があっただけのこととか、そういう時にちょっと微熱があれば、ちょっと腹痛があれば、ちょっと具合が悪ければ、ちょっと都合が悪ければ、あるいはちょっと面倒だなと思えば、容易に「今回は休もう」という発想になるはずだ。

 教会に時々きていた若者Aくんの話を紹介しよう。彼は決して熱心でなく、礼拝は休みがちだった。Aくんはどちらかと言うと、礼拝が終わった頃に裏口からコソッと入ってきて、お菓子をつまんだりおしゃべりしたりするのを楽しむ子だった。礼拝に誘うと「来週は必ずきます!」と元気よく言うのだけれど、いざ来週になると「歯が痛いから」「体がだるいから」「逆さまつ毛の治療に行くから」とかイロイロ言って休んだ。さて、彼は毎週毎週「悪魔の攻撃」を受けていたのだろうか。ちなみに言うと、逆さまつ毛の治療は日曜日にはできないはずだけれど。

「教会に行こうと思っていたけれど、微熱が出たから行けなかった」というのは、私に言わせれば「今回は遠慮します」という遠まわしな意思表示に他ならない(もちろん例外もあると思うが)。それを「悪魔の攻撃だ」とか「あー悪魔の常套手段だね」とかしたり顔で言うのは、何とも痛々しくないか。悪魔ウンヌンとか天使ウンヌンとか霊的にウンヌンとか言う前に、人間とはどんなものかを、もうちょっと考えた方がいいと私は思う。

 もしかしたらこういう反論があるかもしれない。「中には誠実に約束を守る人もいます」
 大丈夫。そういう人は微熱くらいじゃサボらないから。

2017年1月3日火曜日

年始に「決意表明」しない理由

 一年の計は元旦にあり、という訳で年の初めにイロイロ「決意表明」する人がいると思う。クリスチャン界隈でも少なからずいるようだ。

 年が明けて、フレッシュな気持ちで新しいチャレンジをしようと思うのは理解できる。たしかに年の初めは、何かを始めるには良いタイミングかもしれない。
 しかし私個人は、元日に特別な「決意表明」はしない。というか元日でなくてもしない。イロイロ考えて「やる」と決めたことをやるだけで、それを他人にアピールしようとは思わない。今回はその理由について書いてみたい。
 ではさっそく。

■私が年始に「決意表明」しない理由

①継続できるかどうかわからないから

 ここでも何度か書いているけれど、何でも始めることより、継続することの方が大切だと私は考えている。
 何でも始めるのは案外簡単だ。クリスチャン界隈でもイロイロ始める人たちを見る。けれどそれをどんな形であれ継続し、1年後も2年後もやり続けている、という人は案外少ない。イロイロ事情があるのだろうけれど、途中で断念してしまう人が多い。

 こういう関連の話で聖書、特にキリストが何と言っているかというと、(意訳すると)「できるかどうかまず考えなさい」だと思う。余裕があるならルカの福音書14章を読むことをお勧めする。塔の建設や戦争のたとえが紹介されている。

 もっとも聖書を引用するまでもなく、やる前に「できるかどうか考えてみる」のは、当たり前の話なのだけれど。

 年始に「今年は〇〇を極める!」と決意表明しても、2月を迎える前に断念してしまうとしたら、きっと見込みが甘かったのであろう。それでもし年始の決意のスクリーンショットを誰かに保存されていて、「この決意はどうしたんですか?」とか尋ねられたら、面目丸潰れになってしまう。だったら何も言わない方が良かったんだと私は思う。

 もちろんその裏返しで、「表明したからには続けなければ」というのがモチベーションになる、というケースもあるとは思うけれど。

②やってみなければわからないから

 新しいチャレンジは多くの場合、「やってみなければわからない」という側面を持っている。初めてやることなら尚更だ。
 で、実際にやってみると、思っていたより時間のかかることだったり、想定より負担の大きいことだったり、イロイロ自分のイメージと違うことだったりして、「こんなはずじゃなかった」という事態に直面する可能性がある。気合を入れて始めたことなら尚更だ。

 それでも初めのうちは、気力や新鮮さがあるから乗り越えることができる(かもしれない)。しかし慣れた頃になると状況が変わってくる。こんなはずじゃなかったという思いが強くなったり、仕事や勉強で十分に時間を取れなくなったりして、モチベーションが下がりやすくなる。

 ギターを例に挙げると、指でスケールを弾いているうちはまだ良い。しかしコードを指で押さえるようになるとハードルが上がってくる。たぶん多くの人はFやB♭あたりで壁を感じるだろう。そしていくら練習しても弾けない、という状況になると、チャレンジ精神よりも、嫌気の方が大きくなってくる。そうなると継続は難しい。

 そういうふうに「やってみなければわからない」ことなのに、「今年は〇〇を極める!」みたいな言い方をしてしまうと、後々辛いことになる可能性が高い。せめて「○○に挑戦してみたい」くらいに言っておく方が、無難だと思う。

③他人に向けて「表明」する必要がないから

 そもそもの話だけれど、自分の「決意」をなぜ他人に「表明」する必要があるのか、という点は案外見過ごされていると思う。
 本来的には、自分がこうと決めたことを実行するのに、事前表明とか、他者による認知とか承認とか、必要ない。もちろん家族や上司の許可を得なければできないことなら話は別だけれど、そうでないなら黙って始めても差し支えない。むしろ上記の①②の理由を踏まえても、黙って始めるのは賢いと思う。

 それでもあえて他者に向けて「決意表明」するとしたら、それはもう積極的に「他者による監督」を必要とする場合であろう。たとえば「英会話できるようになる」みたいな決意を表明したものの、他者の目がなければ長続きしないと自分でわかっている場合、まわりに事前に言っておくことで、「英会話は進んでる?」みたいに誰かに言ってもらえるようになる。そうやって時々発破をかけてもらわないと続かないなら、たしかに「決意表明」も有効であろう。

 ただその場合、他者に監督してもらわないとできない、という事柄を本当にやる必要があるのか、再考すべきだと私は思う。 初めから他者依存が前提になっているとしたら、それだけ自分の中の「動機」が弱いと思うからだ。なぜそれが自分にとって必要なのか、考えてみた方がいい。

④まとめ

 という訳で、私個人は年始の「決意表明」はしない。決意は自分の胸の内にあればそれでいいと思っている。

 何かを始めること、目標を持つこと、それを継続すること、それらは横文字でセルフ・マネジメントとかセルフ・コントロールとか表現されると思うけれど、つまるところ話はそこに尽きるように思う。ガラテヤ5章にも「自制」という言葉が書かれている。クリスチャンにとってセルフ・マネジメント力は大切だろう。

 そしてセルフ・マネジメントができるようになるならば、年始だろうが何だろうが、殊更に「決意表明」する必要もなくなっていくと思う。
 もちろん「決意表明」する・しないは個人の自由なので、止めようとは思わない(そもそも止めることはできない)けれど。

■関連記事

「一貫性を持つことはクリスチャンとしても大切だと思う、という話」

2017年1月1日日曜日

閲覧数最多記事で2016年を振り返ってみる

 謹賀新年。

 年始の恒例記事だけれど、今回は昨年(2016年)の閲覧数の多かった記事を、月別に紹介してみたい。各月の最も多く読まれた記事を一本ずつ挙げるのだけれど、掲載期間の短い12月分などはデータとして微妙なので、そのへんご了承いただきたい。
 ではさっそく。

■2016年の月別閲覧数最多記事

・1月
「40日断食」にみられる偽善
「40日断食しました!」「40日断食はいいですよ~」みたいな断食アピールをする人たちの偽善について。圧倒的に閲覧数が多かった。

・2月
【体験談】牧師の信徒差別・守秘義務違反・被害妄想
 いただいた体験談を紹介した記事。トンデモ牧師の妄言に傷つけられた人たちの体験談。

・3月
クリスチャン的「癒し」についてのアレコレ
「癒し」をチラつかせて人を騙すような発言を取り上げた記事。「癒されます」と無責任に言い放っておいて、蓋を開ければイロイロ条件付きの「癒しゴッコ」みたいなもので結局癒されない、というのは本当にひどい話だと思う。

・4月
クリスチャンの「祈り」と「行動」について(熊本地震に際して)
 4月に起きた熊本地震に際して、「祈りましょう」と言うなら何か「行動」してもいいんじゃないの? という疑問を提示した記事。掲載後、けっこう批判的な意見をいただいたけれど、なんかどれも言い訳がましかった。「祈るなら何かすべき」という持論に従って私が「行動」したことは付け加えておく。

・5月
「クリスチャン高校生」の「生き生きした様子」とは何か考えてみた
 この記事は2016年中最も多く読んでいただいた。大変感謝。あるクリスチャン学生会の目標「クリスチャン高校生が生き生きするように」に疑問を呈した記事。若者の「生き生き」を一つのタイプに絞らないでほしい、という趣旨。


・6月
The・ニセ預言
 私が実際に見聞きした「ニセ預言」をいくつかまとめた記事。完全にハズレているのに、今もノウノウと牧師や宣教師を続けている「神の器」ってどうなの。

・7月
「リバイバル」な「センター」をお求めになる「神の言葉」を想像してみた
「リバイバルセンターを建てあげる!」って熱く語るプロテスタント教会が沢山あり、どこも「日本のリバイバルの中心になる」と言っていて、しかもどこも同じような施設を造ろうとしている。それが「神の言葉」だとしたら整合性がないなあと思いながら書いた記事。ちなみにリンク先の動画が削除されていたので、再度こちらに掲載する(みる必要ないけど)。
https://m.youtube.com/watch?v=i8mWTqZCnR0

・8月
ウェーイでノリノリな教会の雰囲気について
 あまり日本人の習慣に合わない「ウェーイでノリノリな雰囲気」をあえて強調する教会があるけれど、(もちろんそれを楽しんでいる人もいるだろうが)けっこう無理して付き合っている人たちも多いだろう、という記事。

・9月
カルトっぽい教会の特徴と、ハマりやすい人の特徴
 タイトル通り。2016年中、2番目に多く読んでいただいた記事。カルトにハマりやすい人には本当に注意していただきたいと思う。

・10月
これ言ったら「自己啓発教」かもよワード(ツッコミ付き)
 キリスト教に似ている「自己啓発教」なるものがあると思う。彼ら自身、「自分はキリスト教を信仰している」と思っているけれど、実はキリスト教のワードを利用した自己啓発にハマっているだけだったりする。と言ったらちょっと大袈裟かな。

・11月
クリスチャンの(超独断と偏見による)SNSの作法
 SNSでわざわざ「痛々しさ」を露呈しているクリスチャンの皆さんに警告したくて書いた記事。まあ変わるとも思っていないけれど。

・12月
キリスト教の、というか宗教の「伝道」について・その2
 シリーズ記事の1つ。 効果的な「伝道」って何だろう、ということをあまり効果的でない現在のいろいろな伝道風景を見ながら書いたもの。

 こうして振り返ってみると、2016年もイロイロあったなあと思う。後半、個人的な事情で執筆速度が下がってしまったけれど、本年はまた事情が変わってくると思うので、より精進して書いていきたい。前回も書いたけれど、読んで下さっている皆さんには本当に感謝しかない。そして教会やクリスチャンを蝕む「教会のカルト化」が暴かれ、周知され、より健全な方向へと皆が進んでいけるよう、及ばずながら願うばかりである。